立ち読み:新潮 2022年6月号

【新連載】
生活/町屋良平

 きゅうに外気が二十度を越し、最高気温が前日比+十七度にものぼったあるうららかな日の午前にかれはハッとした。木々の枝葉を透けてアスファルトに届いた光の粒は、そのひとつずつは区別されない、あたりまえのようにそこにパチパチひかっているものだったが、どんより曇った、つめたい昨日に届ければまばゆいばかりにつやめき、異質に発光しただろう。しかしかれのターコイズブルーのスニーカーの爪先に点滅するひかりのひとつひとつは、まったくまっとうに春の一部をなしており、きょうでなければありえない情景を象っていて、つまり昨日にはありえない光。
 というようなことまでは考えないまでも、ようするにかれの身体は昨日ときょうはまったく地続きになく、おなじ世界に生きている自分とおもえない。控えめにいって外国にきたみたいだった。スニーカーは雑誌をめくって惚れた一品をストアに確認して取り置いてもらい、サイズを念押しして購入したものだ。元来レディースの商品だったが、かれは体格がちいさく、足のサイズは二十二・五センチしかないので、通常のメンズシューズはほとんど合わせられない。こういうときのためにかれは月に二度ほどファッション雑誌を網羅的にながめるために書店を訪い、男性女性の隔てを問わずこれはという靴があったら服よりも優先的に購入するようにしていた。この靴は「真っ青よりも真っ青だ」。そういうことばの印象がある。かれはしかし、この靴はきょうには似合わない、こんな光のなかでは、もうすこし色をおさえて、モノトーン気味の全身にワンポイントで暖色をつかいたかった。そのすばらしい暖色が、たとえばベルトのラインや帽子のバイザー裏だったら、もっとよかっただろうな。
 だってこんなに春だなんて、天気予報だけじゃ想像力がまったく足りないよ。
 家にかえると、父親がフライパンをふっていて、「おかあさん、もう帰ってこないって……」と泣いていた。
「相手のひとと暮らすって」
 駆け落ち。
 ことばではとても、激情的。しかし母親には恋人がいて、心がもうずっとこの家に住んでいないことはしっていたし、そもそもここ一年ぐらいろくに家で顔をみておらず、子どものころからどちらかというと父親っこだったかれはとくに感想がなかった。本人からも「そろそろ家を出る」と、さんざん聞かされていた。父親もそうだったはずだ。
 かれは数ヶ月まえに二十歳になった。愛着はこの家とともにある。思い出が、台所のタイルのつめたさにふれる足指や、階段をあがる腰の付近にこたえる木の反動にこもっている。それはいつでも話を聞いてくれた両親の記憶を呼びさます。いやな話も、たのしい話も分け隔てなく耳をかたむけ、叱ったり笑ったりしてくれた思いの材質が現実のこととしてこの家の健康維持とかかわってい、かれは傷みをみつけては積極的に修繕してここまで生きてきたのだったから、母親がいなくても引きつづきそうしていくだけだと、しずかな決心を胸にとぼした。締切は? とかれはきいた。きょうは父親の月に数本ある締切のひとつがある日だ。
「え? うん、でも、二千字のエッセイだから、すぐ書けるし」
「あ、そう」
 父親が書けない気分転換のためにフライパンを握っていることはわかっていた。いまは炒飯に油をまんべんなくとおすべくふっているフライパンの、カシュカシュいう音が父親の不安をあらわしている、そういうふうにかれには聞こえる、その実父親よりかれのほうがよほど料理ができる。作業は栄養を先取りするみたいに身体をよろこばせる。父親のよこで丁寧に珈琲を淹れる。カフェインがめぐるよりずっとはやくあたまがさざめいて、思考がスッキリと整理され、豆を挽いていく音を聞いている認識が日常を、生活をともなう、慣れている行為だからこその思考が膨らんでいくと先ほどの異質な春がよみがえり、無目的に街をあるいた散歩の認識がととのってゆく。昨日までの冬空に想像していた春と実際の春ではぜんぜんちがう。お湯をそそぐとジュワッと広がり、開封して五日たつ豆だからそう膨らみはしないけれどそれでも香りたって蒸されていく珈琲豆の蒸気を吸い込んでいると、春がここに混ざっていくようで、とてもきもちいいな……
