立ち読み:新潮 2020年7月号

かたわら/小山田浩子

 犬を飼おうとする夢を見た。捨て犬か迷い犬で、昔実家で飼っていたゴールデンレトリーバーに似た犬種なのだがちょっと違う。もっと赤みの強い茶色い毛はゴールデンにしては短くラブラドールにしては長い。高い鼻の上に横向きのシワが入っているところがニヒルかつややとぼけてもいて、黒い目は丸くおそらく子犬から若犬になったばかりという顔つきだった。はたはたと尾を振っている。尾の毛は長い。「レトリーバー系の雑種だろうね」と犬を保護した知人も言った。どこかの庭で誰かの子供がおかーさああん、ありがとーう! と叫んでいる。私は頷いた。「そうだよね、レトリーバー入ってるよね」「あとはなんだろう、ボクサーとかかな。顔の感じが」彼のところには腎臓が悪く人見知りをする老猫(私もいまだに一度も撫でさせてもらえない)がおり中型から大型になるのが予想される若犬を飼うのは難しい。他に適当な人は思いつかないし、彼が犬を拾って最初に出会ったのが一人散歩中だった私であった偶然、犬を見る私の目が輝いていること、犬もまた一目で私を気に入ったように見えること……彼はこの犬は私が飼うべきだと主張した。「さっきまでこの犬こんなじゃなかったんだよ、もっとずっとしょんぼりしてた」「本当?」聞き返すと彼の目が瞬いた。少し老けたなと思った。目元のあたりに見慣れない小じわができている。「本当だよ。すごくいいよ。そっちの家には庭だってあるんだし」「あるけど……」うちの庭は広くない上に植物も植えてある。こんな太い、まだまだ太くなりそうな脚で踏み荒らされたら一発で荒れ果てるだろう。小さい花壇、バジルとパセリとローズマリー、地植えしたばかりのプチトマトの苗もある。パーティーバルーンという品種で、一株にいろんな色の実、黄色に緑、赤オレンジ黒い縞模様などがとりどりにつき色ごとに微妙に味や食感も違うという……が、門を閉めておけば庭に犬を放しておいても逃げないかもしれないなとも私は一瞬で考えていた。プチトマトなんて実ったって一夏のものだ。レトリーバー系の寿命は長くはなくて昔飼っていたタブも確かちょうど享年十、それでも十年、十歳、彼はカーキ色のズボンをはいた脚を大きく広げてしゃがみ犬を撫でた。犬は尾をさらに激しく振り、頭をぎゅっと下げてお尻を突き上げた。タブも遊びたいときこういうポーズをとって相手を見た。彼に撫でられながら犬は私を見ていた。見返すとちらちらと視線が揺れたので私もそらして彼の手を見る。身長の割に大きな手で爪は短い。白いところがほとんどない。「庭があるっていうのはいいもんだよ。時間がないとか天気が悪いとかで散歩に行けなくても、庭でトイレをさせて少し歩かせることができるからお互いにとってすごくいい」「でも……」彼は私の迷いと本心をわかりきっているかのように静かな声で「いい犬だよ」とたたみかけた。「きっと、すごくいい犬だよ。ドン子が仲良くできるならうちで飼いたいくらいだよ。この様子だと人間不信にもなってないようだし」「……誰か捨てたのかな」「痩せてないし怪我もないし迷い犬かもしれないけど……迷子札はないし、マイクロチップも入れてないようだし」「マイクロチップ?」「皮膚に埋めこんどくと、ほら、迷子のときに役立つし、あとは捨てたりするのの抑止にもなるから。手術も簡単なんだ。痛くもないらしい……自分がされたこともないのにそう言うのは無責任だけど」彼は低い声で笑って犬の耳の後ろあたりをわしゃわしゃと撫でた。彼の爪が光る銅色の毛に埋もれては見え埋もれては見えした。犬はフウフウと荒い息を吐きながら身をくねらせて喜び、彼の手を舐めようとした。「僕は猫臭いだろ……」薄いピンク色の舌に黒い斑点があるのが見えた。タブと一緒だ。あの子にも舌にあんな風な模様があって、なにか舐めるときはそれが伸び縮みして見えた。亡くなる直前はその色がちょっと薄くなった。いや舌全体の色が濃くなってそう見えたのだ。犬は興奮した様子で地面に倒れお腹を出した。お腹の毛は白っぽい。毛と皮膚から血色が透けるお腹を彼は優しく撫でた。「それに、そっちの家で飼ってくれたら僕もしょっちゅう行って遊べるし」「そうだけど」「散歩だって協力できるし、旅行とかのときはそっちの家に行って面倒見たっていいし」「そうだけど」私はスマホを取り出して夫に電話をかけようとした。