立ち読み:新潮 2023年1月号

赤い猫/小山田浩子

 夫婦とも一日働いて帰宅し冷凍しておいた餃子を焼こうと思ったが面倒になったので茹でて夕食に食べ風呂にも入りそろそろ寝ようかとしているところで夫が心臓がなんかおかしいと言った。「心臓っ?」私は仰天したが夫は痛がっている感じでもなく目を伏せ自分の胸と手首を押さえ不思議そうに首を傾げている。「大丈夫っ?」「多分。すごく苦しいわけでもないし、なんか自分で自分の心臓が変なだけ」夫はもともと持病があり、その関係で結婚前に心臓を手術したことがあるとは聞いていた。「手術の影響があるのかもしれないし、大丈夫だと思うけど、術後何年か経って変になるケースがあるかもしれないって聞いたことはある。前の定期検査からも結構あいてるし」夫は体調不良時に救急車を呼ぶべきか夜間救急に自力で行くべきか翌朝まで放っておいてもいいか医療スタッフが判断してくれるという二十四時間対応ダイヤルに冷静な声で電話し(そんなサービスがあるなんて私は知らなかった)、そういう手術歴があるならすぐ呼ぶべきだと助言されたから呼ぶねと言って一一九にも自分でかけた。意識はあり顔色も呂律もなに一つ普通、通話を終えると夫は体をウエットシートで拭いて寝巻きから普段着に着替え歯を磨いた。「口、ニンニクくさくない? 餃子」「えっ、うちの餃子はニンニク入れてないよ」「えーっ、餃子なのに?」「うちの作り方は前からそうだよ、一度も入れたことない」「なら安心、なら安心」夫はメガネも洗って鼻毛を確認しマスクをつけ靴を履いた。私の方がよほど動転しながら化粧すべきか悩んだり印鑑を探したりカロリーメイトとあるだけの現金をカバンに入れたりした。二人でアパートの部屋を出て戸締りをして一階まで降りる。降りながらかすかに聞こえたサイレンが徐々に大きくなり、一度遠ざかるように弱まりうちではなかったかと思っていたら急に大きくなって道路一杯赤い光が差しこんだ。道路に数日前から落ちてへばりついている黒い靴下が照らされて引き伸ばされたように見えた。どこかの犬がボンボン吠えた。夫は救急車から降りてきた救急隊員に自ら名乗り状況を説明し救急車に乗り靴を脱いで車内の寝台に横たわった。取り残された私はご家族ですかと救急隊員に聞かれ妻ですと答えたら訂正するかのような口調で奥様ですねと言われた。「奥様から見て、ご主人の様子になにか変わったところはありましたか?」「いえ。なにも」「付き添われますか?」当然付き添うものだと思っていたので少し動揺した。だって、もし、万一……「え、はい、いいですか?」「いいですよもちろん。コロナのワクチン打ちました? 何回?」付き添いの座席は寝台と正対する位置に固定されていた。進行方向に対して直角になる向きだ。救急車内の壁に機械や道具がたくさん格納してあって、それぞれベルトや紐で落ちないように固定してあった。それらの用途はほとんどわからなかったが尿瓶とAEDはわかった。あと多分酸素マスク、飛行機に乗ったときに機内映像で見るのと似ている。夫は寝台の上で白い布団にくるまれ色褪せたオレンジ色のベルトでぐるっと固定されていた。いままでどんな人がこのベルトで固定されたのだろう。血まみれの人、錯乱している人、昏倒している人、こと切れそうな人、車内で亡くなった人もいたかもしれない。そういう乗り物に私はいま乗っている。窓がなく外の様子はわからない。走り出すときに救急隊員から心臓の専門の先生がいるどこそこのなんとか病院が受け入れてくれましたので行きますと説明されたが聞き慣れない病院でぜんぜん頭に入らなかった。夫は横たわったままハイと答えた。知ってる病院? 小声で聞いたが聞こえなかったのか返事も反応もなかった。車内でもピーポーピーポーというサイレンはかなり大きく響いた。救急車が通りますというアナウンスは録音ではなく救急隊員が逐一マイクで話した。青いキャップをかぶり薄青い不織布の上っ張りを着た救急隊員は一人が運転し、もう一人が助手席に座りもう一人が運転席の斜め後ろにある座席に座った。夫は救急車の中では真上を向いて目を閉じ必要最低限の受け答えしかしなかった。夫にはいくつか管がつながれていて、その先の黒い液晶のモニターがピコンピコン動いて赤や緑の文字や折れ線グラフが夫のおそらく脈とか血圧とかを表示し記録していた。救急隊員はそのモニターをバイタルと呼んだ。そうではないかもしれないが私はそう思った。バイタルどう? バイタル見ます……バイタルが動かなくなってピコンピコンがピー……になると人は死んだことになるのだろう。折れ線グラフが直線になり数値が消える、父方の祖父母と母方の祖父は病院で亡くなっているが、亡くなる瞬間に居合わせたことがないのでその印象はテレビなどで見たものだ。夫のバイタルはちゃんと動き続けている。だから夫は生きているのだが私は心配になって仰向けに黙って横たわる夫の顔に手を伸ばしてメガネを外そうとした。邪魔そうだったし、マスクのせいで曇ったり戻ったりしているのがいかにも不快そうだった。私は中腰になって夫のメガネのブリッジに手をかけ上に引っ張るように外すと夫が目を開けびくりと動いた。ピ! といままでにない音がバイタルから聞こえた。救急隊員がバイタル! と言い、夫に覆いかぶさるようにして布団に隠れている左腕か左肩あたりを確認した。そして、問題なし、と言い、夫の名前を呼んでどこか痛いですかと言った。夫は大丈夫です、すいませんと言い横目で私を見てから目を閉じた。私は夫の体温と皮脂で内側がぬるついているメガネを膝に載せ、少し迷ってからカバンの中のハンカチで包みメガネのつるを畳んで押さえて解けないようにしてカバンに入れた。運転している人か助手席の人が無線でなにか言った。ハンドルが切られ、減速し、私たちは緊急搬送を受け入れてくれた病院に到着した。

(続きは本誌でお楽しみください。)