立ち読み:新潮 2021年8月号

たんぱく質/飴屋法水

1 疑問
 どうしてもわからない。鳥の餌。ヒエとかアワとかああいうやつのこと。だって鳥かごの小鳥は、あればっかり食べている。毎日毎日、飽きもせず、ヒエだのアワだのばかりを食べて、水を飲んで。
 あ、時々、小松菜とか、そういうのをあげる飼い主もいるか。あとはカルシウムということでカルボーンとか。鳥かごの、あの檻というかケージの隙間に、白い、カサカサと乾いた硬いスポンジみたいな、確かに骨にも見えるような、確かカルボーンという名前で売られているあれを刺す。カルはカルシウムでボーンは骨でしょうけど、あれはイカの背骨っていうか甲と呼ばれるものだ。あれ? 違うか、カルボーンはお菓子の名前か。インコが齧ってるのは何だっけ?
 いずれにせよ、今、私が話したいのは主食のこと。そう、毎日毎日、小鳥たちが飽きずに食べている、あのヒエとかアワとかのことなんです。

2 無脊椎動物
 タコには背骨は無い。イカにはあるのかもしれないが、少なくともタコにはない。タコの体はぐにゃぐにゃだ。水槽で飼育して、ほんの小さな隙間からも脱走できる。昔、関節を外して監獄から脱走する名人がいたそうだが、タコには関節どころか骨格というものが一切ない。それからタコは頭がいい。餌を入れた瓶を渡すと、器用に蓋をグルグルと回して開けることができるらしい、それに記憶力もある。タコの私がいうのだから間違いない。
 そう、吾輩はタコである。ネコではない。こんなダジャレのようなことを書いたのは、過去、路上で警察官に職質された時のことを、今、思い出したから。

3 告白と懺悔1
 今、ズルをしました。この場に遠慮して。
 いや、遠慮して、という言い訳までズルい。私は単にごまかしました。だってここになにを書いても嘘か本当かわからない。誰にもわからない、でも自分にはわかる、わかってしまう。私は今、嘘をつきました。

4 汝、盗むなかれ
 本当は自転車を盗んだんです。盗んだというか、他人の自転車に乗りました。酔った帰り道、駅前に放置してある自転車を物色し、鍵がかかってない1台を見つけ、それにまたがって走り出しました。酔ってました。駅から歩いて帰ることをサボりたかったんです。
 家の近くまでいって、そのまま乗り捨ててしまえばいいと思った。所有する気はなかった。それなら盗みにもならないだろう。ちょっと借りただけだと、後で言い訳するやつだ。出来心です、つい魔が差しました。逃げ道残してるぶん、さらにズルいタイプのあれだ。
 ハンドルに手をかけ、サドルにまたがり、フラフラとペダルを漕ぎ出した。とたんに警察官に呼び止められた。まるで近くで様子を見ていたみたいに。
 ちょっと止まって。
 それ君の自転車なの? 君、名前と住所は?
 防犯登録、調べさせてもらっていいかな。
 私はそのまま管轄の警察署に連行され、自転車とはいえ窃盗の、しかし初犯ということで前科には至らず、調書を書き、犯罪予備軍として両手の指紋を警察に記録することとなった。まあ、ずいぶんと若い頃の話だ。

5 路上
 それまでも路上で、いわゆる職質を何度となくされてきた。職質とは何の略だろう。職業質問などという言葉は一度も聞いたことはない。なんの略かも知らないままで私はずっと使ってきた。使っていた。ああ、職務質問なんだろうか? そんな気もしてきたが、職務質問と言ってみたところで、やはり意味はよくわからない。私はもう60歳だ。還暦だ。還暦の私がこれを書いている。自分の過去を振り返っている。それは死が近づいたからなのか。そういう気配を感じるからか。
 動物は死を予感するだろうか。そもそも、死、という概念と並走しながら生きたりするだろうか。

6 家族
 45歳になった。娘が一人生まれた。その時からだ、職質をされる機会が突然に減った。
 減ったというか皆無になった。小さな娘と歩いているだけで、なんというか不意に社会の構成員として認められたようなのだ。ああ、あれか。これがつまり生産性に寄与するということか。
 ベビーカーを押している最中ならわかる。しかしたった一人でフラフラ歩いていても、もう職質をされることは無くなった。
 雰囲気か。雰囲気みたいなものか。まさに身についた、身に纏わりついた立ち振舞いの、ニュアンス、のようなものか。安心というか安定というか、まともというか。
 自転車で、うっかり電池が切れて無灯火のまま走ってたとしても、それで警官やパトカーといくらすれ違っても、もう呼び止められて、職質されることが無くなった。
 パトカーからマイクで、はーい自転車点灯してくださーいなどと声をかけられることはあっても、どこか優しく扱われてる。この違いはなんだ。年を取れば、扱いが変わるということか。確かにおおむね警官のほうが年下だろう。単に頭髪の問題か。白髪が増えただけの年功序列か。それとも、どこか表情も違うのだろうか。私の顔は変わったか。これが父親の顔なのか。
 鏡を見てもわからない。

7 丑三つ時
 一度だけ、娘と散歩している最中に職質された。
 あれは散歩の途中に眠くなり、ビルの陰のアスファルトの上に寝転んで、そのまま目を閉じ、寝てしまった時だ。
 隣で娘も一緒に寝ていた。いや寝てただろうと思っていたが、今、こうしてここに書いてみると、本当に寝てたのか。寝てしまった私に困って途方にくれて、私が目を覚ますのをじっと待っていただけか。そうだとしたら悪いことをした。

8 容疑
 すいませーん、もしもーし。起きてくださーい。
 目を開けると頭の上に、体の周りに、数人の警察官がいた。数人は大げさだろうか、いや少なくとも4~5人はいた。囲まれていると思った。そう感じた。
 あなたのお子さんですか?
 つまりそのような時間、およそ明け方の3時だったか5時だったか、そんな時間だったと思う。そういう時間に、私はいつも娘と二人で散歩に出ていた。毎日のように。
 ああ、そうだ。これを書いているこの今も、朝の2時半を少しすぎたところだが、いわゆる丑三つ時というやつか、起きて隣の部屋で一人で絵を描いている娘に、もうちょっとしたら外に行こうかと私は声をかけたばかりだった。そのくらい娘も夜ふかしだった。あの頃も。
 そうやって、そんな時間に、小学生にも満たない女の子と、路上というか、歩道の脇のビルの隙間のようなところで寝転んでいる白髪の男の組み合わせは、親子というようなカテゴリーからは、まあ外れて見えたのだろう。

(続きは本誌でお楽しみください。)