少なくとも夫の許可は絶対に必要だ。「林くんに?」彼は犬の腹を撫で回しながら「いいってよ、犬を飼うのは構わないって」「もう知ってるの?」「うん。さっき連絡しておいた。いいってさ、彼もそれで」私はいよいよ外堀を埋められた気持ちで、そしてそれをこそ私は望んでいたのだという気持ちで、なにせ私が飼うと言わねばこの犬は最悪保健所行きかもしれない、チワワみたいな小型犬ならいざ知らずこんな大きくなりそうな犬、子犬でもない、そうそう引き取り手は見つからないだろう。私は犬に手を伸ばした。私の動きを見てすぐさまぐるん、と体を反転させ立ち上がった犬は私の膝のあたりに鼻をくっつけ全身をくねくねさせた。私はその、一度シャンプーせねばならないなという感じに脂っぽく微かににおう、しかし十分柔らかくて美しい毛を撫でた。指先が地肌に触れたので優しく掻いてやる。毛と皮膚とその下の脂肪と筋肉がそれぞれの動き方で動いて温かい、犬の平熱は人間より高い。ずっと高い。犬の息が手にかかった。手首に湿った鼻がくっついた。「名前、あるのかな」「あったかもしれないけど……新しくつけなきゃね、飼うなら」犬がべろりと私の手を舐めた。少しざらついて、でも柔らかい温かい犬の唾液が一瞬で乾いて、そうだった犬の唾液はこんな風にすぐ乾いて、でもそれがまたなにかの拍子で濡れるとまた唾液めいてねばついてここを舐められたと思い出すんだそうだったと思ったところで目が覚めた。あまりに生々しい喜びの中にいたためしばらく私は寝転んだまま布団の中で笑っていたのだがだんだん悲しくなった。犬はいないし、そもそもうちはペット禁止の賃貸アパートで庭だってないしあと彼が誰だったのかもわからない。夫を林くんと呼んだ同年代にもちょっと若くも老けても見えるあの男性、その顔形の記憶がもう消えている。目も口も鼻も声も、犬は、犬はまだ大丈夫だ。触った毛の感触がまだある。いかにも無邪気そうで優しそうで裏切らなさそうな顔つきも鼻の湿りも息も、今何時だろう。目を開けてみたがカーテンの向こうは真っ暗でもなく明けている感じでもない。街灯やコンビニエンスストア、深夜まで電気をつけておく民家もあるし、だから外の明るさだけではなにも判断できない、少なくとも深夜より前ではないだろう。
 夫のいびきが聞こえる。隣で子供が寝ていた。常夜灯の光の中で、顔だけ横向きにしたうつぶせで口を小さく開けている。寝息が深い。夢にこの子は登場しなかった。いないことになっていた。私はもう一生犬を飼えないかもしれない。犬を飼うにはまずここから引っ越さねばならないし、もっと生活に余裕がなくてはならない。実家でタブを飼い始めたのは私が小学五年生、妹が四年生のころだった。私の子供がそれと同年代のときにと思うとあと四年から六年、事態はそんな風にはならないだろう。悪くなることはあっても、あと五年やそこらで、いやそれが十年でも二十年でも、もっといい場所、ペット可の賃貸物件かできれば庭つきの一戸建てに引っ越してなおかつ生活に余裕が出ている可能性はほぼない。子供にはこれからもっとお金がかかる。進学、塾、受験、その他の習い事だって皆無というわけにいかないかもしれないし、一人っ子とはいえいくらかかるか、夫がどんどこ昇給するとも思えない。私は妊娠退職してからはパート勤めだ。物価は上がり税金も増え両親は老いる。「ライフプランて、あるじゃん」いつだったか妹が言っていたのを思い出した。二人子供がいて正社員共働き、実家のすぐそばに家を建てて暮らしている。今は年に二回か三回しか会わない。「上の子が下の子が高校行くまでにいくら、大学入るまでウン百万私立だったら都会に出るって言い出したらプラスウン百で何年に一回車買い換えて家のローンはあと何年でダンナと私の定年がいつでっていうの表にしていって、どれくらいお金がいるとか足りないとかを計算するやつ。あれね、どうやって計算しても、どっかで宝くじで一億円当たるとかいう目がない限り成立しない気がする。いや、計算上はぎり可能でもよ? 宝くじ当たるより大病するとかなんかで被災するとか、そっちの方が可能性高くない?」突然子供が歯ぎしりをした。ガリ、ガリ、私の子供はときどき歯ぎしりをする。