手勢はほんの五百にすぎず、せいぜい平時の体裁でしかない。
寄せ手は一万五千を数えた。籠城側から実数まではわからぬものの、押し寄せてくる気配というものがある。旗印を眺めていれば、どこの誰がいかほどという見当はつく。
田辺の城は丹後に位置する。政治機構の中枢である京都の北西に隣接する地域を丹波と呼んだ。その後背を占めるので丹後である。日本海に臨み、朝鮮半島、ロシア、中国と対する。
この時代、日本の交通は日本海岸でも活発である。
今回の争いが日本全域に及んだ場合、田辺もまた要害として機能する。争いがどこまで広がるのかは、誰にも予想のつけようがない。大乱の予感を誰もが抱いた。少なくとも向こう二、三年は大きな争いがまた続くことになる、というところまでは確実にみえた。
つわものたちは大きく西と東に分かれている。
東側の将を徳川家康。
西側は先の覇王の臣下よりなる連合である。家康も元は臣下としての礼をとっていた。
第一には、覇王の血脈と、飛び抜けた臣下の才覚、どちらが天下を獲るかという争いである。数年の諍いを経て、干戈を交えるよりない、ということになった。
どことなく馬鹿らしい話であるが、西と東に分かれて戦う以上、つわもの達はまずチェスの駒のように白黒分かれて整然と再配置される必要があった。各自の領地で西側と自認する者は東側を、東側と自認する者は西側を討つなどということになったら、統制のとれぬ大乱戦が列島を覆うことになるのは明らかだった。
ために、家康は味方を率いて京都から一度東へ離れ、西側は列島西部第二の都市、大坂へと参集した。
紅白戦のようにして、どこかで大決戦を行い雌雄を決する。そこまでが暗黙の諒解である。
実務としては、各所で取り残される城が生じた。西と東に分かれて陣取りせよと言われても、城を持って歩くわけにもいかない。仕方がないので人の方を城に残すこととなる。
西方の勢力に浮かぶ田辺もまた、そんな城の一つである。
城主の名を細川幽斎。
幽斎は雅号である。僧としては玄旨を名乗った。名は藤孝といったのだが、二人目の主君が謀反に倒れた折、息子ともどもすみやかに出家している。世を儚んだわけではなく、続くはずの大乱での去就に迷い、まず髪を剃り、俗世を離れる意を示した。乱のすみやかな平定後、息子は軍事の舞台に戻ったが、幽斎は政治の舞台の裏へ回った。田辺はその隠居城である。
今回は、迷わなかった。
家康が東へ去るに当たり、息子へ三千五百の兵を渡している。丹後十二万石における軍役は、幽斎が千、その息子が三千と定められている。自軍の半数を息子へ渡した。
周囲の城を焼いて、田辺へ籠った。
「死ぬだろう」
という想いはある。
「むしろ死なねばおかしいのではないか」
と、これは他人事のように首を傾げた。東西のどこか中間で大規模な決戦が戦われるとして、長期化はもはや避けられない。戦線は膠着し、日和見の末の増援の多寡が勝敗を分けることになるはずである。のちの兵站の混乱を避けるため、西側としては支配領域内にとり残された東側の勢力をいちいち摘んで回ることになる。
摘み手としては、手っ取り早く摘んでしまいたいところであるが、大軍を割けば中央の戦力が減る。痛し痒しというところであり、
「一万五千」
という数字は満足するべきものだと幽斎は思う。勝ち目などは考えるのも馬鹿らしく、ただ戦を引きのばすのが使命であって、死を免れようはない。一方で、
「意外に死なぬかも知れぬ」
と数々の難所を泳ぎ渡ってきたこのAIは思う。
(続きは本誌でお楽しみください。)