立ち読み:新潮 2023年3月号

はだかのゆめ/甫木元 空

 午前3時。気づけば、かれこれ5時間くらい同じガムを噛み続けている。
 そろそろ彼奴が飛び出す時間。無骨な顔した岩岩は、顔に似合わぬ協調性をみせつける。ココ、東鳳翩山の山頂で、一人。寒いのか、暑いのか、痛覚は疾うに通り越し焚き火のチョロチョロと揺れる火に目を向けながら、父の骨壺を抱き、分裂をくりかえす。もう死にぞこないの火を、生きながらえさせたい、枯葉でもくべてやるか。と、思ってはいるものの。いっそ眠らせてやれと願う彼奴が、子供でもあやすかのように口を大きくあけて、話しかけてくる。脳からの信号は木からしたたる樹液のようにトロくなり、言葉には輪郭がなくなった。耳には彼奴の声がやまびこのようにこべりつく。あぁ、まったく身動きが取れない。そういえば小学校6年の時、父に彼奴の事を相談した事があった。下校の時間、ニヤニヤした顔を新車から覗かせて。山登りが好きだった父が、家族みんなで移動できる様にと、ステップワゴンをこしらえた。オブラディ、オブラダのリズムに合わせて、ブラウン管の中で、クルクル回転していた車が突然目の前に現れたのだ。ワンタッチで自動開閉する窓ガラスを得意げに操作する父の手は、はしゃいでいた。そんな父を横目に僕は新車の匂いを嗅ぎながら、ビニールに包まれた座席に腰掛けもう一人の自分、彼奴の話をした。父はそれまでの浮かれまくった顔を豹変させ、ボーッとしてるからだ! と怒り出し、少しは動けと車を降ろされ、走って帰るはめになり、挙げ句の果てには翌週からサッカー少年団に入る事になってしまった。なんとまぁ、とんでも無い事を口から漏らしたものだと思い、これ以降、彼奴の話は誰にもしていない。
――ッチャ、ッチャ。
 いよいよ彼奴も、ガムを噛みはじめた。オイオイ、お前さん。ココはオイラのねぐらだよ。登山やハイキングの休憩所でおなじみの常設の机と椅子。その机を台にして寝袋にくるまる僕の上空に、フッと。ハンドルが浮かび上がった。
――あぁ、いよいよ……
 もし椅子に座っていたらハンドルは握るのにちょうどいい高さなのだろうが、机の上で寝ている僕にとっては遠すぎる。顔すれすれに浮かぶだけならまだしも、ハンドルは右に左に動きだす始末。地上から数センチ浮き始めた体は自動運転に身を任せ、自分が動いてるのか? 周りの風景が動いているのか?
――ヒャ、ヒャ、ヒャ。ブビ。
 奇怪な笑い声は鼻にひっかかり、ブタっ鼻が轟く。ならばいっそ、宙に浮いている事に楽しみでもこしらえてみようかしら。僕の脳みそはこの奇怪な展開にも白けた態度でボーッとしている。今、どこらへんを飛んでいるのか。雲の切れ間から見える看板は今にも飛びそうで、グルングルン名前をバタつかせている。ガムを吐き出す気力はどこへやら、何が自転し誰が公転してるのか? 宙に浮き、冷凍されたマグロのように華麗な横移動を見せる心技体。あれは死に体だが、僕は生きている。これが、ワーープというやつか。どうも時間に身を預けているのが苦痛になってきた。
「あ……」
 久方振りに発した声は宙返り、側転を繰り返している間に声の主は入れ替わる。
――そろそろ休憩しませんか?
