立ち読み:新潮 2022年4月号

あたしのインサイドのすさまじき/古川日出男

登場人物

藤原・トー子
清原・セー子
ノー子(看護師)
ケー子(警察官)











いま、扉が閉められます。

その扉はどこで閉められますか? 舞台と客席の境界線上、ちょうどセンターの位置で、です。その扉は観客の目には見えません。ですから〈幻のドア〉と呼びましょう。
この〈幻のドア〉を、だれかが閉める――それが開演の瞬間です。

あかりのともった舞台にひとりの女性がいて、長椅子が三脚あります。女性は制服姿です。一見して「看護師だ」とわかります。とすれば……「ここは病院なのだ」とも。
幻のドアを閉めたのはその看護師です。ですから彼女はステージの、客席側のきわにいます。立っています。
あらわれたとき、るひとつの〈表情〉をしています。その〈表情〉がおもむろに変わります。ニコニコとほほえんでいた、のだとしたら、数秒かけて無表情に――。いかにも「職務遂行中です」の澄まし顔であらわれ出たのだとしたら、すこしずつ口をとがらせたり、上目づかいのあとにニィッと不埒ふらちに笑ったり――。
そのつぎに、看護師は首からさげている聴診器のゴム管のさきのほうを握って、先端のパーツ(患者の胸に当てる集音部)をグルグルとまわします。

彼女の背後の長椅子は、たとえば横一列に並んでいて、上手から順にひとまず〈ベンチA〉〈ベンチB〉〈ベンチC〉と呼びましょう。このばあい看護師のまうしろに位置しているのがベンチBです。

看護師 (聴診器をまわす手をとめて)ここであたしがなにかを、しゃべったとします。このところ、勤務のシフトは何交代制で、夜勤がどうした、とかね。それって……ひとり言ですよね? って、あたしはあたしに質問をぶつけてみたりする。それって……こういうのって……あぶないですよね? なぁんて、こういう自問自答を患者さんに聞かれちゃったら、「あの看護婦さんは見えないだれかと会話をしていた! わしは見た!」なぁんて言われて、あぶないんだよね。(いきなり)眠い。

看護師はベンチBに座りこもうとします。
けれどもハッとして、いけないいけない……とちあがります。

看護師 (幻のドアを凝視してから)この病室のまん前でやすんじゃうっていうのは、ノー、だめじゃん。(大あくびをして)あれだなぁ、けっこう、個室の前の廊下のほうが気をぬいちゃうのかな? だよねー、って、やっぱりひとり言だよこれ。こうなったら……堂々と? 自問自答のひらきなおりバージョンで? あたしが、あたしに質問をぶつけながら、ぶつけられるあたしのことを「あなた」なぁんて呼んでみたりしちゃったら、どうなります? やってみればわかります。こうなります。これよりあたしからの質問です、あなたに。あのね、もしも百年前の日本人がね、そのへんの道をね、たとえば三井住友銀行とドラッグストアの、えぇと、ツルハ? ココカラファイン? の、あいだの、路地をね、歩いているのを目撃したらばね、あなたは絶対に「あっ、現代人じゃないじゃん」って、サッと見分けられますよね? だって、百年前の日本人っていったら明治時代の、……じゃないか、大正時代の? 昭和の? うー……(眉間にしわ)い・ず・れ・に・し・て・も、むかしむかしの日本人だから、識別できちゃう。だけれども犬は? ターゲットがわんちゃんだったらどうですか? それも三百年前のわんちゃん。三百年前って江戸時代ですよ。あっ、ノー。ノーノー、江戸時代のうちの元禄げんろく時代ですよ。そういう、さっき設定した「むかしむかし」を三倍したような時代の、えっ、でも時代ってなんなんだろ? なんで江戸時代に元禄時代があるんだろ? たとえば明治時代に含まれて、……鹿鳴館ろくめいかん時代がある、とか? へんじゃん。という指摘はここでは他愛たわいない可能性がおおいにあるので、ノー。執着する必要はぜんぜん、ノー! あたしはあなたに尋ねていたのでした。この病棟の、そうよ、この廊下を、わんちゃんが歩いていてね、そうしたら、あなたは、その犬が現代の東京のわんちゃんなのかそれとも過去の江戸のわんきちなのか、を、見分けられる? そしてね、もしもね、できないんだとしたら、いったいぜんたい、その理由わけというのは――(いきなり)眠い。

どうにか横になれる場所をさがしたいのだ、とばかりに、看護師は上手や下手に目をやって、結局ベンチAにふらふら~と歩みよって、倒れこみます。
それから仮寝うたたねに入ります。
ステージ上に時間が流れます。つかのという名前のです。

下手から制服姿のふたりめの女性があらわれます。けれども、それは看護師の白衣ではありません。一見して「警察官だ」とわかります。ステージ(や客席)には「――ここは病院のはずなのに?」との戸惑いがもちこまれます。なにしろ警察官としての外勤用のなりであり、警棒などもさげています。ハンカチで両手を拭きながら、彼女は歩いてきます。どうやらトイレに行って、その帰りにこの廊下を通っているらしい、と察せられます。
警察官はベンチBの前、そして客席との境界とのあいだ、つまり〈幻のドア〉のまん前にさしかかると視線をその見えない扉に注ぎます。

(続きは本誌でお楽しみください。)