毎日ではないし長時間でもないのだがかなり力がこもっているような音、一度歯医者で相談したが、「よくあることです」「よくあることなんですか」ええ、と大きなマスク越しにも明確な無表情で頷いて歯科医は手にぴっちり貼りついていたつるつるした青いゴム手袋を剥がして足元のゴミ箱に落とした。ゴミ箱はペダルを足で踏んで蓋を開閉するタイプで、がしゃんと大きな音がした。子供は口を小さく開けて診察椅子の前に設置された小型テレビのディズニーチャンネルを凝視していた。明らかに日本のではない造形の性別がわからないキャラクターが画面中を飛び回っている。「ひどいお子さんだと、歯の噛み合わせ側がツルツルになるまで削れてる方もおられますけどね。おたくのお子さんはそういうことはないですからあまり気になさることはないでしょう。どうせ乳歯で抜けるんだし」ガリ、ガリ、でも、なんというか子供の小さい薄い象牙色の歯がぱきっと縦に割れるんじゃないかというくらい重みのある音なのだ。頭蓋骨ごと歪むんじゃないかというような。子供は平和そうな顔で、眉間とかおでこにしわを寄せているとかもなく、ただ口だけが横に動いて凶暴な音がする。「そもそも、なんで歯ぎしりするんでしょうか」「この年齢だと、乳歯が抜ける前の違和感かもしれませんね」「じゃあもうすぐ抜けるんですかね」「どうでしょう。年齢からするともういつでもおかしくはないですが、まだぐらついている歯はなさそうですね」「遅いですか」「遅めですが異常ではないです」保育園ではかなりの子の歯が一本か二本あるいはもっと抜けている。「うちの子さー、なんか大人の歯がズレて生えてきちゃっててまだ乳歯が抜けてないのに!」「えー!」顔はわかるが親しくない母親たちが保育園の門の前でしゃべっている。「で、慌てて歯医者さん連れてってさー」「どこの?」「バイパス沿いの。水色の象の看板の」「ああー、子供専用のとこ?」「そうそうそう。あそこいいよ、スタッフもみんなすっごい優しいし先生も女医さんだし椅子も子供サイズだから楽そうだし上の子の矯正もそこでやったけどきれいにできたよ」「あー、矯正。うちもそこにしようかなあ。今のとこ先生ちょっと怖いんだよね」「先生大事。で、そしたらこんななるまで気づかなかったんですかって言われてもうがっつり生えてますよ後ろからって、でも私毎日ちゃんと仕上げ磨きしてたんだよ、しあげはオカーアーサーンつって、マジで毎日口の中見てたのに知らないうちにそんななっててさー、こんだけ生えてたらお口に変な感じあったんじゃないカナー? って言われてんのに本人もゼンゼーンってへらへらしてて」乳歯が抜けたら歯ぎしりは治るのか。もし歯が抜けても永久歯になっても歯ぎしりしていたらどうすればいいのだろう。大人で歯ぎしりをする人だっているわけだし、マウスピース、それに自分では気づかないうちに私だって歯ぎしりしていても不思議ではない。夫も自分のいびきには気づいていないようだし。今何時だろう。いよいよ目も頭も冴えていたがここでスマホを光らせて時間を確認したら余計に眠れなくなりそうだった。最近よく夜に目覚める。すごく嫌な夢を見て目覚めることもある。内容は覚えていないがとにかく嫌な気配や感触や感情が体内に残っているような、叫びたいような、隣で寝ている子供に謝りたくなるような、今までのうのうと生きて来た自分を問い詰めたいような問い詰めてなにになるんだというような、それらに比べたら今日のはいい夢だ。すごくいい夢、いい犬、だからさみしい。犬、犬、タブのこと、タブは私が大学生のときに亡くなった。実家の玄関に遺影というか写真が飾ってあって、帰るたび思い出すということはそれ以外はほとんど忘れている。久しぶりに思い出した、ごめんねタブ、タブはいい犬だった。犬嫌いだった同居の祖父が亡くなったのを機にというとなんだか薄情だがまあそういうタイミングで父親が知り合いからもらってきたゴールデンレトリーバーで、優しい顔つきにやや細身の体型、スイカと水泳と家の階段が好きだった。私が階段の下に立って途中の段におもちゃの小さいボールを投げると跳ね返ってこちらに戻ってくる、それを階下で待ち受けるタブがくわえる。私が普通にボールを投げるよりその方が多分どこにどう動くかわからなくて面白かったのだろう。力加減や角度でボールが即座に鋭角に返ってくることもトントンゆっくり落ちてくることもあって、それぞれにタブは盛大に毛の生えた尻尾を振り小走りしてあるいはちょっと飛び、ときどき自分の毛に滑って転んで壁にぶつかった。