 休憩させたいのか、どこかに連れて行きたいのかどっちかにしろ。と思いながらおしゃべりなハンドルを睨みつける。
「ひたすらまっすぐ」
 適当な事を口走ると、彼奴の哀れむ視線を感じる。いつでも彼奴からの一方通行。そんな事言ってどうするの? 大丈夫なの? いつも彼奴は頬杖をつき、肩に手をのせ焦らせてくる。冷静に振り子を逆に振る彼奴の振る舞いに、脳みそがユレル。そんな反動に身をまかせ、投げやりなやる気でガムを吐きすてた。
――ぷ、ポテ、コロン。ぐちゃ。
 いっそ、オレの頭も後方のダレカさんが轢いてくれないだろうか。いつだって、頬を伝うのは、後悔。あくる日には、まだ見ぬ今日が来ないものか。明日は、違ったニンゲンになれないものか……
――もしもーし。モシモシ。ふむふむ。なるほどです。
 あーあ、このまま。ベッドとくっついて時間と速度でもって、溶け出さないものだろうか。ダレカの精子となって、ティッシュに包んでトイレに流して欲しい。今日も今日とて、後悔だけが脳をはいでて頬を伝う。そんな時にかぎって彼奴は、声を殺してこちらをジッと見つめる。
――そろそろ、任務に戻ろうか。
 いつでも彼奴はきやすく喋りかけてくる。
――ぐーすかハチベエ、頭を使え。体を乗り換えろ。ぐーすかハチベエ、明日を対価に、今を乗り換えろ。ぐーすかハチベエ!
 小鳥の歌が朝を呼び、時間を4時間進ませた。焚き火は燃え尽き、沈黙が山頂に居座っている。寝袋にくるまる僕は目をあけた。朝露が頬を濡らす。たぷん、たぷん。僕らの体に潜む水がユレタ。
――水には記憶が織り込まれて居て、そいつがどうも夢を見せるらしい。そこに波動を巡らせ、まとわせ、明日に駈け出す物語を物語る。夜になると、川に記憶をたれながし、記憶は海に沈んでいく。80億人の思考の彼方に、捨てられた記憶をすくい上げクジラがピュッと潮をふいた。そんなこんなで雨がふる。
「誰でもいい、彼奴の口を塞いでくれ」

 ドサ。目を閉じた先に見える暗闇に、白いチョークの波が揺れる。瞳にかぶさる二の腕の重さから見えた幻想か。どんどん立体的になっていく。その波にのまれ、流された瞬間、むなしいダンボールの山頂で僕は目覚めた。ボーッとあたりを見渡してみるも、ダンボールの山がいくつも積み上がっているのみ。無駄に個数でも数えてみる。1、2、3。ドタドタと階段を上る鈍い音が部屋に響いた。ピンポーン。予定より早く、十条での彼女との同棲生活の終わりを告げるチャイムがなった。「自分の物ばっか。自分の事ばっか」彼女が最後に吐いた言葉が脳内をゆっくり散歩している中、エッサ。エッサ。汗だくの引っ越し業者が、露骨すぎる表情でダンボールを一つ一つイヤイヤ持っていく様はどうも複雑な感情を生む。昔からの変な癖だが、いわゆる作業着を身にまとった人たちを見ると、何かの工作員? スパイ? 悪人に見えてきてしまう。幼稚園生の時分、向かいにそびえ立つスーパーの屋上にいる清掃員が、自分を狙うスナイパーだと思って生きていた。何を隠そう自分は平穏な幼稚園で一人、ヒーローだと錯覚していたのだ。あぁ。あの時分は、悪の組織から必死に身を守りながら生活したものだ。時が経ち、小学校に上がるとまず、授業中いつどこから大量の弾丸が飛んできても大丈夫なようにリハーサルを繰り返す。机を盾に、人並み外れた脚力で、好きな子を銃弾の雨の中救いだすシミュレーションは完璧だった。その時分の自分よ。よく聞け、20年後現実はこのザマだ。
