立ち読み:新潮 2023年4月号

浮き身/鈴木涼美

 ダマスク織を模した植物柄は毛布で、足元にうずくまる形で眠っている女にからめ捕られ下敷きにされているせいで、冷えた肩の上まで引こうにもびくとも動かなかった。黄色味の強い長い髪のところどころがスプレーと汚れで固まった女の脚は細く、部屋に不確かに漂う酸っぱい匂いとは別の、ビニールの匂いがする。その下の規則的な織り目は畳。色はよく見えないけれど一般的な諸目表からは藺草の匂いがする。少し離れたところで薄黄色にぼやけているのはL字型のソファで、その下は灰色が淡く広がるカーペットなのだから、畳とは別の、おそらく襖によって仕切られた隣の部屋が見えている。
 白い液体は精液ではなく、L字型のソファに目を瞑って横たわる二人の男のうち、こちらに金髪の頭頂部を向けた一人の鼻から不自然に垂れて乾燥しかかったもの。ソファとローテーブルに挟まれるようにして、カーペットの床に両膝を立てて座っている女は、自分の右膝と左膝の間に頭部を埋めているので、顔が確認できない。不鮮明な部屋の中で、ローテーブルの上にだけピントが合ったように、乱雑に散らばったストローや灰皿代わりの空き缶の全てがはっきりと輪郭を持って、食べかけのオニギリも見えた。酸っぱいと思っていた匂いを徐々に煙草の匂いが覆っていく。手ではらっても意味のない、長時間、きっと夜の間中複数人が吸い続けた煙が家具や壁にじっくりと染み込んで、今度はその家具や壁が匂いを放ち続ける。
 少なくとも畳は電気に照らされていない。それでも毛布の柄が見える程度に明るいのは、いい加減に締めたブラインドがすでにかなり高いところにあるらしい外の日の光を漏らしているせい。それからソファの向こう側にあるテレビがついていた。映像というより擦ると微かな匂いがする紙焼き写真を繋げたような記憶の断片の中で、テレビの中だけは滑らかな映像が流れる。二十年近く前のニュース映像。キャスターは確かもう死んでしまった有名な人だ。
 集中して丁寧に繋げても、連写のようにしか動かない視点を襖から出して右奥へずらすと、ゴミ箱の黄色が動いた。台所の流しの前で煙草を咥えた黒髪の男がそれを手に持っている。そこで私は一連の紙焼き写真のような記憶に耳鳴りのように響き続けていた音があるのに気づく。プラスチック製のゴミ箱が揺れ、そこにかかる水の音が乱れる。水音を聞いていた私は雑居ビルと小さな飲み屋が並ぶ歓楽街の奥、ラブホテルの並びにある大きなマンションの部屋の中にいる。自分の部屋ではない、不安定な部屋で目覚めたのはちょうど今の半分の年齢の頃で、私は女子大生だった。
 大きなプラスチックを水で洗う不自然な流水音が徐々に立体的な響きを帯び、他の細かい音を伴って記憶全体の流れを立ち上がらせたので、私は慌ててそれを一旦封じ、その瞬間に奥歯の付け根と顎が痺れているのに気づいた。随分長い時間、立ち現れる記憶に意識を捕らわれて食いしばっていたのか、あるいはその痺れが丸ごと記憶から移管されたのか、不確かだった。その痺れはかつて何度も経験したことのあるものにとてもよく似ていた。
 いずれにせよ、私の無反応は目の前の部屋で起こり得る現実を悪い方へ刺激していた。目の前に広がる、もう何年も寝起きしている私自身の部屋は電気に照らされて明るく、目の前に一人だけ男がいる。煙草を一切吸わない男はいくつもいくつも言葉を発音した挙句、一切の音を発さずに口を動かし、最後に空気だけを吐いた。流れない故に涙ではない体液が内側から顔の中心部を赤く染め、湿った皮膚は普段なら耳にかかっている長い前髪を額や頬に貼り付けて、彼が不安と呼ぶ精神的不具合を演出していた。流水音が動力となって立体的な映像となっていた記憶に対して、彼の動きはコマ送りのようにぎこちなく見える。背後でつけ放したテレビからはしかし、やはり途切れない滑らかな映像が流れて、その手前で男は寝巻きにしている柔らかい素材の服を脱いで出て行った。昨夜のことだ。

 緊縛が解けた、と一瞬だけ思った。
 日が真上に届く前に参道へ出ると、つい一週間前に通り過ぎた時には立ち入り禁止のテープできつく縛られていた喫煙所から、八人が同時に吐く煙が立ち昇って、それほど高くは昇らずにその先の車道の方に流れていく。テープが解かれ、半透明の板で緩やかに囲まれているだけの小さな箱の前方には四人が行儀よく順番を待つ。内側の地面には青い円形の印が計八個描かれていて、その箱が用意できる居場所の数を示している。中にいるやはり行儀の良い八人は多少靴先がはみ出ていることはあっても、ほとんどズレることなくその間抜けな青い丸印の上に背筋を伸ばして立ち、手元の煙草の燃え尽きるのを見届けるまで動かない。
 昨夜から断片的に浮かび上がる二十年近く前の記憶の、また別の断片が頭の中を通り過ぎ、それとちょうど同じ速度で、フランス製の自転車に乗った青いシャツの男が、スピードを落とすことなく一度歩道に乗り上げ、ほのかな男性用香水の匂いを放ちながら再び車道に戻って車より速いスピードで坂を登って行った。記憶はストロボ・ライトの中で上機嫌な男と眠りに落ちていく女を一瞬見せてすぐ消えた。駅が近づくにつれ、歩行者の速度は上がり、車が進むのは遅くなる。百年も前に建設された幅の広い参道はちょうどその幅を満たすだけの人と車と欅を乗せて今日も一キロと百メートルほどの長さで伸びている。冬至の朝には、神社から参道の起点の方向に向かって、延長線上から真っ直ぐ太陽が昇る。百年前に大帝と呼ばれた人を祀るためにそのように設計された。

(続きは本誌でお楽しみください。)