立ち読み:新潮 2023年3月号

部屋の中の鯨/岡田利規

六人が鯨の中? で過ごしている。
そのうちの一人が「お話」を始める。

(以下、お話をする者とそれを聞いている者とのあいだで成立するパフォーマンスが、一種の劇中劇として上演される。)

一頭の鯨が、その何十年かにおよぶ一生を、いよいよ終えんとしていた。
大海原を悠然とわたり、水面と海底とをしきりにそして優雅に行き来し、水平方向にも垂直方向にも旺盛に移動を続ける生活を送ってきた。
よく食べよく排泄した。満ち足りた、精力的な人生だった。
地球環境保全に大いに貢献した人生でもあった。
鉄分や窒素を豊富に含む彼女だか彼だかの糞は、海中の植物性プランクトンたちの成長に一役買った。
増殖した植物性プランクトンたちによって大量の酸素が生成された。
鯨は自らの水平のそして垂直の移動によって、海を攪拌し、栄養素をくまなく行き渡らせたのだった。
その盛んな一生が、間も無く幕を閉じようとしている。
その大きな個体の活力ある動きが、その身体の中を流れる脈動が、徐々に静かになっていき、やがて、止んだ。
命の潰えた一頭の鯨。ゆっくりと海底へ沈んでいく。
そこにはもはや、目的はない。
食べる必要もないし、体内に酸素を溜め込む必要もない。
悠々と、堂々と、海の底深くに到達する。
死んだ鯨は、巨大な炭素の塊としての自らを、大気で満ちる海抜ゼロメートルよりも上の地上圏内から遠く水面下に、数百年間隔て置き、地上の二酸化炭素濃度上昇を身を以て制する。
鯨は、死してなおエコロジカル。

拍手。そのあと全員で、以下のようなおしゃべり。
(せりふは自由に配分して行ってください。)

鯨の死体が海岸に打ち上げられている光景は映像としてよく目にするけれどもあれは地球の二酸化炭素濃度上昇抑制にとってどれだけ大きな損失かということなんだな。海の底で大人しく隔絶されていたはずの炭素の塊が地表に剥き出しになってしまってるっていう機会損失にプラスしてそれを解体してガソリンかけて燃やすしかないっていうのは。

今してくれた話からは、原子力発電に使われた核燃料棒が、放射能がじゅうぶん弱くなるまでの十万年間、ものすごく地下深くまで掘って作られたフィンランドの施設の中で貯蔵されている・眠っている、そのイメージと共鳴するものが感じられた。

われわれは個体ひとつひとつの大きさは鯨に比べるべくもないけれどもいかんせん個体数が多い。年間に死ぬ人間の身体の炭素の量の総計は年間に死ぬ鯨のそれよりずっと多いんじゃないか。鯨は数が相当減ってるわけだし。人間も鯨に倣って死んだら海に沈んで炭素で構成された自らの身体を大気から隔絶することに努めたほうがいいんじゃないか。

少なくとも火葬なんてもってのほかだな。牛のゲップなんかよりよっぽど悪影響大きいんじゃないか。ただちに禁止すべきだ。

殺人犯が証拠隠滅のために死体を海底に沈めるのは地球規模で見ると善い行いということになるのか。

(人間的観点から見たときともっと大局的に見たときとで)価値評価がひっくり返るということは大いにあり得て911の直後にはクジラのストレスホルモン値が下がったことが確認されてたりとかね、航行する船舶の数が減ったのがおそらくは理由じゃないかとされてるらしいけど。

鯨ってそこまで炭素の量が問題になるくらいの大きさなの?

大きいじゃないかこれだってじゅうぶんに。

沈黙。

昔に描かれた鯨の絵とか見てると、昔の鯨ってのは今のよりずっと大きかったんだ、鯨の大きさは昔から現代になるにつれてだんだん小型化してきてるんだ、そういうことがわかる。

その小型化ってのは人間のイメージというか妄想の中の鯨の大きさが小型化してきてるということで実際の鯨の大きさが当時と比べて現在小さくなってるって言ってたわけじゃないと今のは理解していいんだろうか。

そこはでもあえて区別しないでいるほうがおもしろいんじゃないか。

昔は人々がイメージの中で抱いてる鯨の大きさというのが実際の鯨の大きさよりたぶんずっと大きくて、そのイメージ・妄想の中では鯨はバケモノだったと思うんだけどその頃は。それが今の鯨はもはやバケモノじゃない、単に超大型哺乳類だというにすぎないところまで矮小化してる。

でも現在のわれわれにしたって鯨はとにかくデカいというのしか実のところわかってない。そのとにかくデカいというのが要するにどのくらいのデカさなのか。

人智を超えたバケモノというのではなくなったかわりに鯨は今はマスコットキャラクターを務めてると言えるんじゃないか、動物愛護・環境保護のマスコットキャラクター。

(続きは本誌でお楽しみください。)