 彼女はココに残り生活を続けるらしい。
 カビ臭い父の残した大量の本たちが運び出された今、畳の匂いを初めて感じる。部屋の広さに少し驚きつつ。自分の物が残ってないか少し、うろついてみる。思っていたより、広い。手を叩くといつもより響く。「あわわわわ」口先を手でたたき奇声を発してみる。「うるさい」向かいの家の洗濯機が今たしかに喋った気がした。こちらの動揺など気にせず、渦は逆回転を始め、ガラガラと泡の中からおしゃべりな映写機が顔をだす。フィルムは走りだし。ランプが点灯。投影されるイメージにハハッ。母親の胎内で聞こえる音は、もしかしたらこんな音なのではないか? のんきな脳内映画に時間が溶けていく。
 夕暮れの光と共に洗濯機の回る音を聞き。天井を見つめていたら一日が終わり夜を迎えた。何故ダンボールに詰めなかったのか。完成したケーキを入れる透明なケース。電子レンジ用鉄板の取っ手。引っ越し先に荷物が届くのに時間がかかるとの事だったので、小型扇風機。あとは、寝間着。あらためて見返すと、ガラクタと呼ばれるものたちをキャリーバッグにむりくり詰め込んだ。
 重い。遠心力でもって、お荷物と化したキャリーバッグをハンマー投げの様に投げ飛ばしたら、どれほどスッキリするだろう。階段をエッコラ、エッコラ下ると、エントランスの窓ガラスに汗だくの自分が。ますますこのまま捨ててやろうかと思ったが、なんのこっちゃない。地に足が着き、ガラガラと音を立て、いざ旅が始まると、いい相棒に思えてくる。左手に携帯、右手にキャリーバッグ、それらに信号を送る脳を右に左にグルグル揺さぶり、果たして誰が主人なのか。僕はキャリーを引かせていただき、Googleの指示通り歩かせていただく。今日の集合場所はいつもと違う。
 近頃、ココ、Tokyoでは、外国人観光客が持ってくるWi-Fiなど、様々な電波が飛び交いすぎて電波障害が起きているらしい。嘘の方角を教え続ける主人に翻弄されながら、やっとの思いで目的地東京駅鍛冶橋駐車場に到着。電光掲示板がチカチカといくつかのバスの到着を教えると、仮設のプレハブ小屋に待機していた人達がアナウンスに導かれ一斉にバスの方へ動き出す。
「一列に並んでください! 一列でお願いします! お名前は?」
 パツンパツンな黄色のジャンパーをシャカシャカ鳴らしながら「並んで!」と怒号を飛ばしていた人とは到底同一人物に見えない優しい「お名前は?」に、おもわず顔がゆるむ。
「ホッキモトソラです」
「ハ、ハ、ハ、」
 おいおいお前さん。軽快にハ、ハ、ハ、と発しながら下っていく指先にオイラはいないよ。
「ホです」
「ん?」
 自分の失態をごまかすように、無駄に何度もペラペラと紙をめくっているが文字は自ら名乗り出しはしない。
「すみません。もう一度お願いします」
 今後の人生で、何度この作業を繰り返すのだろう。持って生まれた名前と足りない滑舌によって、小、中、高、大とクラス替えが行われる度、呪文のように繰り返し唱えられる名前。
「ハッキモトくん! あれ、ヘッキモトくん?」
「ホです。ハヒフヘホの。ホッ!」