本当はタブは外で飼うはずの犬だった。ゴールデンレトリーバーは豪邸ではない日本の屋内で飼うには大きい。子犬をもらうと決まり乳離れを待っている間に父親が犬小屋を作った。祖父が生前丹精していた家庭菜園を潰して踏み固め上に芝を植えて、スヌーピー的なミニチュアの家型ではなくアルミでできた柵に扉をつけ上に平らな屋根を載せた物置きっぽい犬小屋で、家から様子がよく見えるように庭のど真ん中に設置した。窓のすぐ前、子犬が成犬になったら普段はそこですごさせて天気が悪いときや寒いときだけ家の中に入れようという話だったのにいざ子犬を飼い始めるととてもじゃないがこの子を庭に出しておくなんて考えられないという空気になり最終的に犬小屋は一度も使われなかった。さっさと撤去すればよかったが父親が堅牢に作りすぎて取り除くのも大変だったのか、今でもそのまま実家の庭にある。この前里帰りしたとき子供が面白がってその中に入ったので叱った。自分でも思っていたより激しく叱ってしまって子供は泣き出して、いつもそこで遊んでいるらしい妹の子供たちは別に入ってもいいんだよーと言い、危なくないよ、怖くないよ、なんでダメなのおばちゃん説明してよ説明、セーツーメー! 自分でもなんであんなに叱ってしまったのかよくわからない。檻の中のようなビジュアルに耐えられなかったのか、やっぱりそこはタブのものだとでも思ったのか、一応外からかけられる鍵もついていたがそれはさすがに危ないので父親に外してもらったのだと妹は言った。そこは四角く錆びた穴になっていた。屋根つきで日陰になっている時間が多いせいか柵の中に生えている雑草の色が薄かった。隅に古そうなホースが丸めて置いてあった。ホースにけばけばした白いもの、埃か野良猫の抜け毛か古い蜘蛛の巣かなにかが絡みついていた。妹は最近このへん猿が出るんだよと嫌そうに言った。「だから猿の毛かもしれない。いくらうちが田舎だってさ、猿なんてどうかしてない? 嫌だね、こんなとこで雨宿りでもされてるんなら、お父さんたち元気なうちにどうにかしてもらわなきゃ」結局、タブの寝床は居間の壁際になった。母がフローリングの上に防水弾性加工のクッションフロアを敷きその上にトイレシートと水飲みの皿を置いた。居間はほとんど犬部屋めいて狭くなり、部屋の四隅や机や椅子などの脚にはいつも抜け毛が溜まった。タブの毛は生えているときは薄い茶色なのだが抜け毛一本だけだと白く見え、それが何本かかたまるとまた茶色く見えた。ブラッシングで集めた毛を詰めた小さいクッションができた。手のひらに載るくらいのサイズだがぱんぱんに張り詰めたピンクでハート型の手縫いフェルト、純毛、私は当時嫌っていた同級生が犬猫アレルギーだと聞いて、そのクッションを送りつけてやろうかと思ったが想像するだけで満足して送らなかった。あのクッションは捨てていないから実家のどこかにあるだろう。いや、焼いたかもしれない。タブの遺骸と一緒に焼いた気もする。
 タブが亡くなって、母親がかかりつけの獣医に献体したいと連絡し父親と大げんかになった。父親は五体満足でタブを焼いてやりたかったらしい。母親になんでそんなことをするんだと言い、母親はだって最後にお世話になった先生方のお役に立ったらうれしいじゃないと言い返し、それにしたってなんの罪もないあの子をバラバラにするなんてありえないだろう。獣医学の進歩に貢献できたらタブは絶対喜ぶと思うけど。進学で家を離れていた妹は残念だけど帰れない急いで帰ってタブに会えるなら帰るけどもう死んじゃってるんだもんね解剖もだからどっちでもいいと私は思うけどお姉ちゃんはどうなのと涙声の電話で言い、私ももう死んじゃってるんだから解剖したってしなくたって同じだと思うし焼いたらどうせバラバラになるんだし、結局、連絡時診察中で電話に出られなかった獣医から折り返し電話がかかってきて今は犬の献体は間に合っていると断られた。お申し出に感謝いたします、よろしかったらペット火葬業者をご紹介しましょうか。教えられた業者に依頼するとその日のうちにタブは運ばれていき骨になって帰ってきた。献体を申し出たことへの感謝で獣医が口添えでもしてくれたらしく、本来は大型犬コースのサイズのわんちゃんですけれど小型犬・猫コースでお承りしましたと言われ明細書にもそう書かれていて母親が小型犬分の火葬料金を支払った。