立ち読み:新潮 2022年9月号

ぼくはあと何回、満月を見るだろう
第3回「自然には敵わない」/坂本龍一

韓国との付き合い

 2011年の活動は、1月9日の韓国・ソウルでのコンサートから始まります。「キャズム」の先行シングル「undercooled」(2004年)でフィーチャーした、韓国人ラッパーのMC Sniperがゲストに来てくれて、アンコールではふたりで作ったこの曲を初めて一緒に演奏しました。彼の熱いエネルギーに乗せられ、会場のオーディエンスもすごく湧いたことを憶えています。
 この日の公演は、Ustreamのサービスを使って中継しました。日本国内を中心に約400ヶ所でパブリック・ビューイングも行われていたらしい。Ustreamでの無料配信は前年の北米ソロ・ツアーや、大貫妙子さんとの「UTAU」ツアーでも導入していて、シアトル公演の際にはTwitter上のやり取りから元マイクロソフト会長の古川すすむさんとメディア・クリエイターの平野友康くんが、技術面のサポートに駆けつけてくれました。コンサートの生配信自体は90年代から取り組んできたけど、それが非常に安価で軽量な機材で可能になったことに、時代の変化を感じました。音質は決して良くないものの、配信で見てくれた方が「本物のライブに行きたくなった」「自分も同じ空気を体験したい」とツイートしてくれていたことが嬉しかった。
 既に『音楽は自由にする』の韓国語版が刊行されていて、サイン会を開いたら長蛇の列ができました。年配の男性ファンはもちろん、若い女性も驚くほどたくさん来てくれて、多少面食らいました。日本ではもう久しく、そんなことがなかったから。ファンレターやプレゼントもたくさんいただいてしまいました。なかには、似顔絵を描いてきてくれた子もいたりして。彼らは韓国人や日本人といった国籍には縛られず、ぼくのことを同じアジア人として応援してくれているようにも感じました。「あなたが映画『ラストエンペラー』で、アジア人作曲家として初のアカデミー賞を獲ってくれたことを誇りに思う」という声も聞きました。そうした反応はニューヨークでもよく感じます。アメリカでのぼくのコンサートにはアジア系のお客さんも多く、やはり同じ人種として応援してくれているのだな、とありがたいです。
 そういえば、その後、中国の女子高生から「最近、国内で解禁になった『戦場のメリークリスマス』を見て感動しました。でもデヴィッド・ボウイは亡くなってしまったから、坂本さんのファンになります」という手紙をもらったこともあったな。どんな入り口であれ、今も新しい世代に関心を持ってもらえていることを光栄に思います。
 韓国で最初にコンサートを行なったのは、サッカーの日韓ワールドカップが開催される直前、2000年のことでした。戦後の李承晩政権以来続いていた日本大衆文化の流入制限がちょうど緩和された頃で、解禁後に韓国公演をしたのは、ぼくが日本人アーティストとして2人目だったはずです。当時、既にサムスンやヒュンダイが躍進していて、韓国経済の勢いが日本経済に追いつこうとしていました。きっと多くの韓国人は、ついに宿敵・日本を打ち負かすぞ、俺たちはここから上り坂だ、と盛り上がっていたはずです――事実、その通りだったのですが。
 とはいえ、お世話になっていた現地の音楽関係者は、こちらが韓国の発展を称賛したら、「いやいや、うちは文化的にはまだまだです。日本から、たくさん学ぶことがあります」と謙遜し、その冷静なバランス感覚に感銘を受けました。しかし、それから20年が経ち、現在ではBTSや映画「パラサイト 半地下の家族」をはじめ、韓国文化が世界を席巻しています。ぼく自身も、韓流ブームのはしりとなった「冬のソナタ」以来、「宮廷女官チャングムの誓い」や「ミスター・サンシャイン」など、韓国ドラマにすっかりハマってしまい、今でもNetflixでよく見ています。
 韓国では、1980年に光州事件が起きました。光州市民による軍事独裁政権に対しての民主化要求の蜂起で、警官隊や軍隊との衝突で多数の犠牲者が出たにもかかわらず、中国の天安門事件と同じく、当時は一切の報道がありませんでした。でも、ぼくはあるつてから「韓国でいま大変なことが起きている」とだけ聞いていました。
 そんな光州事件のこともあり、翌81年に雑誌の仕事で初めて韓国を訪れることになった時は、正直ちょっと緊張していました。しかし、実際にソウルの街に降り立ってみて驚きました。一見、東京の街並みと瓜二つなのに、文字だけが日本語からハングルに置き換わっている。まるでSF映画のように、時空間が曲がって違う惑星に来てしまったような印象を受けました。香港やマニラに行って感じる、アジアの都市特有の熱気ともちょっと違う。ソウルの路地を歩いていると、向こうからやってくるのが学校の同級生の山田くんや小林くんなど、見知った顔ばかりに見えます。双子のような都市が、言語だけ異なって存在していることが本当に不思議で、その感覚は一生忘れることができません。
 80年代前半は韓国ではまだ戒厳令が敷かれていて、深夜0時から午前4時までは街を出歩いてはいけないことになっていました。そのせいもあり、ぼくが泊まっていたホテルのロビーでは夜になると韓国人のお姉さんたちが待機しているんですね。彼女らは日本人のおやじを相手に交渉して、うまく契約が成立したら一緒に部屋へ消えていきました。そういう時代でした。
 さらには、市場を歩いていたらなぜか天ぷらの屋台があり、ぼくが思わず「天ぷらだ」と呟いたら、店のおばちゃんに「あんたらのお父さんが持ってきたんじゃないか!」と怒鳴られて、どう謝ったらいいのか分からず呆然と立ち尽くしてしまいました。抑圧した側はすぐに忘れてしまうのに、抑圧された側は7代先まで忘れることはないのです。そんな経験もあり、日本と東アジアの歴史に強い興味を持つようになりました。それは今も続いています。
 ちなみに、ぼくが最初に仲良くなった韓国人は、中上健次さんの紹介で知り合ったキム・ドクスという音楽集団サムルノリの創始者で、チャンゴ奏者の彼とは同い年ということもあって、すぐに打ち解けました。チャンゴは朝鮮半島の伝統的な太鼓です。キム・ドクスのパートナーは在日韓国人の利恵さんで、彼女は韓国伝統舞踊を教えています。彼らとは韓国を訪れるたび、ほぼ必ず会っています。
 その後、ソウルからニューヨークへと戻り、春先からはまた別の仕事で、東京に滞在することになっていました。そして、あの日を迎えます。

(続きは本誌でお楽しみください。)