 なぜ日本人はこんなにも伝えにくい、ホ。という言葉を生み出したのだろう。通過儀礼とでもいうか。もう、伝わらない事に慣れてしまった。
「5のAです。どちらで降りられますか?」
「高知駅です」
 切符など見せずに、名前と降りる場所を言えば乗れてしまうこのシステムは、便利だが、大丈夫かなぁ? 気を抜くとすぐにコメンテーターを気取る彼奴を引っ叩き、カラン、コロン。空っぽの頭に想像力を補充する。添乗員に軽く会釈をして、キャリーを預け、夜行バスに乗り込んだ。珍しくバスは空いていた。これはぐっすり眠れそうだ。冷めきった弁当の様に、どこか惨めな青白い車内。椅子はあらかじめ倒されており、さながら西部劇の序盤で一気に倒されるちょいワル市民。自分の座席を見つける。隣にだれも座らないでくれ、と願うだけ願ってみるが、こんな事に運は使いたくないので訂正。瞳を一度閉じてみた。
 バスは気がつくと走り出していた。どこからか、キイキイ軋む音が不安を煽る。夜のビル群は、背中を丸めたスーツのおっさん達がドロドロと歩く姿に見え、流れていく。高速に乗るとすぐに消灯。ポキン。いつのまにか、胴より上はマッチ棒のようにへし曲がり、窓ガラスと混ざり合っていく。口はポッカリと開き、空気感染真っ最中。小刻みに揺れる振動と、何本もの光の筋がカーテンの隙間から差し込む。枝葉のように分かれた光は天を登っていくように、カラヤン指揮のもと奏でられる交響曲で舞い上がっていく。スルリ。スルリ。足元を見れば、スケート靴が付いていて、天にでも登って踊り狂おうか。スルリ、スルリ。スルスルスルリ。あしたは、何色の靴を履こうか? スルリ、スルリ。スルスルスルリ。いつのまにやら、白銀のスケートリンクを頭に浮かべていたら、満面の笑みで滑る自分と目が合い、スピン。軽い後悔をコーヒーと共に飲み込み、少女のような妄想を黄色い痰に変えてペッと吐き出し、ティッシュにくるむ。
 ツン。サービスエリアについたのか、パッとライトが全灯する。カーテンの隙間から外を覗いて、目を閉じようと思ったのだが、斜め前のおんちゃんが、ヒョっと。こちらのコンビニ袋に入ったおにぎりを舐め回すように見つめてきた。
「いいなぁー」
 おい、心の声がだだ漏れだぞ。彼奴も顔を覗かせる。ズズズ、わざとなのか音を立ててビールを呑むおんちゃんの手に一瞬、スルメが見えた。スルメ……その瞬間、おんちゃんの声と僕の心の声がシンクロした。
「いいなぁー」
 観衆はもう僕らに割れんばかりの声援を送っている事だろう。のけぞる背中、水面から飛び出た爪先はおんちゃんとそりゃもう息ぴったりんこんよ。気がつくと僕の右手はおにぎりを差し出していた。
「あ、あげましょうか?」
「そりゃそりゃ、おおきに。かわりに……」
 はやく、はやくスルメをよこせ。
「柿ピーあげるわ」
「ありがとうございます!」
「なんちゃ、なんちゃ」
 想像を超えてきた。想像を超えすぎて、いつもより元気よくお礼を言ってしまった。クソ、スルメが食べたい……降りる気が無かったサービスエリアに降りてみる。
 スルメ、スルメ、スルメ。
 彼奴がしつこく連呼する。わかってる、わかってはいるが、探せど、探せど、おしゃれなスルメしかない。探しているのはおシャレなスルメなんかではない。しけたスルメ、彼奴のスルメだ。くそ……スルメ、スルメ……。スルメ……。スルメッ!!
