立ち読み:新潮 2022年9月号

天路の旅人 第二部/沢木耕太郎

第八章 白い嶺の向こうに

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 ラサに入った西川かずは、同行の蒙古人三人と共に、ラブランアムチトの紹介で、「ジャミンシャラ」という三階建ての大きな建物の一室を借り受けた。それはラサの三大寺院のひとつであるデプン寺所有の建物で、最も繁華な一帯にあった。
 ジャミンシャラは一種のアパートのようなもので、各階の部屋をさまざまな人たちが借りて住んでいたが、西川たちが借りた部屋は、夫と死別した老女が借りている二部屋のうちの、狭い方の部屋を又借りしたものだった。
 建物は中庭の周りにイロハのロの形になるように建てられていた。各階には中庭に面して回廊がめぐらされており、その回廊には手摺りもない木製の急な階段が作りつけられている。
 借りた部屋は三階にあり、そこへ上がるには、急な階段を這うようにして昇らなければならなかった。
 水道などはついていないため、近くの井戸まで水汲みに行く必要があったが、その水を瓶に入れ、階段を使って運ぶのはなかなか大変な作業だった。
 部屋が三階で便利だったのはただひとつ、便所が近いことだった。チベットの建物には便所があったが、最も高い階に一カ所だけついている。それは便所というより、ただの穴で、用を足すと、糞尿が一階に落ちていくだけなのだ。それはまた用便だけでなくゴミの類いを落下させるところであり、一階にはそのすべてが溜まる。
 しかし、肥溜めはすぐに綺麗になる。というのも、近郊の農民が格好の肥料として争うように持っていってくれるからだ。

 キチュ平原の中央に位置するラサの街は、釈迦牟尼仏を祀ったツオグラカン仏殿を中心に広がっている。
 チベット文化圏に属するラマ教の信徒たちは、ツオグラカン仏殿の釈迦牟尼仏を礼拝するためにあらゆるところからやってくる。
 西川もバルタンらと共に、ラサに着いた翌日に訪れたのがツオグラカン仏殿だった。
 ツオグラカン仏殿は、六世紀にチベットを統一したソンツェン・ガムポの死後、王妃のティツンがその霊を祀るために建立したもので、別名ジョカンと呼ばれている。
 しかし、西川は、皆と一緒にジョカンの堂から堂へと経巡りながら、確かに豪華だとは思ったが、皆と同じように素直に感動することはできなかった。
 ラサの第一印象は白い街というものだった。それは、通りに立ち並ぶ石や泥で作られた建物の壁を、一年ごとに白い石灰で塗り直すためだと知った。
 ツオグラカン仏殿の外側には、バルゴルと呼ばれる長さ一マイル(約一・六キロ)の環状道路があり、その通り沿いにぎっしり並んだ建物の一階は商店になっている。日用品から土産物まで、手に入らないものはないというくらい雑多なものが売られており、そこを巡礼者を中心とした旅人がごった返すように歩いている。
 街の北には不動金剛像を祀っているラモーチェ仏殿がある。巡礼者たちはツオグラカン仏殿の釈迦牟尼仏とこのラモーチェ仏殿の不動金剛像の二つを拝むためにラサに来るのだ。
 ラサの街は、各地から集まってくるこの膨大な巡礼者を相手とすることで成り立っている。家のすべてが商店であり、人のすべてが商人のようだと西川には思えた。
 ツオグラカン仏殿の西の丘にダライラマが住む荘厳華麗なポタラ宮がある。
 ポタラ宮は、群雄が割拠する戦国時代を経て、ふたたびチベットを統一したダライラマ五世が十七世紀に造営したものだった。完成後、ダライラマ五世は、それまでの居寺だったデプン寺から移り住み、ポタラ宮が政治と宗教における中心としての役割を果たすようになった。
 そして、そのツオグラカン仏殿とポタラ宮の二つの地点を取り囲むようにバルゴルよりひとまわりもふたまわりも大きな環状路がある。それはリンゴルと呼ばれ、全長六マイル(約九・六キロ)に及ぶ。そこを、巡礼者が、ある者はマニ車を回しながら、ある者は尺取り虫のように全身を投げ出しては起き上がって前に進む五体投地をしながら廻っている。しかも、全員が揃いも揃って時計の針と同じ右廻りをしている。それをコルラ、にょうらいはいと呼んでいるが、貴人に対しては自分の右肩を見せて廻るべしというインドの礼法を受け継いだものと言われている。
 そのリンゴルの路傍の岩の上には、巡礼者が周回の数を忘れないために置く小石が載っていたりする。一周するたびに、ひとつずつ小石を増やしていくのだ。
 道には車が存在しない。自転車すら走っていない。
 そこをさまざまな顔つきの人々が行き交う。まさに人種の陳列室のようだと西川には思えた。
 外国人を排する鎖国状態を続けているといっても、ラマ教圏の国の人々や、近隣の国の人々の居住や往来は認められているらしい。
 蒙古人や漢人、あるいは回族などのなじみのある顔以外に、ラダック地方出身の回教徒であるカチや、ベーブと呼ばれるネパール人などの新しい顔が見られるようになる。
 ラサの夜は早い。薄暗闇に閉ざされはじめると、家々の門も閉ざされる。すると、犬の天下となり、犬の鳴き声が響き渡る中、夜が更ける。

(続きは本誌でお楽しみください。)