「まるで春の超絶って感じ」
 かれが長いひとりごとをいうと、父親は「ふーん……」とつぶやきながら、炒飯を放置し、トイレにたち、戻って無為に冷蔵庫をあけ、しめ、新聞を抱えながらウロウロあるきまわったりしたあとで、徐々に自室へと吸い込まれていった。このキッチンで書くことのきっかけを掴んでいったのは明白だった。父親はけして認めないしかれも言葉にしないが、作家である父親の書き仕事の半分ぐらいは、この家のひとり息子であるかれとの生活と会話から成されていた。出来てきたエッセイのなかにかれの発言内容がまったく反映されてなかったとしてもかれはわかる。自分の存在がもたらしたなにかが父親の書き言葉と共振して生まれた文章は。母親は「つばくんの影響にない文章のほうが私はすきだけどね」というが、かれはそれはどちらでもよい。かれ自身は作文どころか、SNSで自己を発信する文章すらおもいつけずにいるのだから、書いているのは間違いなく父親で、自身の権利などわずかも感じていない。でも、なにかしら、「インスピレーション」を? 「感じかたの切れはし」を? 手渡してしまうのだとしたら。そして後日書かれたものをみて、かれは心底から感動する。
 おれの感じたこと、感じなかったこと、そのどちらもが文章になっている。父、すごいじゃん。
 子どものころから「おまえは考えすぎ」とバカにされるようにいわれることがあった。「自意識過剰」だと。それで苛めとおぼしき揶揄をうけることも多かったが、服をすきになり、みずからの目と手でちゃんと選ぶようになってから、とんとなくなった。そもそもかれ自身が感じたこと、おもったことをあまり言語化しなくなった。いまはバイト先の先輩に、「椿くんオシャレだね」といわれ、しかし陰では「でも、女子ウケの悪いオシャレだよね」といわれていることを、しっていた。
 あたりまえだろ。
 男も女も、モテや性欲だけで服装を決めるわけはねえだろ。
 自分のためのファッションとはきれいごとだが、まるで世界や自分自身のために服を着ているかのような人物がかれはすきだ。「似合う」とはそういうことだとおもっている。それは服も身体も風景もぜんぶ混ざりあって光っているみたいな、特異な感覚だ。
 母親は若いころから稼ぎの多くを服飾で貧窮している若者のサポートにつぎこんでいて、子どものころから経済的には豊かでなく、車もなければ小遣いもない青春だったのだが、母親の母親、つまりかれの祖母も作家で、それも父親と違ってわりと偉い作家で、祖母が建てた、いまではこの代官山地区の高騰した土地に建っているのが申し訳ないほどのボロといわれる家に暮らしている。あちこち傷んできたのを、都度都度直しつつ、木が軋む音を労りながらソロソロあるいている。ときどき、外をあるく新入生とおぼしき子どもにボロさを笑われる、それも大抵は春のことなのだった。
 春はうれしい。冬の起きしなは氷のような空気で足先が固まってしまうし、夏の夜はいつまでも熱がこもっていて寝苦しい。しかし季節を問わず家は開いている隙間や歪んでいく木材の具合で、日によってまったく姿が違い自己同一性がなく、それぞれの腐敗を時には凜と、時には鬱っぽく、見せている。作家たちは生活に頓着がなく、自分では食事も整理整頓もできないたちで、仕事場につかっている居間は六十年溜め込んだ本が、知の威厳というよりも持ち主たる作家たちの精神の弛緩をあらわしているみたいに、床を軋ませて空間を圧迫している。二階のかれの居住部屋とダイニングキッチンはかれの呼吸に合わせて極力モノをおかずに明るくしているので、ここで家の健康がかろうじて保たれている。台風や地震の時にはなにか降ってくる欠片が口のなかに入り、吐き出すと黒い唾がシンクでひかる。風が吹き近くをトラックが走るとガラス戸と外壁がリンクしてガタガタと波打ち、ツマミを三秒ほど捻って点火するバランス釜式の風呂が正方形に狭く、小柄に生まれてよかったという感想をいつも呼びさます家。和式トイレをリフォームするかどうかが、目下の議題となってもう二十年、つまり、かれが生まれてからずっとなのであった。

(続きは本誌でお楽しみください。)