 ベキッ。相棒のキャリーが怪我をした。夜行バスは気付けば終点の高知駅。ここからは路面電車に乗り、スイーっと水路と並走。鼠色の病院という文字が見え下車。入口、出口、入口、出口。駐車場の入り方は嫌ってほど分かったが、病院の入り方が分からずウロウロ。右往左往していると先程までカタカタと鼻歌を歌っていたキャリーのタイヤがモォムリと叫びモゲタ。青いボディーの一部ごとゴッソリはがれたタイヤは水路に落ち空転、空転。お互いにとって都合のいい関係というのはいとも簡単に崩れ去るものだ。ドッドッドッド。
 陸橋、弟フウヤ走る。ありゃ、弟が走っている。三つ下の弟は家族の中でも宇宙人と呼ばれるほどのマイペースで、なにか物理的な目的がないと走らない。徒競走なんてものは走る目的に値しないとでもいうように号砲が鳴ろうが、スタート地点で土遊びをしていた弟。なぜかサッカーにだけは熱中し、ブラジルに留学までしたが父の死後パタリとやめブクブク太り、ますますノロマの極みを生きている。
 そんな男が珍しく全速力で走っている。キャリーバッグを慌てて担ぎ、病院に走ろうとしたが、重さのせいか、暑さのせいか、何やら景色が縦に横に伸びていく。景色は、形式を変えて長方形の筒を作り出す。筒の中に病室が映し出された。
 痛覚のない光景はだらしなく伸びていき、黄ばんだ病室の中、一番隅っこ。弟が走ってきて、カーテンレールを動かす。母がベッドに腰掛けていて、拍子抜けするような声で「おぉ」と声を発した。いつもの母だ。笑いながら、少し、人を小馬鹿にしたような顔をしている。
「じいじいが、わしよりは長生きさせてくださいって、そりゃそうだよね」
 唐突に母の目から涙がこぼれた。動揺し緩んだ腕から自分の爪先めがけてキャリーがドスン、落下。バッグの中からバツの悪そうな顔で彼奴がヌルっと仰けぞり這い出てきた。

「お前の話は、ぼそぼそしゃべるき。全く聞こえん!」
 じいじい事祖父は、怒り狂っていた。流動する全ての事柄を一時停止させ、首根っこ捕まえて、自らの道の上に規則通りに並べ替える。国道56号を西へ。
「じゃーじゃー。じゃーじゃー。何言いゆうか分からん!」
 太く黒ずんだ指先でラジオを消された。弟は顔色一つ変えずハンドルを握って微動だにしない。この男は何を考えているのか、東京の接骨院に勤めているはずだが「仕事は?」と聞くと「やめた」「今後どうするの?」「しらね」三文字でしか返ってこない会話のラリーに嫌気がさし自分も遠くを見つめる事にした。前方を走っているタンクローリー。何を運んでいるかは知らないが、丸みのある字体で「危」黄色いプレートを掲げながらノロノロ。銀色の楕円の中に伸びきった僕らの顔面と車体が車間距離によって伸び縮み。ずっと見つめているとカランコロン、振動と共に揺れる頭。またどこかへワーー……。頭をブチ叩く。あぶないあぶない。視線をタンクローリーに。車体は導かれるように土佐インターから高速道路をさらに西へ。
「さっき先生はなんて言ってたんじゃ? マスクのせいじゃ! ぼそぼそって! お前は聞こえたか?」
 今年86になる祖父の耳は遠い。補聴器をつけているものの、今日は特に調子が悪いらしい。聞こえないのなら、いっそという事か。先生からの説明に人一倍頷いていた。説明はまだ途中なのにも拘わらず。なるほど。分かりました。それじゃあ、よろしくお願いします。と何度も切り上げ帰ろうとする。まだ終わってないと祖父を諭すのだが。末期ガン。ステージ4。記号や符号と化した言葉が中空を漂う。どうも。数字にされると重いのか軽いのか。カップラーメンの蓋に書いてある待ち時間じゃあるまいし。宣告されても、人によっては麺を硬くしたい人もいるだろうし、柔らかくしたい人もいるだろう、茹で時間くらい感覚に身を任せたいものだ。数字にすることで数え切れてしまうという現実と、有限であるという事実に揺さぶられ、ユレルユレル。が、ようするに母の余命は2年という事らしい。
