立ち読み:新潮 2023年8月号

フォロワー数ZERO/本谷有希子

 スーパーの脇に人間が次々と吸い込まれていく箇所があり、近づいていくと、そこは地下鉄の駅へと続く階段だった。下から噴き上げる、生暖かい強風に髪や衣服を弄ばれながら勤め先に向かう会社員達は皆、無表情。スマホを凝視、あるいは上着の襟元に顎を深く埋めるように俯きながら黙々と階段に飲み込まれていく……。
 と、そこまで考えて私は息を長々と吐き出した。現実的に考えれば、これだけの人々が一様に無表情を保っているなどあり得ない。この光景を作り出しているのは誰でもない、私自身だ。今見ているものは全て、どうか朝の通勤ラッシュに巻き込まれる人間がひとり残らず、心身を、魂を擦り減らしていますように、満身創痍の状態でギリギリ社会にしがみついているだけのマリオネットでありますように、という私の幼稚な願望が作り出している心象風景に過ぎない。脇へ退き、ひとりひとりの顔を今度は名前や家族構成や好きな歌などを想像しながら観察しようとしたが、すでに自分もこの無数の人間で構成された動線の一部であることを思い出した私は、そのまま強風の噴き上げる生暖かい地下階段に飲み込まれていくしかなかった。
 それにしても一体いつから、私はこの大きな流動体に摂り込まれたのだろう。新宿駅から快速電車に乗り込んだ時、まだ私はかろうじて私というひとりの個体だったはずだ。しかし乗り継ぎの駅に着き、もみくちゃになりながら扉に向かう人々と共にホームに吐き出された時にはもう、私は私としての尊厳や意識を剥奪され、名もなき動線の一部となっていた。私はどこかに移動することだけが遺伝子にインプットされたアメーバのように、そのまま一箇所しかないJR線の改札口を通過し、人々の流れていくまま商店街らしき通りを歩き、スーパー脇の地下階段に吸い込まれている。
 マッスーさんがこの時間帯をわざわざ指定して、私鉄やJR線が何本も流れ込み、利用客で溢れ返る駅ナカにあるMUJIカフェを待ち合わせ場所にした意図を汲むのは、そう難しくはなかった。シンプルに、嫌がらせ――前にオーガニックサロンのランチ会で、調子に乗った私が会社員であるマッスーさんに「満員電車に乗る人って、あの異様な状態をどうやって受け入れてるんですか? あの状況に自分を順応させて抵抗ないんですか?」などとうっかり口を滑らせてしまったことを根に持たれていたのだろう。私より二回り近く年上のお姉さんである、四十歳オーバーのマッスーさんがこんなチンケな嫌がらせをする人だとは知らなかったが、どうやら菜食主義もマインドフルネスも性根を変えることはできないらしい。付けいる隙を見せて、これ以上マウントを取られないようにしなければ。そう思い気力を奮い起こしてみるものの、人々によって生み出されている流れは想像以上の速さだった。一心不乱に移動する以外の意思を全て排斥するかのような殺伐とした空気に呑まれそうになった私は、他のアメーバに必死で食らいつこうと歩調を加速させた。
 緑の丸は千代田線。茶色い丸は副都心線……心を無にして階段を降りていこうとした瞬間、踵のある靴を履いてきたことを思い出し、ゾッとする。このまま階段を踏み外して転倒し、額を思いきり切ってしまい流血しながらも、脱落者にだけはなりたくない脱落者にだけは絶対になりたくないという謎の強迫観念によってふらふらと立ち上がり、何事もなかったかのように血まみれのまま人混みに紛れて歩き出す――そんな自分を瞬時に想像し、足が竦みかけたが、前の女の後頭部が近すぎて段差を確認することもできない。
 異様な緊張感で階段を降りきると、燻んだタイル貼りの壁には端が切れて捲れ上がったポスターが数枚並んでいた。ポスターの中では、顔はなんとなく知っているが名前も思い出せないメダリスト選手が泣いているようにも怒っているようにも見える中途半端な表情で、高齢者に詐欺を注意喚起している。できることなら私もこのまま立ち止まり、彼女と一緒にこの戦場のように殺気だった目の前の光景を傍観していたかった。今の私は排水口に吸い込まれていく髪の毛よりも無力だ。抗う術もなく自動改札機へと押し込まれ、ホームへと続く階段を降りきると、一番線から電車が出発した直後だった。
 比較的余裕のある空間にほっとしかけたものの、増殖し続ける人々が入れ替え制ですぐにホームを埋め尽くした。逃げ出したくなるが、遅刻だけは、と思い留まる。私は今朝、少なくとも十分前には着座して謝罪の気持ちをアピールしようと目論んで家を出たのだ。アプリの検索結果を信じるなら、次の電車に乗れなければ乗り換え駅で急行を十分以上待つはめになる。
 Bluetoothイヤホンで通話しながら背後を通り過ぎた男の身体が私の肩にぶつかった。その途端、今から自分が為さなければならない禊ぎについて思い出し、緑色の藻がびっしりと付着した水槽の水を無理矢理腹に流し込まれたような気分になった。
――一週間前の私は、何故どんな手を使ってでもフォロワーを増やさなければならないと、そうでなければ本気で死んでしまうと、あれほど思い詰めたのだろう。あの不定期に訪れる、正体不明の焦燥感。私はいつもあの発作に怯え、あの発作に振り回され、あの発作にコントロールされながら生きている。

(続きは本誌でお楽しみください。)