立ち読み:新潮 2021年4月号

象の皮膚/佐藤厚志

 頭がぼんやりするほど暖房の効いた保健室に、母親に伴われた児童らがパンツ一丁という格好で整列していた。アイウエオ順で振られた出席番号に従って、五十嵐りんはアイザワという女の子に続いて二番目で順番を待っていた。肩に置かれている母親の手を、凜は粘土でも乗せられたみたいに重たく感じた。小学校に入学して初めての健康診断で、男児も女児も、不安そうに爪を噛んだり、鼻をほじったり、母親と手をつないでもじもじと無意味に動いたりしている。
 凜の級友は七人で、喘息やアレルギーが原因で虚弱体質だったり、身体に障害がある子供のための特別学級だった。
 外の四月の空はどんよりと曇っていた。霧を吹きかけたように窓に水滴がついて、中庭の竹林の景色がぼやけている。立ったまま眠気を催した凜は、自分の名前を三回呼ばれたのち、代わりに返事をした母の声でようやく顔をあげた。
 三角おにぎりの輪郭をした男性小児科医が手招きする。凜はこの医師の醸す雰囲気に怯んだ。力士並の巨体で、少ない髪の毛をポマードでオールバックにしていて、もみあげが岩に張りついた海苔のように口のすぐ横まで広がっている。額は油っぽい汗が滲んで光っていた。その汗が蒸発して密閉された部屋に充満しているような気がして凜は不快だった。
 健康診断を始める前に「タグオ先生です」と助手を務める若い女性養護教諭はその医師を紹介した。田郷なのか、田合なのかわからないが、凜には「タグオ」と聞こえた。身長と体重を保健教員に計ってもらった後で、診察を待つ。
 ここへ来なさい、とタグオ医師が言うとき、脂肪のたっぷりついた顎がぷるぷると揺れた。凜が母親の顔を見あげると、母親は励ますようにほほえんだ。押し出されるようにして凜は進み出た。
 タグオ医師は頬の厚い肉によって押しあげられた細い目を動かして、凜のアトピー性皮膚炎に覆われた全身の赤い皮膚を見ると「痒いかい」と聞いた。
 凜は頷いた。
 タグオ医師は凜の腹と背中にひとしきり聴診器を当てて呼吸音に集中してから「喘息もあるね」と言い、向き直った凜と目を合わせた。事務椅子に座るタグオ医師の、自分の胴回りより太い両の足に挟み込まれる姿勢のまま、凜は顔を伏せ、たっぷりとふくよかな顎から巨大な下腹へと視線を落とした。
 おや、とタグオ医師は凜のこめかみの湿疹に気づき、陶器の焼き色でも鑑定するような手つきで凜の顔を支え、補助照明が患部によく当たるようにゆっくりと斜めに傾けた。ほお、なるほど、とタグオ医師は喉の奥で低い音を響かせた。
 凜は空気を注入して膨らましたような医師の指に前髪をかき分けられるのに怖気を感じながらじっと耐えた。
 やがてタグオ医師は凜の体をくるりと反転させて受診を待つ親子と向かい合わせた。それに合わせるように控えていた養護教諭が、背の低い衝立を取り払った。五組の親子の視線が凜の赤い肌と、そして医師が豚の蹄のような二本の指で示している凜のこめかみの湿疹に容赦なく視線が注がれた。数週間ほど前からこめかみに現れた円形状の湿疹は表皮がむけて白っぽくなっていた。
 みなさん、これはカビです、とタグオ医師は言った。
 母親たちは囁き合うことはしないで、心配することはないというようにそっと我が子の頭に手を置いた。
 カビですって、と凜の母が驚いてつぶやいた。
「これはアトピーの湿疹じゃない」とタグオ医師は続けた。「カビだ。正確にはカビの一種で白癬菌によるものです。わかりやすく言うと水虫とか田虫ですな。つまり人にうつる。頭にもうつるし、腕にも足にもお腹にも背中にも股間にもうつる。病院で診てもらうといい。アトピーで通っている病院があるでしょう」
 凜の母は恭しく礼を述べた。
 服を着て退室するとき、まだ凜から目を離さないでいる親子が一組か二組あった。凜は列の後方にいた女の子と目が合った。そしてこれはほんのわずかの仕草だったから凜の母親はわからなかったようだが、凜と目を合わせた女の子は、凜がドアノブに手をかけたときに、わずかに体を引いた。
 かかりつけの秋葉皮膚科で診てもらうと、こめかみの湿疹もアトピーに違いなく、白癬菌によるものでないとはっきりした。白髪の秋葉医師はピンセットで凜のこめかみの皮膚をブチブチとちぎってプレパラートに採取し、電子顕微鏡で調べ、その画像を見せて説明してくれた。
 よかったねえ、と母は言った。凜は肌が黒ずんでるから白い湿疹が目立ったのよ、水虫だったらお風呂の足ふきマットもタオルもスリッパも気をつけないといけなくなるからねえ。
 そう聞いて、潔癖性の母親が心配していることが、自分の疾患より家族の衛生だということに凜は思い当たった。皮膚病をうつされるのはごめんだ、と言われた気がした。
 小学校では、同じ年の子供たちは皆、美しい肌を持っていた。健康な肌を持っている人間なら誰でも羨ましかった。男子の泥だらけの膝小僧さえ眩しく輝いて見えた。自分の肌だけが赤黒く沈んだ色合いを帯びていた。大勢でいると太陽の黒点のように目立ち、注意を引き、決して気持ちを明るくしない肌。凜は健康診断の後から、無邪気な級友からカビと呼ばれた。カビじゃないもん、ちゃんとせんせいにみてもらったもん、と言うと笑われた。やっぱりカビだったんだ。おいしゃのせんせいはカビじゃないといったけど、やっぱりわたしはカビだったんだ。そう思うと、自分だけが薄汚れていて皆に迷惑をかけていると感じた。学校生活はほんの数日で死んだ。どの日も、かけがえのないものでなく同じ日だった。二年経つとクラス替えがあった。三年生から特別学級の生徒らも通常学級へそれぞれ編入された。かつての級友から伝え聞いて凜をカビと呼ぶものがあった。その言い方は一年生の時のじゃれ合うような調子の愉快な響きは消え、かわりに毒々しくトゲがあり、凜を排除する悪意が込められているようだった。
 家は家で似たようなものだった。同じ小学校に通う兄が凜をカビと呼び、弟がまねをし、父もそれを面白がった。中学へあがっても同じだった。学校生活は長かった。生徒も教師も恐ろしいと感じた。凜の他にもクラスにひとりはアトピーの生徒がいたが、お互い暗黙のうちに避け合った。
 同じ苦労はそれから二十年経っても変わらなかった。凜は現在、書店で働いている。高校を卒業して一度、別の書店に就職したが、夏に半袖の制服を強要されたので辞めてしまった。腕の湿疹を晒したくなかったからだ。今は長袖の着用が許容される書店で契約社員として働いている。毎年夏になると決まって同僚や上司に「なんで長袖着ているの」と聞かれた。その度、凜は「寒がりなんです」と答えた。

(続きは本誌でお楽しみください。)