 もう何個目だろう、数えるのもバカらしくなるほど、トンネルをくぐった。くぐる度に、天気も変われば、祖父の態度もコロコロ変わる。
「おい。はかってみーや」
 高速を降りて最初の信号。祖父は少し小馬鹿にした顔で、信号待ちでどのくらい人生をロスしているのか弟に計らせはじめた。
「1分20秒」
「ほぉー」祖父は、自分がたった1分20秒も待てないことに驚愕していた。体感では何分、何十分も経っているように感じていたのだろうか。
「……それにしても今日の病院は待ちすぎじゃ。にゃ? 絶対にまとぅろう?」
 確かに待つが、先生だって遊んでいるわけではない。おそいにゃー。おそい! といくら言っても、流れる時間は変わらない。そんな待てない人を乗せてる時に限って、渋滞はどこからともなくやってくる。ゆっくりと過ぎ去る事をやめた景色と、赤いブレーキランプに瞳が染まる。こんな田舎町で渋滞なんて、よほど運がない。祖父の右足はタッタカ、タッタカ、貧乏ユスリを飛び越えステップを踏み始めた。タッタッタ。タッタカタン。タッタッタ。タカタンタン。祖父のリズムから焦りや苛立ち、現実を早く切り上げたい、冷静を装うためにも早く帰りたい気持ちは痛いほど伝わってきた。真っ白いけだるい彼方目眩ましを食らったかのような気持ちのすべてを葬り去る様に、差し込む赤い光に身を預け顔を窓に埋めてみる。思えば、母の様子はあの日からおかしかった。
 二ヶ月ほど前だろうか。パスコン! パスコン! ベランダから庭へ荷物が次々と降っていた。思い出の品々が地面に叩きつけられて飛び散る。これが何故だか心地良い。
「じーちゃんもいい歳だから」
 おそらく何百回も聞かれたであろう、なぜ引っ越すのか? という問いに答える母の顔は、ひどく疲れ切っていた。母の新旧友人達が、埼玉県越生町、ピンクの賃貸住宅に大集合。自分にとってはビックリするような組み合わせの人たちが、力を合わせて引っ越し作業を手伝ってくれていた。ビニールを開き、これはいる? いらない? 大体の物が燃えるゴミの袋にしまわれ、車に詰め込まれる。最初は母の判断を皆んなで仰いでいたが、ラチがあかない。引っ越し業者が来るまであと2日。時間は刻一刻と過ぎていき、分別作業は自己判断に委ねられた。ゴミ処理場に時間内でどれだけ行けるか、ひたすら反復横跳びを繰り返す。それにしても、デルワデルワ。20年分のアカを吐き出す作業は、われわれ家族が思っていた以上に大変だった。
「子供はできちゃうんだよね。欲しい人の所にいかないのにさ。めぐり合わせだからね。こればっかりは」
 単純作業、集団労働というものがそうさせるのか、取り繕うもの、箍がはずれ。口という口からもデルワデルワ。
「……お金のために結婚しないんだって。結婚すると母子家庭にならないでしょ?」ある母親は自分の息子を嘆いているのではなく、自分を嘆いているようだった。
「まぁまぁ、アイツもああ見えていい奴ですよ」
 溢れる小言、強がりに耳を傾け、いなしながら、自分も随分大人になったものだとエツに浸る。
「あんたのハハは、愚痴一つ言わない人だね。不思議な人だよ。チチは本当しあわせもんだったね。とても窮屈な生活をしているようではなかったよね」
 我が家では親の事を父、母と呼ぶように教育されてきた。それが周りの家庭では珍しかったのだろう。親しみを込めて、父ノブルはチチというあだ名のように、母シズもハハと呼ばれていた。
――俺金ねぇよ。
――女の腐ったみてぇーにネチネチネチネチ。
――本当に、一銭もない。
 父という男は、モジャモジャ頭に度付きサングラス、折れ曲がった背中、空色のスカーフ、ロングコート、一眼レフを肩から担いで、井上陽水と金正日を足して割ったような顔面。こう改めて口癖や身体を文字に起こすと相当ヤバイ父親だ。我が家ではやっかいな長男という扱いだった。
