立ち読み:新潮 2022年4月号

ファザーコンプレックス/青木淳悟

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 そう広くはない和室の壁を背に一際黒光りした和たんす洋たんすが並ぶ。横長の和たんすの上にはやはり黒々しい仏壇が載せてある。前に立つと目線のやや上あたりに位牌を仰ぐ高さであり、土台のたんすと合わせてちょっとしたコインロッカーくらいの高さがある。
 まずは和たんす最下段の引き出しをわずかにずらして足掛かりとする。仏壇のすぐ脇によじ上ると両足は床から一mほどの位置にあって、ほぼ天井高に等しい高さからこの八畳ある二階和室を眺め下ろすことになる。
 そのまま隣の洋服たんすに向かう。引き出し五段の和たんすは天板にも塗りが施されているが、背の高い洋服たんすのほうは上面が裸の合板であるのが確認できる。そちらの天板と天井の隙間五、六〇cmほどの空間に尻から上体をねじこむように入れ、さらに両の踵を天板の角までぐっと引き寄せる。この体勢から、斜め上方に設けられた「天井開口部」へと向けて一気に体を伸ばしていく。
 人間一人の足が右足から消え、たんすの上に残した左足と、屋根裏部屋の床についた右足と両手でそこにまたがり、最後は階下に何も残さないように左足を引き上げる。このとき足下には天井高二・五m強の虚空が広がっているが、最後の一跨ぎで体重を屋根裏側に移動する瞬間は空気が少しだけ緊張する。
 と、息子はいつも自分が行うこれらの動作について「猿のよう」だと感じてきた。あるいは単に「父親と同じことをしている」と。そして当の父親が同様の手順で最後にそこを昇降したのはいつのことだったかと息子は考えたりする。
 休日の午後、家の中でふと父親の姿を探すと、居間や二階でテレビを観たり玄関先で修理作業などをしていなければ、たいてい灰皿とコーヒーカップ持参で一人屋根裏に上がっている。息子が小学五年生頃(一九九〇年代初め)、この家が建て替えられた当初からそこに専用階段などはなく、父親はたんす伝いに二階と屋根裏とを行き来し続けた。やっと三畳あるかないかの屋根裏スペースは、季節用品などを収納する物置と兼用ながら、父親が自分用の居室としても使用していた。
 長年にわたるこうした習慣について、家族がそれ自体を意識することはあまりなかったといえる。たんすを使う特異さもさることながら、仏壇の間近を素足で行き来して罰当たりとも不作法とも思わないあたり。母親など下の和室に布団を敷いて夫婦で何十年も寝ていながら、まるで開口部の存在を認めていないかのように、ずっと後年になるまで屋根裏部屋自体を直接目にすることがなかったくらいなのだ。
 二階天井の片隅という家じゅうでも一番奥まったような場所に開口部があり、その下にこの家の和室的現実があった。家具類の配置からして仏壇が丸見えで、和洋たんすのほか、いわゆる婚礼家具五点セットに当たる三面鏡台までが一目で視界に入ってくるが、どちらも観音開きをするそれらの「祭壇」となると、家の主婦たる母親の領分であり受け持ちだった。
 たんす中の衣類の管理についても同様ながら、息子と父親はそれらにかまけることなく、ただ足場を探し通行路を見出す役割を果たすのみだ。一事が万事その調子で、家事も法事も慶事も近所づきあいもまるごと専業主婦の母親に任せて高いところにのぼる。その様が「猿のよう」だと感じられるのである。
 そこに市販のアルミハシゴが導入されるのは、定年退職後の父親が七十歳間近で病を得て二階にも上がれない状態になった二〇一三年以降のことだった。結局のところ家庭外へと通じるような通行路などはどこにも存在せず、たんす類も仏壇もそれ以降屋根裏とは完全に切り離されたといえる。そんな和室的秩序の下では、それらは家具や仏具としての用途以外に使用されるはずがないものだった。目的外使用の余地などあるものか、例の三面鏡にしろそこに頭を挟んで鏡の中に入れるわけでもなし、(家庭生活や俗世間や人生からも逃れようと)仏壇にハシゴをかけて自ら入ろうとする人間もそうはいない。
 和たんす上の仏壇は二〇一一年三月の震災にも耐え、二〇一九年五月一日の改元日も悠々と乗り越えて、二〇年代のコロナ禍にあってもなお同じように観音開きを続けている。何度かの「緊急事態宣言」を経験しつつ、都内在住の息子夫婦がゆうに半年は間隔を空けてこっそり埼玉県側へと越境してきた時々、律儀に二人並んでその前に立ち手を合わせていた。
「専業作家」を自称する小説家たる息子は、コロナ以前から仕事がだいぶ先細り、いまやほぼ廃業しかけているところだった。四十代に差しかかり厄年も重なって、決して公言しないが人並みに縁起などを気にするようになった。仏壇に向かい自分の位牌がまだそこにないことを確認しつつ、また別のことを考える。実家住まいだったデビュー当時の日々、肉親や親類たちのこと、加えて近年の「A家」について。
 何事か許しを得ようというつもりで、後ろめたさを軽減したいとの魂胆でいつになく真剣に拝む。二十代半ばにデビューを果たしいまや四十歳を過ぎたA家の次男は、一念発起していよいよ自分の父親のことを小説に書こうとしていた。

(続きは本誌でお楽しみください。)