立ち読み:新潮 2022年12月号

水妖生死奇譚みずのばけものしょうじのきたん石井遊佳

 俺はりゅうに棲む河童の化物だ。
 河の流れの底に身を潜め、通りかかる旅人を喰い殺すのを常としている。河の周囲は茫々たる砂漠。この砂の果てがどこへ続くか俺は知らない。だがどことも知れぬ果てからやつらは来る。続々と来る。馬の背にたくさんの荷を担わせた人間どもが、隊列をなしこちらへやってくる。
 旅人ははるか前方に流沙河を見、長大な河が大地にカーブを描くその地点めざし馬を進める。河筋のうねるその辺りは、長い歳月をかけ湾曲部分に砂が堆積して河幅が狭まり、かつ河床のせりあがった浅瀬となっている。この大河を歩いて渡ることのできるのはこの場所だけだ。そこで俺は待つ。
 浅瀬が近づくときまって旅人たちのすることがある。懐にしのばせた護符を握りしめながらあらん限りの大声で、習い覚えた呪文を唱えるのだ。不吉な噂は聞いている、だが自分だけは大丈夫、そう思いながら、歯の根が合わないほどの震えが止まらない。それにしてもこのばくえんせきをゆく旅人たちはあまりに長い間、砂と空だけを見てきたのだ。強烈な太陽光線に朝から晩まで焼肉のように炙られ、吹きつける執拗な砂が全身のあらゆる孔に入り込む不快に耐え続けたあげく涼しく流れる水を見れば、幻でもいい、その中に飛び込みたいという渇望に駆られたとして誰が責められよう。
 それは数十人の商人と荷役の男たちのつらなる隊商だった。彼らはあるいは馬に乗り、あるいは裾をからげ馬を曳いて浅瀬を渡りはじめた。俺の殺しの作法は、不公平であることだ。偶然性を重んじ、可能なかぎりアットランダムに襲うよう心がけている。つまり隊列も半ばとなり、かなりの人数がすでに浅瀬を渡り終えたきわめて中途半端なタイミングで俺は、突如人間どもの前に姿を現す。凄まじい水しぶきをあげて立ち上がると同時に、俺が両手を釣り竿のように振りまわすとたまたま俺の腕の届く範囲を歩いていた何人かが、瞬時に五体バラバラの姿になり四方八方へ吹っ飛ばされた。岸辺で、今しも馬を下りようとしていた数人の連中は足元に飛んできた仲間たちの肘から下の腕や足首を見、それから目の前に出現した異形の者を信じられない思いで見上げる。身の丈数丈、濁った緑色の粘膜に覆われ背中に甲羅、頭に皿、嘴から鋭い歯を剥き出し、手に長い槍を持した恐ろしげな河童の化物に凍りつき、ほら見ろ、嫌な予感だけよく当たる! こんなでかいのがいったいどうやって浅瀬に隠れてたんだ? などと思うゆとりもない、仰天した馬は気の毒なその旅人たちを川岸に振り落とす。後もふり向かず馬は走り去った。馬は逃がしてやる。まずいから。人間とは比べものにならぬ。落馬したうちの一人が腰まで流砂に埋まって見ぐるしく足掻いていたが、他の仲間はそいつの救助など念頭になく脱兎のごとく逃げ周囲には誰もいない。そいつは、数十人つらなった隊列の中でよりによって化物の真っ正面で落馬した、自分の運の悪さがまだ飲み込めない顔をしている。俺は悠然と岸に上がってそいつの前に佇み、俺の大きさを実感させてやる。男があげた、凄まじい叫び声が俺の口もとをなごませる。それそれ、俺が待っていたのはそれだ。理不尽な運命に襲われ人間が放つ絶望の声、怨嗟の声。理屈抜きでそれは俺をよろこばす、それでこそ流沙河の河童の化物。俺はうなずき、まだ叫び続けるその男の頭を踏んづけて瞬時に煎餅に変え、ご褒美としてすみやかな死を与えた。その瞬間水音が聞こえ、岸辺の灌木の陰に潜んでいたらしい一人が逃げてゆく死に物狂いの背中が見えた。浅瀬の向こう岸に逃げていた馬にあたふたよじ登り、たちまち砂煙にまぎれるのが見えたが、俺は気にしない。この餌場で餌に苦労したためしはないのだ。