「そういえばこの前永源寺に、髪の毛とかあんま急がない所とか、チチと瓜二つの人がいてね。いるんだなぁって」
「……」
「ハハとチチが病気になってからだよね。家にモノが溢れるようになったのは。生きてるだけで精一杯だったんだよ」
 母の親友とも呼べる人が母に聞こえないようボソッと自分にだけつぶやいた。
 10年程前、父と母が仲良くガンになった。母は早期発見だったため、大事にはいたらなかったが、父はそのまま弱っていく一方だった。放射線治療の影響で二人とも髪は抜け、薬の副作用に悩まされていた、はずなのだが。何故こんなにも近く毎日見ているのにも拘わらず、少しずつ動くモノには盲目になってしまうのだろう。父の弱っていく姿に目移りしていたのか。母が苦しむ姿を覚えていない。物は溜まっているとは思っていたが、昔からウチはこんなもんだろうとも思っていた。
「思いはあるんだろうけど、他人からみたらゴミなんだよね。私からみたらねぇ。捨ててもいいと思ってたんだけど」
 たしかにそう言われて見渡すと、カビやヒビに蝕まれた壁、先の大地震によって蹴飛ばさないと開かなくなった玄関、窓が閉まらず半開きで風がスースー入る風呂場、糊や箸がコロコロ転がる傾いた床、溢れた物は布で覆われるようになり、何も捨てられない家とは言いようで、いわゆる世間一般で言うところのゴミ屋敷。このまま放っておいたら脇を通るドブ川にいずれ家ごと沈んでいたかもしれない。住めば都とはよく言ったもので、この家に愛おしさすら感じていた。しかし、今はっきりと輪郭を保って思い出せるのは、母の背中越しに見えていたアップライトピアノだけなのかもしれない。合唱団やピアノを指導していた母の背中とピアノの音。近所の人からも、ピアノの家と呼ばれていた。そんな家からピアノが運び出され、ダンボールが積み上がった家にたたずむ母の背中は、少し小さく見えた。
 様々な囲いが外され、夜になり、一人、また一人と帰っていく。残ったのは母と自分だけになった。
「割り箸も捨てちゃったかね?」
 腹ごしらえにカップラーメンでもと思ったが、割り箸が一つしか見当たらない。
 気づけば机も椅子も、何もかんも捨ててしまった。しかたない、割り箸をもう半分に割って二つに。
「折れるっていうのはすごい事だね」
 ラーメンを食べ終わった母が、パキ……。割り箸の割れる音にもかき消されるほどか細くつぶやいたかと思うと、母の体は重力に導かれながらダンボールとダンボールの隙間にスポッと挟まった。挟まれて寝ると暖かくて心地良く、空っぽな部屋の寂しさも和らぐとの事。隙のなかった人がやけに隙だらけだなとその時はいとも簡単に思えていた。
 そんなこんなで埼玉の我が家は、無事空物件になった。ココには、誰が住むのだろう。思い出は、ちゃんと思い出になった。空白、余白。みんながゴミと言うものを袋にポンコラ入れたなら、故郷も一緒に何処へやら。燃えるゴミ、燃えないゴミ、分別。分別。ボコッ。どこからか、風呂場の水を抜いたような音がした。渦を巻き。水位はみるみるうちに下がっていく。いろんな人の素手でもって、かき回したら、センがぬけた。腐りきった水の中から、沈殿していたアレコレが顔を出す。引っ越しは無事終了、母に覆いかぶさっていたモノがなくなった今、露呈したのは母のガン。ついに、爆発。再発したとの報告がいろんなものを吹っ飛ばし届いた。
 父が死んで6年。母は、何事もなかったかのように布を覆い被せ、自身の体調も人にバレないように計らってきた。父がいよいよという時でも、何事もなかったかのように、僕らに気づかれないように。一人で葬儀の段取りをして。いつも、いつも、母の苦労話は事後報告。あの時じつはね。笑いながら語る。今回も母の苦悩にまったくもって気づけなかった。

(続きは本誌でお楽しみください。)