一
ある老人が、無作為に、電話をかけていた。自分の知らない相手にかけるわけだから、かかってきた相手にとっても、この老人のことを知っているはずがなかった。大抵、相手が、「はい」と、応じた時点で、老人は、私なんだけどね、と切り出すのだがガチャッと電話は切られるのだった。時々ではあるが、しばらく、まあしばらくと言っても三十秒、長くて一分程度だけれども、会話が可能な場合もなくはなかった。つまり、あった。どんな感じかというと、こんな感じであった。
ああ、私なんだけどね、ごめん、急に、今、大丈夫かな。
どなたなんですか。
え? どなた?
どちらにおかけですか。
え? どちらに? そりゃあ、私は、長年、と、言ったあたりで、やはり、誰もが予想するように、ガチャッとなり(実際にガチャッという音が聞こえたわけではないにせよ)、通話は終了となる場合が多かったと言ってよかった。もし、そうならなかったとしても、
父さん、何をやってるの。
と、家族の妨害にあって、電話を取り上げられてしまうことが、ないとは言えなかった。つまり、あった。もちろん老人も無防備というわけでなく自分の部屋に近づいて来る人の気配を感じることは十分可能だった。つまり自分のいない部屋に人が近づいて来る気配については、感じることは不可能と言ってよかった。自分がいないのだから。自分が、その部屋にいないのに「あ、部屋に、人が近づいて来るんだな」と思うはずがなかった。要するに当たり前のことだった。老人は人の気配を感じると、いや、何でもない、と、気づかれぬようさりげなく電話を切った。むろん先方の判断で切られてしまうことの方が多かった。いずれにせよ家族には通話していたことがわからぬよう心がけたものである。インターネットを見ている演技をしたりもした。当然のことながらその番号にふたたびかけても、出てもらえることはなかった。だがそれでよかった。老人は、相手が自主的にガチャンと(実際にガチャンという音がしたわけではないにしても)電話を切ったらすぐに頭を切り替えて新たな番号を即興的に組み合わせるのであった。電話が切れてもそれは老人にとっては中断ではなかった。それで完結しているのであった。つまり、それ以上の継続を特に望んでいるわけではなかった。電話が切れたことは新たな始まりであった。老人が電話を無作為にかけるのは会話が目的ではなかったからである。外出もままならぬ昨今、もはやこの老人にとっては単なる遊戯と化した感もあるけれども、誰かに電話をかけること、それ自体が目的化していると言ってよかった。総入れ歯の不具合によって以前の滑らかさを失っているとはいえ、老人は言葉の専門家として、演劇人の端くれとして、表舞台を去ったのちも自分の携わってきた仕事に一定の興味は失わなかったように見えた。近年では世界の政治指導者が新劇俳優さながらの心理主義的演技をやや復古的に演じてもいた。テレビのニュース報道でその一部を鑑賞した時、この老人が「おれに一言声をかけてくれたらばもっとまともな演出をするのに」と思わないでもなかった。つまり、思った。ちょっとお力を拝借したいのですが、と、そんな電話がかかってくるのではないかと、そんなふうに自分のスマホをチラチラ眺めることは最近までなくはなかった。つまり、あった。様々な情報を利用者に提供するだけでなく気軽に通話できるこのスマホという機械は、本来はこの老人の安全のために導入されたのであったが、むしろ迷惑行為を積極的に産出していたのであった。息子を演じるのはいささか無理があり、もっぱらおじいちゃん役に徹していた。「ああ、私なんだがね」というわけだった。老人は現役のある時期まで息子役あるいは孫役をやらさせたら右に出る者はまずいないと言われるほど演劇界の花形俳優であった。面識のまったくない息子を演じるのは、緻密な演出とハードな稽古を重ねてもなお、上手くいくものではなかった。当時所属していた劇団では組織的なメソッドが確立しており、演じる対象をリサーチする方法もシステム化されていた。複数の業者から仕入れた名簿など個人情報を精査し、俳優が交代で「保険を変えませんか」「マンションを買いませんか」と電話をかけ、軽めのエチュードを試みた。家族の内側へ入り込む手応えを得ることが大事だったのである。事前の準備を怠らず、日々稽古を重ね、本番への集中力を高めていくことが所属俳優には求められた。「本人からの電話だな」という安心感を持ってもらうために、正確な人物造形はとても重要なことであった。年齢、名前はもちろんのこと、経歴、職業、趣味、好きな果物などを知ることができれば迫真に満ちた演技を披露することができた。