 雨宮はのぞき窓を見ながら回転釜に点火する。
 スープ作りの準備を進めながら鍋底からじょじょに、大小の泡が躍り出て湯の表面を騒がせはじめるのを眺める。
 調理主任の林がボウルに挽肉、全卵、玉ねぎやパン粉を入れ、使い捨て手袋をはめた手で捏ねている。岡田はゴボウにナッツをまぶす作業中、もう一人の調理員の大山は炊飯室にいて炊飯作業を進めているはずだ。全員長袖の白い調理服、トレパン型ズボンの上から長い前掛け、頭部にはヘアネットの上に浅い庇つきの帽子、マスク。「じゃ、おれゴボウやってくる」岡田がゴボウを揚げにフロアを出て行く。
 林が雨宮に向かって黙って顎をしゃくり、雨宮も手袋をはめ隣で同じ作業をする。充分捏ねたところでミートボールに成形、鉄板を調理台に並べた上から親指と人差し指で輪を作りリズミカルに種を落としてゆく。雨宮は目の前のひとつひとつの作業に集中し、不快な相手の傍にいることから意識を遠ざける。ボウルが空になると鉄板をスチームコンベクションオーブンにセットし、温度と時間を設定。厨房に熱気と蒸気がたちこめ、まったく効かないエアコンの音だけが騒々しい。
 給食棟は様々なフロアに区切られる。この加熱調理室の他に揚げ物室、炊飯室、野菜を洗う洗浄室や素材を切る下処理室、貯蔵室、配膳室、検品スペース、事務所など。それらのフロアで毎日調理員四名、調理補助五名、栄養士一名が働き、曙小学校の全校児童と教職員約三百名分の給食を作る。
 雨宮を含む調理員四名は全員男、給食会社の社員だ。全員が調理師免許を持つ。他の三人の男たちの態度は、最近はただ無愛想な対応程度に落ち着いた。だが自分が新入りだったころの彼らのふるまいを雨宮は忘れるつもりはない。
 この給食棟で雨宮を待ち構えた先輩三名、彼らのしたことは徹底した無視だった。雨宮はここで学校給食調理員のキャリアを始めたわけではない。いくつか職場を変わったことで所々寸断されているが、おおむね二十年以上のキャリアを積み、しかし職場が変われば勝手も違う。三人は雨宮が何を訊ねても返事をせず、顔を見合わせにやにやしたものだ。だがありていに言って嫌がらせなど雨宮は平気なのだ。
 彼らが雨宮の嫌悪の対象になったのは、彼が児童養護施設出身だということを同僚たちの前で茶飲み話に持ち出されて以来である。雨宮はそれを隠していたわけではない。履歴書にも書いたことだ。そもそもが社員の履歴書の内容を他の社員に漏らしたのは給食会社の上司に違いない。雨宮は何度も転職を繰り返したが毎度同じ経過を辿るところを見ると、なべて会社の人事部というのは入社した社員の履歴書を、側溝に投げ捨てる吸い殻か何かと考えているらしい。
 ここで働き始めてしばらく経ったころ。雨宮が休憩室に入った途端におしゃべりが止む。湯呑みを手にした三人の調理員、数人の女性パートがパイプ椅子に座っており、全員の目がいっせいに宙に泳ぐ。調理員たちは素知らぬ顔で茶を啜りながら窓の外を眺めている。不自然な沈黙のあと、パートの中で一番年嵩の中川が「なあ、あんた」雨宮に話しかけた、「別に悲観することないで、ヘタな親なんかおらん方がましや、あたしの亭主なんか小さいころままははにいびられて、飯も食わして貰えなんだて今でも愚痴るんやから」横合いから別のパートが、ばつが悪かったのだろうホッとした顔を隠そうともせず中川に「そらそうかも知れんけどあんた、昔うちのおさん、駅前通り掛かるたんびによう言うとったで、戦後すぐの頃にはここでみなしごが何人も何人も野垂れ死にしてたんや、ゆうて」
 雨宮は「そうですね」と言う。心の中で歯を食いしばる。調理員三人が横目でこちらを窺っている。何でもない顔をすることだ。生きるための手続き。自分を理解しない人間たちに入り混じって生きる資格を得るための手続き。その場の話題が自分以外の事柄に移り、誰も自分に注目していないのを見すましてから、雨宮はそっと休憩室から立ち去る。
 回転釜に沸かした湯にコンソメの素を入れ柄杓でかき混ぜる。スープができたところに栄養士の村瀬が台車を押して入ってきた。呑気そうな細い目、丸顔の若い女、今年採用されたばかりの新人。栄養士は普段事務所にいるが、今日は調理補助の女性が欠勤したため朝からパートタイマーに混じって働いている。調理補助のパートは全員四十代、五十代の主婦たちだ。
「これ、お願いします」
 村瀬が押してきた台車には野菜の入った青い運搬用かごが数個。皮を剥き一口サイズに切ったじゃがいも、ニンジン、玉ねぎ。ミートボールシチューの材料だ。村瀬は水色の調理服に薄いピンクのエプロンをつけている。調理作業中の調理員は白い調理服に白いエプロン、焼き物や揚げ物担当は白い調理服に青いエプロン、野菜を洗ったり切ったりの下準備中は水色の調理服に薄いピンクのエプロンと決まっている。
 にわかに表が騒がしくなり、厨房の窓から大勢の児童たちの群れをなして行くのが見えた、給食棟のすぐそばは渡り廊下で「はい、こっちこっち。そこ、ふざけない!」児童を講堂へ誘導するようだ。女性教師の髪に午前の光が反射し、笑い声がはじけ、光の中でぴょんぴょん跳ね回る子供たちの姿を窓から見て「何いちびっとんねん」林が苦笑する。「何か、これから映画鑑賞会らしくってはしゃいでるんですよ」村瀬が作り笑いをし、林が「そうかいな、授業がなくなるさかいうれしがっとんやろ」「映画って何やねん」作業指示書をめくりながら岡田が訊き、「『西遊記』ですって」村瀬が答え、台車を押して出て行く。スチームコンベクションオーブンの作業完了のブザーが鳴る。

(続きは本誌でお楽しみください。)