立ち読み:新潮 2023年8月号

霧のコミューン――生成と予兆/今福龍太

彼は私の記憶を消すだろう。そして私の影、私の鏡となって、なおその事実を知らないだろう。
――ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 驚くべき哲学的透視力によって人間精神の本質を描きつづけたアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの鮮烈な評論集『続審問』(一九五二)の巻頭に、「城壁と書物」という寓意的な短篇がある。
 それは、紀元前三世紀の戦乱期を生きた秦の始皇帝による「長城建設」と「焚書」という二つの壮大な国家事業の深い相同性を暗示した興味深いテクストである。戦乱の世を平定し、統一国家の新たなる始祖たらんとした始皇帝にとって、過去の王による統治の物語を賛美する儒者たちが根拠とした古い書経や詩経などの典籍をすべて焼き払う「焚書坑儒」の命令は必然であった。過去を賛美する知識や記憶は無へと還元されねばならなかったからである。始皇帝は焚書によって一つの「歴史」そのもののプロセスを止め、新たな時間の始まりを定めることを欲した。
 一方で彼は、外敵の侵入を防ぐ壮大なプロジェクトとして万里の長城を建設した。長城はたしかに国家の防衛を担保する最高度の要塞ではあったが、同時にそれはおのれを「安全」という神話の中に自閉的に監禁することでもあった。ボルヘスは、この始皇帝の二つの常軌を逸した国家的行為、すなわち焚書と城壁の建設とが、いわば表裏一体の出来事ではなかったか、と問いかける。だがそれは、外部の敵と内なる敵をそれぞれ排除・殲滅するための二つの行為という意味ではない。ボルヘスは、始皇帝が死を口にすることを家臣に禁じ、みずから一年の日数と同じ数の部屋がある象徴的な宮殿に隠棲し、不老不死の霊薬をたえず探させていたことに注目する。始皇帝が真に恐れていたのは「敵」ではなく、むしろ自らの肉体の宿命としてある「死」そのものだった。ボルへスの洞察はこうだ。始皇帝にあっては、空間における城壁と時間における火が、死を遮断するための魔術的な障壁として同じものだったにちがいない、と。
 肉体の死を否定するための壁、そして炎。永遠の生を求めて城壁建設と焚書を命じた始皇帝は、だが歴史の背理として、自らの死が不可避であるのと同じく、書物の末路が城壁の末路をも暗示していることをどこかで予感していた。皇帝である自分の記憶を消そうとする者がきっと現われるだろう。その者は、書物を破壊した私のように、壁をも破壊するだろう。その者は私の影となり、私の鏡となり、そして私を反復していることに気づくことはないだろう……。ボルヘスは始皇帝の声を借りてこんなふうに書きとめている。
 権力はたえず、知らぬまに上書きされてゆく。壁の破壊と建設、書物の創造と焼却は止むことなく続く。戦乱のたびに記憶の抹殺が繰り返される。破壊者たちはふたたび不死を欲望するが、それが一人の肉体の上にかなえられることはけっしてない。おそらく、建設と破壊、生成と滅却は、一つのものの運命の両極にある因果的な現象ではなく、生と死を繰り返してきた人類、その被造物の表裏を構成する、同じ出来事にほかならないのだ。そしてその道理を否定するのではなく、その不可避の二重性を潔く受けとめ、深くうべなうことこそ、人間が人間であるという真実を証すことになる。だからボルヘスは、始皇帝の壮大な過ちを、そのような人間的な不可避の過ちとして受けとめ、それを非難したり否定したりすることなく、そこに、ある種の「発見」と「革命」の切迫を生きたひとりの人間の、悲喜劇として生じたかけがえのない真実の姿を見ようとする。始皇帝の何気ない日々の刹那のなかで、為政者の意志や欲望とはかかわりなく訪れたであろう、内省と淡い夢のような深みの瞬間に始皇帝が直観したもの。それが、審美的であり哲学的でもある深みをそなえた真実であることに、ボルヘスはかすかな希望を託そうとした。だから「城壁と書物」は、こんな文言とともに書き終えられている。

 音楽、幸福のさまざまな状態、神話、時間によって刻まれた顔、ある夕暮れ、ある場所。これらはすべて、私たちに何かを伝えようとしている。私たちが見逃してはいけないものを教えてくれている。あるいはたったいま何かを伝え終えたところかもしれない。いまはまだ起こっていないが、ある啓示的な瞬間が差し迫っていること。そこにこそ美的な事実は宿っているのだ。
(Jorge Luis Borges, “La muralla y los libros”, en Otras inquisiciones, 1952. 引用は:Jorge Luis Borges, Obras Completas I. Barcelona: RBA, 2005, p.635. 私訳)

 生における「啓示的な瞬間」とは、何気なく、不意に訪れる。壁の建設や書物の焼却というような顕示的な行為の対極にあって、ふとした音楽や、夕暮れや、顔のなかに、何かが啓示され発見される瞬間が私たちを待っている。始皇帝ですら、そのモニュメンタルな所業の陰で、そうした啓示的瞬間を予感していたはずなのである。ボルヘスの、そして私たちの文学も哲学も、この人間的なぎりぎりの希望に根を持っている。
 だがいま、始皇帝の物語の寓意は、おそらくより表層的に解釈されてしまうだろう。壁の建設による他者の排除と自己の不死幻想への封じ込め。現在の権威を正当化するための過去の抹消による知の歴史の全面的破壊。始皇帝の所業の見かけをこうまとめたとき、その欲望と行動とが、いまの私たちが直面する社会の支配的な趨勢とみごとに重なることを誰もが直観してしまうからである。
 国益だけの一国行動主義や排外的な権威主義体制が、知らぬまに自己封鎖と、過去から学びつづけることを軽視する反知性主義を呼びだすというだけではない。いまや、デジタルネットワークによって破壊された人間の厚みある公共圏にかわって、自分だけの情報・データ宇宙に封じ込められたフィルターバブルのなかで疑似的自己再生産の無限ループに落ち込んだ人類がいる。現実においても、またデジタル空間においても、建設と破壊、生成と滅却がたえず生起し、その惰性的な状況を、誰ももう人間的な宿命として深く受けとめることはない。永遠や不死の不可能性という真理は、テクノクラシーと資本主義によって、無自覚に忘却されてしまったのである。この状況をもしボルヘスが知ったら、彼の描いた始皇帝の深みある教訓が徒夢となったことを嘆くだろうか。

 現代アメリカの保守的かつ体制順応的な政治社会にたいしてもっとも厳格な批判者として発言しつづけてきた言語学者・哲学者ノーム・チョムスキー。今年の一二月で九五歳になる彼は、二○二三年三月八日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のオピニオン欄に寄稿した「チャットGPTという偽りの希望」と題する論考で、ボルヘスの前記のエッセイに触れながら、人間の「啓示」的な覚醒の瞬間がいま目の前にある、というような近年の生成AIをめぐる過熱した議論の不毛性を厳しく批判している。

(続きは本誌でお楽しみください。)