大学のサークルの先輩が起業したIT企業の倒産に巻き込まれて急な現金が必要になったという設定を演じる場合、半年ほど実際に似たような場に出向き働いてみるということが劇団の旗揚げ当初は特に推奨されたものだった。本物志向によって競合他劇団との差別化を図るためである。半年働けば季節が変わっており、着る服にも変化が出た。演じるにあたり、何を着ているかはとても重要だった。天気や季節も無視できなかった。湿度は声に大きな影響を与えたからである。言葉による知識だけではなく、現実の世界でその仕事に取り組む人々からのナマの声を聞くこと、また体験することを通じ、自分の演技にフィードバックすることが求められていたというわけである。芝居から足を洗ってその企業で本当に働き続けてしまうケースも過去には少なからずあったようである。確かに芝居で食っていくことができるのは一握りだけであって、主に若さに依拠した特権的な表現であった。年齢を重ねていくと演じる枠は狭まっていくというジレンマもあった。しかしそれは演劇の自己否定であり、本来俳優は女になり男になり子供になり老人になり果物になることができるはずだった。だがそれは原理的にそうであるというだけであってすぐにガチャンと(そんな音がすればの話だが)電話は切られてしまうのだった。年齢を重ねるに従って「なんでおれこんなことしてるんだろう」とか「この収入では将来が不安だ」と、そういう感想を持つ者も少なくなかった。というか多かった。整理すれば、この業界で役者としての夢を追い続けること自体やっぱり若者だけに許された特権であると思われた。安定した職業に転身したく思うのはむしろ自然なことかもしれなかった。この老人の場合は、いや、この世界に足を踏み入れた当時はまだ二十代の若者であってまだ老人ではないのだがそれはともかくこの老人は劇団に在籍している時から、やや変わっており、直接、自分が演じることになる人物に接触するのであった。実際に面会することで本人のリアルなディテールを手に入れて人物造形の肉付けを完璧に近づけるわけである。その上で相手になりきって親に電話をするのである。当然、接触した時点で相手に自分の存在を知られてしまうわけで極めて危険な手法であった。以前、ご挨拶させていただいた、ご記憶にないかもしれませんが、三年ほど前に、ご一緒したのですが、と、相手を立ち止まらせて、こんなところで、お目にかかることができるとは、さすが東京ですなあ、と、そう話を続けて、相手を圧倒するのであった。その場で思い出すにはかなり困難な薄いエピソード(「ご挨拶させていただいて以来すっかりご無沙汰しまして大変失礼しておりますが、あのとき褒めていただいた私の革靴が今ではほらこのようにすっかり」云々)が相手を不安にさせるのだがこれも当然のことながら考え抜かれた効果であった。もちろん、いきなりそんなことを言われたところで相手としては、急ぐんです、と足早にその場から離れるにちがいないわけだが、そうならなかったのは老人の顔に(繰り返せばその当時は二十代の若者であったが)見覚えがあったからである。ハリウッド仕込みの最新の特殊メイク技術を駆使し、事前に調べておいた取引先の人物の顔のパーツを自分の顔面に再現しており、それによりすっかり相手は、あれ、なんか、見覚えがある、と、騙されてしまうというわけであった。昨日、出張で出てきたんですよ、出雲から、なかなかこっちへ来ることもないのですがね、こういう世の中でしょ、それでも、まあ、機会がありまして、用事を済ませましたので、それで、せっかくなので散策をしてから、帰ろうと思いましてね、そうしたら、前を歩いていらっしゃるものだから、まさかとは思ったのですが、まさかね、と思ったのだけど、奇遇すぎる、とね、でも、もしかしたらと、万が一ということもあるのだからと、そう思いましてねえ、いやあ、声をかけてよかった、ほんとによかった、と相手の不審を押し切るようにやや一方的に話し続けるのがコツだった。顔の特殊メイクだけでなく服装、また名刺など必要に応じた小道具を用意しておくことが大事であり、手には社名入りのトートバッグを提げ、オーダーメイドのテーラードジャケットの裏にはその取引先の人物の名前が刺繍してあるほど細部にこだわっていた。もちろん、服の裏地などを相手が見るはずはなかったのだが、ディテールにこだわることで演じるこちら側のテンションは違うものになるのである。仲間の劇団員からは「そこまでリサーチしてこだわってるんだからその取引先の人物の実家に、母さん、おれだけど、と電話をかけたらいいのに」と不思議がる声も聞こえてくるほどだった。