立ち読み:新潮 2021年8月号

祈りの痕/中西智佐乃

 瞼に滲みた光が、少女の沈んでいた意識を浮き上がらせていく。まだいいからと自身に言い聞かせるが、そうした時点ですでに目覚めかけていて、力の加減がわからないというような不規則な足音が追い打ちとなって目を開けた。頭上にあったスライド式のドアが少し開いており、廊下のオレンジ色の光が黒目を刺してきた。ドアの向こうの廊下の壁に柔らかいものがぶつかり、擦れる音がする。母が帰って来たのだ。毛布の下で肘をつき、半身をひねってドアを見上げる。十二月上旬の冷たい空気が首に触れ、どうしようもなく毛布をかぶり直したくなるが、布団をめくり、ぬくもった空気が逃げないように元に戻してから、薄いカーペットの上を四つん這いになってドアの方に向かった。かすかな隙間から廊下をのぞくと、右手の玄関側で、母が壁に身体を擦りつけて立ち上がろうとしている。スキニージーンズで覆われた脚はひどく細い。あと少しで大人の身体をつかみそうになっている少女に、とてもよく似た身体つきだった。母は頭の横を壁につけ、一歩、二歩と進み始めた。足がうまく床につかず、バランスを崩し膝をついた。母は夜に飲み屋でバイトをしている。そこのお客さんにお酒を勧められることがあるそうだ。酒に強いのだが、今夜は相当飲まされたのかもしれない。母はその場で止まってしまった。力なく首を垂れ、明るい茶色に染められた長い髪が、顔を覆い隠してしまっている。どうしようと少女は思う。起こして肩を貸した方がいいのか。それとも、もう少し待ち、完全に眠ってしまってから毛布と布団をかけてあげた方がいいのか。母が望んでいることをしたい。母の顔が持ち上がり、少女は口を押さえた。卵型の輪郭、細く整えられた眉、切れ長の目、小さな鼻が繊細に配置されている。少女の目にも、母は美しかった。それは母にどことなく似ていると度々言われる少女にとっては、とても恐ろしいことでもあった。口紅が剥げ、色がなくなった母の薄い唇が持ち上がる。少女は目を凝らす。母の目尻が柔らかく動く。
 笑っている――
 母は壁にまた身体を擦りつけて立ち上がり、足音をさせて廊下を歩いて行った。少しして水の流れる音がし、母の部屋の襖が閉まる音がしてから少女は廊下に出て灯りを消し、布団に戻った。毛布と布団を肩までかけると、服の間に入り込んでいた冷気が肌に触れた。きつく毛布を身体に巻き付けていく。目を瞑り、沈むように力を抜いていくが、母の笑った顔が揺れる。それが少女の心臓をさわさわと刺激し、眠りに落ちるまで、何度も毛布を巻き直すことになった。