タブの骨は青みがかった陶器製の骨壺に入っていた。その骨壺も小型犬サイズだったのかそれはちゃんと大型犬サイズだったのかよくわからないがとにかくぎっしり詰まっていた。大きい骨はほとんどなくて粉っぽかった。骨は海に流した。車で二十分ほどの距離にある、べたつく潮風にも塩分が含まれているような、人間はそもそも遊泳禁止で釣り人もいない貝殻や漂着物でサグサグの砂浜が最寄りの海で、タブはそこで泳ぐのが好きだった。海水が腎臓に悪いからと獣医に言われた中年以降はそばへも連れて行かなくなったが、若いころにはいつまでも波の間を泳いでいたがった。タブは呼べばちゃんと戻ってくる犬だったが、海の中にいるときは呼ばれてそれに反応してこちらを見、実際に戻ってくるまでの間がそれぞれほんの少し長かった。海面の灰色をした泡にタブの骨がくっついてゆっくり沖へ行くのを見て父親が泣いた。確か父親は仕事を休んだのだろう。私も大学を休んだ。母は専業主婦だった。海は波がなく浮かんだ骨がどこまでも視界から消えず私たちは立ち去るタイミングがわからなかった。黒い鳥が飛んでいた。白い鳥も灰色の鳥もいた。小型犬を連れた若いカップルが私たちを訝しそうに横目で見ながら砂浜を歩いていった。青い服を着て楽しそうに丸く短く整えられた尾を振って鼻面を砂浜にふんふんくっつける薄茶色い小さい犬、多分まだ子犬、あの犬は生きていてこれから当分生きるのにタブは死んじゃった、帰りの車を運転しながら、せっかくだからなにかおいしいものを食べて帰ろうと提案した母を父親は化け物でも見るような目で見たがランチタイム終盤の蕎麦屋へ入って座敷に座るころには泣き止んで目も赤くなくて僕は天ざるにしようかな。あ、私も。私もそうする。天ざるを三人前頼むと店員が申し訳ありません本日天ぷらがあと一人前しかないんですなぜだかお客さんがみぃんな天ぷら物をご注文くださってもうエビがと言ってじゃあ僕はざるそばでいい、なら私はきつねそば、あんたが天ざる食べなさい。私はやってきた天ぷらを両親にも勧めたが二人は食べなかった。華やかに白い衣をまぶされたエビをかじると変に柔らかくて生焼けのような感触がした。冷たいそばはきこきこと硬かった。エビの尻尾を昔タブが食べちゃったことがあったなと思い出した。誰かが皿に食べ残していた天ぷらかフライのエビの尻尾を突然タブが丸呑みしたのだ。犬は野生だったら動物の骨とかも食べてしまう獣なんだし、エビの尻尾なんてごく小さいものだし大したことではないだろうと放っておいて、後日ノミよけ剤をもらいに行った獣医にその話をしたら犬がああいうものを噛まずに丸呑みして食道や胃が傷ついて大ごとになるケースもありますからねと想像以上に厳しい口調で言われた。エビの尻尾はあれで鋭く尖っているし、例えば人間が食べ残していた手羽先の骨を雑に噛んで飲んじゃったワンちゃんの内臓が傷ついて緊急開腹手術になったケースもありましたから気をつけてあげてください。以来私たちはエビの尻尾を噛み砕いてから飲みこむようになった。いや違う、最初母はエビの尻尾を取り除いて天ぷらを作ったのだが、それじゃあエビじゃなくてなにか芋虫みたいであんまりだということになって以降そうなった。食卓に出たら真っ先に自分の分のエビの尻尾を食べる。タブは食卓のものを漁るような犬ではなかったのにあの日はどうして急にエビの尻尾なんて呑んだのだろう。よほどいい匂いがしたのか。私は天ざるのエビの尻尾を皿の隅に残した。本当はエビの尻尾は好きではない。硬いし歯の間に挟まるしおいしくもない。私より早く食べ終えていた両親はそれを見てなにも言わなかった。帰りの車で父親が助手席でうとうとしていて、運転する母は小さくハミングしてそれは長い独り言にも聞こえて、ラジオから甲高い声のローカルタレントがグルメレポートのようなことをしゃべっているのが聞こえたが意味がよくわからない、車窓が速い。朝炊けるようにセットしてある炊飯器がガタリと鳴った。ということはあと三十分ほどで起きる時間だなと思った直後に子供がおしっこ、おしっこ、ねえおしっこと私に話しかけていて枕元ではスマホのアラームが鳴っていた。夫が洗面所を使う激しい水音も聞こえた。

(続きは本誌でお楽しみください。)