下準備の時間はかなりのものであり、コストもまあそれなりにかかるのであるが、それだけの価値があり、この老人の手がける仕事は成功すれば巨額の対価を得ることができたのであった(改めて繰り返しておけばこの当時老人はまだ二十代である)。お時間、少しありますか、そうですか、よかった、そんならちょっとそこの喫茶店で少し話しませんか、というように言葉たくみにジリジリ自分の土俵に持っていくことで、なんて言うのかな、生きた情報がどんどん手に入るというわけだった。それにしてもよく僕だとわかりましたね、日傘をさしていたのに、と、相手がアイスコーヒーを飲みながら言うと、いや、むしろ、そこですよ、そこなんです、と、答えるに至ってはもう完全に老人は仕事の成功を確信していただろうと思われた。というのは、よく僕だとわかりましたね、と相手が言うのは、つまり、警戒を少しずつ解いていることを意味していたからであった。暑いねえ、と相手は言いながらポロシャツのボタンを外し、胸毛まで出せばもうしめたものであった。つまり、それでまたさらに話がはずむからである。日傘をさしておられたでしょう、それでつい、視線がとまったのですよ、まだ男性の日傘というのはこの国では珍しいようですから、それで、「おや、私の他に日傘をさしている男性がいる。誰だろう」と思って、顔を意識的に見たというわけなんです、失礼ながら、気になったもので、と、そう述べるに違いなかった。相手がそれを受けて、僕はあなたが誰だか率直に言って名刺をもらってもまだはっきりとは思い出せないのだけれども、と言ったら、それはむしろ、その意味する内容とは裏腹に、完全に安心しきっている、こちらを信用してリラックスしていることの証拠であると言ってよかった。相手は、少しずつ声が変化している老人のことを奇妙に思って何度か訊ねたが、ああ、これですか、ちょっと風邪をひいてしまいましてね、いや、もう大丈夫なんです、もう大丈夫です、もう、大丈夫、です、ええもう大丈夫と老人は繰り返し、その繰り返しに終止符を打つためであるかのように水を飲んだ。まさか自分の声の真似をしているとは思いもよらなかったはずである。何しろ人間は自分の声を聞くことができないからだし、例えば、人は、これからがうんこだからとか胸触っていいなどの録音された自分の台詞に対して「こんな声をおれはしてない」と否認するものだからである。劇団の制作は喫茶店でのホットケーキ代、アイスコーヒー代、また日傘やテーラードジャケットのお名前刺繍有料サービス、トートバッグの費用などを経費として認めなかった。結成当初の劇団ならいざ知らず、二十代の老人が在籍していた時期はすでに本物志向はそれほど重視されていなかった。主要な舞台は電話なのであるから、細部をそれほど作りこまなくても、そこまで取材しなくてもよかったという判断らしかった。実際、本番で必要なことは基本的にはそれほど多くなかった。というか、少なかった。適当に固有名詞をまぶしながら自分が息子であると名乗り、取引先とトラブルがあったんだよ、母さん、と告げるだけでよかった。台詞の数もそれほど多くはないのだから(「母さん、僕だけど」「トラブルがあってね」「僕は大丈夫なんだけど」「現金が必要になって」「うん、ちょっと風邪気味なんだ」「でも会社には居づらくなるかも」「すぐに必要なんだ」「母さん、ありがとう」「父さんには内緒でね」「すぐ返すから」「お米はいいよ、今度来る時で」「今から取りに行くから」「わかった。お米も貰うから」「でも、もしかしたら会社の人が取りに行くかも」)、台本通りに芝居をすれば、それなりに相手には伝わるものであった。劇団の肥大化、組織化によってリサーチはすっかりシステム化しており、さっきも言ったように、簡単なエチュードで必要な個人情報は苦労することなく得ることができた。万が一、その情報に間違いがあっても、実際はそれほど演技設計が狂うことはなかった。電話であることが、こちらの芝居のクオリティをそれほど高く要求しなかったからであると思われた。何しろ突然の電話で心の準備ができていないわけであるから。さあこれから鑑賞するぞと身構えるようなプロセニアム式舞台の観客とは異なり、こう言ってよければハプニングに居合わせた即席の観客なのであり、質よりも勢いが大事だった。相手に積極的にこちら側へ加担して入り込んでもらうことでストーリーは進行するのであった。つまり、インタラクティブであり、参加型アートの一形態と言うべきであって、巻き込まれた観客は多少の粗雑さには目をつぶってくれるのであった。
(続きは本誌でお楽しみください。)