立ち読み:新潮 2021年10月号

皆のあらばしり/乗代雄介

 天高く馬肥ゆる秋。校長先生の前期終業式の挨拶はそんな言葉から始まっていたんじゃなかったか。伸びきった草に埋もれて見上げる空は、確かに青く澄んでとても高いけれど、本物の馬は、小さい頃に東宮神社の春のお祭りで見たきりだ。
 平日の皆川城址に人は滅多に来ない。栃木駅からだいぶ離れていて、観光客も車で来るしかないようなところだけれど、今日も一台だって見当たらない。山の斜面を削るなり盛るなりして平らに作った曲輪が螺旋状につくられて、その見た目から法螺貝城とも呼ばれている。
 ぼくは曲輪を巡り、抱えているノートに挟んだ地図と照らし合わせ、胸ポケットに挿した鉛筆で書き込みしながら半日を過ごしていた。人の通らない西側は、セイタカアワダチソウとススキがびっしり生えたところを漕ぐようにして進まないといけない。
 やっと這い出たところで、ぼくはその男に出会ったのだ。息を切らせたぼくを、本丸へ上っていく階段に立って見下ろしていた。
「なんや、人間やんけ」と男は言った。「猪でもおるんかと思てあせったがな」
 ぼくは体に引っかかったクモの巣を摘まみ落としながら、何も言えずに見上げていた。
「しかし熱心やなー青年。高校生か?」
「そうだけど」
 男の人さし指が、ぼくの姿全体を囲うように円を描いた。「史跡研究が趣味かいな」
「歴史研究部だから」とぼくは言った。「あなたは――」
「ただの出張ついでの観光客や」言いながら階段を下りてくる男は、三十代だろうか、長袖の白いポロシャツにたくましい体を浮かせて迫力があった。「しかし、なかなかええところやないか。山城の遺構がこんなに残っとったら研究の甲斐もあるいうもんやろ」
「皆川城を研究対象にするかはわからない。個人研究用のテーマをさがしてるだけで」
「個人研究以外にも何かあるんかいな」
「部のみんなで、地誌編輯材料取調書の翻刻をしている」そこでぼくは、これまでの習慣からごく自然と説明を加えようとした。「翻刻っていうのは――」
「書物を原本の内容のまま活字で出版することや」と男は言った。「まあ今やったら電子テキストもあるけどな。にしても、高校生の口から翻刻なんて言葉が出るとは思わんかったで」
 後々のことを考えると、こんな先回りは驚くにも値しない。でも、何も知らなかったこの時はびっくりしたものだ。ぼくが部の活動を説明しようとして、その言葉の意味がわかる者は一人もいなかったのだから。
「このあたりは皇国地誌の下書きが残っとるんかいな」
 まして地誌編輯材料取調書のことまで知っていたので、ぼくは言葉が出なかった。それは、明治新政府が作ろうとした『皇国地誌』のために全国各村に提出させた報告書だ。伝承や地名、統計データも含んだ事細かな土地土地の情報が記載された報告書が集まったが、結局、刊行に至らなかったばかりか、関東大震災で正本の大半が焼失してしまった。
「栃木市ではこの辺りの村だけだ」
「そら、なかなか興味深い話やのー。立ち話もなんやし、どこかに座って当地を眺めながらお話をうかがいたいもんやな」男は下ってきた階段を振り仰いだ。「本丸に上がればわかりやすいか?」
「本丸の見晴台は柵があって、座ったら見通しが悪い。西の丸の方がよく見える」
 中腹にある井戸の横の枡形門を入って上る道、右手に広がる見はらし平の反対が西の丸だ。切り立った崖のようになっていて、足尾山地の末端部の間に広がる皆川城内町と、向かいの山裾に沿う東北自動車道が右手の山間に消えるまでを見渡せる。そこにあるベンチは、ぼくが皆川城址に来るたびに休憩していたところだ。
「なるほど、こらええわ」と男は植え込みの枝葉が端をのみこんでいるベンチに座り、後ろにいたぼくを振り返った。「ぼけっとしとらんで、青年も座らんかいな」
 二人で腰かけるとベンチはほとんどいっぱいだ。男は植え込みと、それを抱え込むように立っている木を検分した。
「このツバキ、ベンチに座るにもイロハモミジにもえらい邪魔やのー。そのうち伐られるんちゃうか」
「せっかく植えたのに?」
「こんなモミジの際の、固定されとるベンチも隠すような場所に苗木を植えたりするとも思えんなー。ツバキなんて種で簡単に増えるんやで」
「じゃあ、自然にここに生えたのか」
「自然に生えるにも種がいるがな。周りには見当たらんし、誰かがどこぞで戯れに取ったツバキの実をここで落としたんかもわからんな。それやって一筋縄ではいかんで。ツバキの種はな、いっぺん乾燥してもうたら発芽率が落ちんねん。何の因果か、運良くこの木陰に収まったことで乾かんと、時を待って発芽して、じわじわ伸びて、まあ人の目を楽しませるかも知らんと見逃されて、ここまで大きゅうなったっちゅうとこやろな」
 男はべらべら喋りながら、ぼくの手元を覗きこむ。
「それが青年の研究ノートかいな」
 遠慮ない調子に押されてノートを渡してしまった。よくわからないが物知りなことは確かな男に、自分の取り組みを見せたいという気持ちはあったはずだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)