     *

 暗証番号を入力し、解除の電子音を聞きながら、野口美咲は右手でドアノブをひねった。左肩をドアに当て、体重をかけて押し開ける。鉄製のドアは重く、数歩中に入り、身体をひねって手を離す。閉まるとすぐに金属同士が接続する音がした。クリーム色の廊下を進み、事務所を過ぎ、トイレを済ませ、クリーニングされた制服を取り、角を曲がり、男子更衣室の向こうの女子更衣室の中に入っていく。
 右側に大きな靴箱がある。一五三センチの美咲よりも二十センチは高い。美咲はその真ん中辺りの下から二段目のスリッパを取り、ベージュのコンバースのスニーカーを入れた。
 目隠しのために吊るされたカーテンをめくって擦り切れたカーペット張りの床に上がる。右側にロッカーの鍵管理ボックスがある。鍵の上にあるボタンを押して点滅させ、四桁の暗証番号を打ち込んで抜き取る。ロッカーが列になって並んでいる。午前七時半の女子更衣室に人の姿はまばらだ。「野口」とマグネットが貼られたロッカーを開けた。
 制服をひっかけ、リュックを足元に置き、ロッカーの扉の裏側にある鏡を見る。ショートカットの黒髪、逆三角形の輪郭に奥二重の目、丸い鼻、唇は厚くも薄くもないが、色が白いため、赤さが目立った。
 鏡の下にある入れ物から櫛を取り、髪を梳かしてから裏ボアのパーカー、チノパンを脱ぎ、制服の白いズボンのハンガーに手を伸ばした。
 横には上衣、メッシュ素材の水泳帽のようなものと、肩たれがついた頭巾タイプの帽子がかかっている。どれも毎日着ては、洗濯しているので繊維が粗くなってしまっている。上衣は首元が擦れて穴があいてきたので交換しないといけない。メッシュの帽子を手に取り、鏡を見ながら被っていく。左右、前後を確認し、人差し指で髪を押し入れた。マスクをつけ、頭巾をかぶり、顎の留め具をかみ合わせる、肩たれが入るように上衣をはおり、二重構造になっているネット部分のボタンを留め、上衣のチャックを上げる。痩せているわけでも太っているわけでもないが胸に膨らみはなく、二十四になった今も、スポーツブラをつけているので胴の部分がのっぺりとしていた。
 ロッカーの鍵を閉め、管理ボックスの元の位置に差した。これから向かう工場には、何も持っていけない。女子更衣室を出て、廊下のつきあたりを右に曲がると工場へとつながる渡り廊下に出る。窓から入ってくる、三月のおずおずとした光の中を歩いていくにつれ、香ばしく、甘いにおいが強くなっていく。廊下の先にまたドアがある。今度はさほど重くないドアを開けた。
 いくつもの靴箱が並び置かれている。美咲は自分の靴箱にある白い作業靴に履き替え、部屋の奥にあるドアに向った。三カ月に一度変わる暗証番号を押し、中に入る。二メートルほど先に大きな鏡があり、もう一度自分の姿を見た。
 頭の先から足先まで白で覆われたおかしな姿は、美咲にはどうも似合っているように思えてならなかった。背が低いからだろうか。そういう生き物のように見える。それに加え、歳を取り、少しずつ肥えるにつれ、馴染んでいっているようだった。
 壁に並んでいる出退勤用の機械に社員番号とパスワードを入力する。短い電子音が鳴り、名前、勤務日時が表示されるのを確認した。また鏡を見る。服装でおかしなところがないのを点検する。特に帽子のふち回り。異物混入は本当に怖い。どのラインの誰が作ったのかまで追及される。
 従業員出入口と赤く書かれた自動ドアへと向かう。壁に沿って掃除機の吸い込み部分がついた機械がいくつもかけられている。持ち上げると自動的にスイッチが入り、身体の上から順にあてていく。踝まで吸わせてから、上にある粘着テープで残っているかもしれないゴミを取っていく。反対側の自動ドアの前に進んだ。開いた先には長い手洗い場がある。その上の壁にはやはり鏡があり、手の洗い方というイラスト付きの紙が等間隔で貼られている。蛇口に手をかざした。
 勢いよく水が飛び出す。両手を洗い流し、ハンドソープを掌に受け、泡立てる。指、親指の周り、手首、手の甲、爪の中、時間をかけて洗っていく。水で十分に洗い流し、ペーパータオルで拭く。湿り気を残してはいけない。消毒液で除菌し、乾燥させ、エアーシャワー室へと向かう。
 二人が通れるほどの幅しかない通路があり、両側の壁にはいくつもの穴があいている。すぐに強い風の音が部屋に響く。体の隅々まで当たるように身体をまわし、足や腕を上げる。
 通り抜け、ドアが開くとパンの香ばしく甘いにおいに身体が包まれた。機械の稼働音がいたるところから伝わり、制服の外側がかすかに揺れているように思う。
 ドアの横に貼られているシフト表を見上げる。この工場では十ラインが動いている。一ラインは十五名程度で構成され、三交代制だ。美咲は今日から五日間、朝番のシフトになっていた。
 次に配属表を見る。美咲が朝番の時にいつも配属されるラインに名前がなかった。端から名前を追いかけてみたが、やはり見当たらない。さらにもう一度見直してみようとしたら、横から声をかけられた。黒縁の眼鏡をかけた、歳は一つ上だが後輩の男性社員が近寄って来ており、美咲は視線を彼の白い作業靴に落とした。
「ライン長から伝言です。野口さんはライン3ですが、そこに今日から高校生のバイトが入ります。その子につくか、パートに教えてもらって野口さんがそのおばさんのところに立つか、どっちかにしてください」
 頷いてから配属表のライン3を見上げる。戸田という見かけない名前があり、その数個下にイワサキさんの名前を見つけた。ベテランのパートさんで、よく新人教育を頼んでいる。
「今日の発注票です。ライン3はチーズで、いつもより少ないですから、早く仕上げてください」
 プラスチックのクリップボードに挟まれた発注票を肩にぶつけるように渡される。痛みで肩が吊り上がりそうになるのを耐え、身構えたが、その次の痛みは与えられず、両手で受け取った。黒縁が入口の方に顔を向け、美咲もつられて見る。パートさん達がぞろぞろと列になって入って来た。パートさん達の帽子には黄色い線がぐるりと入っている。社員は青い線で、ライン長は赤だった。
 その中に見かけない姿の人がいた。小さいと思う。背が低いのはライン作業に向いている。それで力があればなおさらいいけれど、制服の上からでも細身なのがわかる。
 黒縁が美咲から離れていった。パートさん達は配属表を見上げ、それぞれのラインに向かっていく。これから短いミーティングが行われ、夜勤の人と交代するか、これから使うベルトコンベアの消毒などをし、流れてくるのを待つのだ。
 ずんぐりとした体形のイワサキさんを見つける。早足で近づき、あと数メートルというところで止まった。イワサキさんが横にいるパートさんに話しかけようとしたのを見て、慌てて名前を呼んだ。彼女の視線が美咲に向かってきたので、喉の辺りに焦点を置く。言葉を続けようとした矢先に「何か」と聞かれ、息を吸い込んでしまう。ちゃんとしなければ、と美咲は思う。早く言わなければいけない。けれど言葉がつかまらず、脇の下にじわりと汗が染みてくるのを感じる。
 イワサキさんが首を傾げ、「今日から入った新人さんのことですか」と聞いてくれ、美咲は謝るように頭を下げて頷いた。
「ほんなら、いつもみたいに、午前中は一通り教えて回ったらいいですか」
 美咲はさらに深く頭を下げた。イワサキさんは「戸田さん」と呼び、配属表の下に取り残されていた彼女を手招きしてから、美咲たちのラインに歩き始めてしまった。美咲がその丸い背中に続こうとすると「戸田と言います、今日からよろしくお願いします」と若いというより、子どもの声がした。

(続きは本誌でお楽しみください。)