立ち読み:新潮 2022年5月号

霊たち/三国美千子

 こっち来て、と子供が暗いところから手招きする。裸足の足をぶらりとさせて座っている。白い便器の上で「来て」と手招きしながら笑っている。誰でもいいから、親しいものを呼びたいのだ。
「何が怖いの?」と阿子がたずねる。
 トイレは玄関の横にあって薄暗い。子供はつま先をぶらんとさせながら小声になって言う。
「幽霊」
 言った後で、感極まったみたいにくっくっくと笑いをかみ殺す。
「幽霊なんて、変なタイちゃん。三年生のお兄ちゃんなのに」
「阿子ちゃんのばーか」
 子供は母親に悪い口をきく。
 タイちゃんと呼ばれた子供は廊下の天井の方を見つめる。
 小さい電灯が光っている。古い、弱い何かが壁にはりついている。きっと、ずいぶん前に遠いところに置き去りにされた母方の先祖たちの霊にちがいない。
 霊は家の中でも、たいがい暗くて人があまり来ない隅っこにいる。蔵とか、納屋の天井につるしたかますの中とか、仏間に立てかけてあるしみだらけの屏風の陰とか、米びつの中にも灰色の羽虫とともにいた。
 特にトイレにはうっすらとしたものが、真昼でも湿ったコンクリートの床にまでこもっていた。外便所の中、あなっぽの開いたくろぐろした内臓みたいな底を見ないようにしゃがんでいると、霊らしきものは幼児のつっかけからはみ出した指についてくる。おばあちゃんっ。だの、おかあちゃんっ。だの、誰か入口の外で立って待ってくれる大人を呼びつけると、霊はひるむ。高く積んであるちり紙で拭いて投げつけると、弱いものはああと呻きながらあなっぽの中にくずおれる。人がちょいちょい用を足しにくる、そんな場所にいる霊は、うっかりしているし、ひょうきんもので他愛ない。
「ご先祖様だから、大丈夫よ」
 子供をなだめて、阿子は本人しかわからない小さな笑い方をした。大丈夫かどうかは定かではない。先祖というのは時に荒々しくなるものだ。猛々しいといってもいい。
 母方の霊は特にその傾向が強かった。生きていた頃から気性が激しかった。強い、たちの家筋だ。
 阿子は過去帳でたどれる限り十何代続いた人々の子孫にあたる。
 先祖代々の墓がある西の国の家を捨てて、男と一緒になり、遠い他国の雪国に住んでいる。
 寒ぶうて、不便で、海や山しかないひなびた土地や。
 曾祖母に当たる女ならそんな言い方をしたかもしれない。曾祖母は一族の女の中で抜きんでて、勝気だった。
「喧嘩した後なんて、一晩たってもまだ腹が立って眠られなかったって、言われた」
 阿子の母は、それ自体おかしそうに、曾祖母の思い出話をくりかえし娘に語ってきかせた。
 曾祖母は後妻だった。三人も先妻の大きな子がいる農家に、ぜひ入ってくれと望まれるような人だからきついに決まっている。一度親の言いなりに結婚をして、婚家とそりが合わずに飛び出してきた。小さい娘を、置いて来たそうだ。頭に理屈がすっと通って、勝気な性格が、因循な農村の舅姑に仕える生活にはとうてい馴染めなかったのだろう。田植えの時期、生来の負けず嫌いもあって苗箱の稲を植えきってしまうと、くたくたになった体一つでぷいと婚家を出たそうだ。実家を継いだ兄が、二度と敷居は跨がせないといきり立って追い返した。皮肉なことに兄の家は血筋が絶えて、逼塞してしまった。
 子供は鏡の中の母親が話す曾祖母だの先祖の話を歯ブラシの先っちょを噛みながら聞いている。わかっているのかわかっていないのか、黒い目を見張っている。話の全てを吸い取ろうとする。
「ひっそくって何?」
 阿子は少し考えて、家が消えることだと説明する。
「こわいね」と子供は言う。
「全滅ってことだね」
 阿子は子供の黒い眉毛の下の黒い目を見つめる。
 全滅って、ぴったりな言葉だとしみじみ思う。
「僕らのお家は無くならないね?」
 鏡の中から念を押す。子供の右手はお留守になっている。
 子供にとっては冬の間雪に閉ざされるこの町の、鉄塔の真下に建つ、黄色いカステラの空箱のようなアパートが家なのだ。静かだった壁の中で、何かが黙っていられないようにもぞもぞと寝返りをうつ。皮肉な言葉の一つでも、出てくると思ったのか、子供が「僕らのお家はいい家だよ」と先手を打って黙らせる。
「奥歯をみがきなさい。とけかけてるって言われたよ。虫歯の方がもっとこわいんだからね」

(続きは本誌でお楽しみください。)