立ち読み:新潮 2023年9月号

艱難辛苦の十三箇月/池澤夏樹

 ずいぶん迷ったのですけれど、やはりお話ししましょう。
 あれは本当に辛い苦しい一年でした。
 忘れてしまうのがいいとも思いましたが、しかし結局のところ、私は泰子と昌平と洋子を連れて夫と共に日本に帰ることができたのです。今は安泰。今は大丈夫。
 私は力のかぎりを尽くしました。
 辛苦の記憶はそのまま私が荒野に建てた塔だと思っております。
 慎ましい塔ですが、今も私の心の中にしっかりと立っています。
 辛いことは山ほどあったけれど書き残して恥ずかしいことは何一つありませんでした。盗みはしなかったし人をだましもしませんでした。幸いソ連兵に襲われもせず、朝鮮人に身を売りもしないで済んだのです。
 そういうことを体験した人たちがいたことを私は知っています。新京で別れる時、何があっても子供たちと生き延びろ、と夫は言いました。十六年間、互いに信じ合って暮らしてきた。これで私たちの人生は終わりとなっても悔やむところはないはずだ。子供たちの人生行路を開いてやることこそ、今、私たちに残された親としての義務ではないのか。こうやって子供たちをおまえに預ける以上、万一、おまえが貞操の危険にさらされることがあっても、それで子供たちを守れるものなら、自分は決しておまえを責めはしない。
 そういうことにならずに済んだのはただただ運というしかありません。運、あるいは運命でしょうか。かくさんでは一日一日がどう終わるかわかりませんでした。だれもが押し寄せる不安の中で生きておりました。毎日が坊主めくり、どんな札が出るかわからなかったのです。
 飢えと寒さと厳しい労働の日々。
 たくさんの人たちを見送りました。
 見たくない光景をいやというほど見ました。
 せっかくそこから新京に戻れたのに、そこで洋一を失いました。これからの私の人生はあの子の後生のためにあると思っています。残った三人の子の幸福がそのままあの子の供養です。

 私たちは新京に住んでいました。
 昭和七年に建国された満洲国の首都です。
 規模で言えば奉天に次ぐ第二の都会で、とても立派な町でした。
 駅から南にまっすぐ延びる大同大街は片側だけで自動車が四台並んで走れる幅がありました。電信柱は一本もなく、街路樹がにぎやかに枝と葉を広げ、真ん中の歩道は細長い公園のようでした。すべての道がまっすぐ計画的に作られ、建物もよく考えて配置されて、秩序そのものでした。大同大街にならぶビルジングは東京の銀座通りと同じように軒の高さが揃っておりました。なにもないところに作った町だからすべて合理的なのだと夫は言いました。そもそも満洲が何もないところに作られた国だから。
 私たちは昭和十四年に山形から満洲に移りました。夫と私と長女の泰子、長男の昌平、次女の洋子。新しい国で新しい暮らしを開く。新京の整った市街はそれを約束してくれているようでした。やがて次男の洋一が生まれて、子供が四人になりました。
 昭和二十年、満洲暦では康徳十二年、夫は教員や視学官などの職を経て裕昌源という食品を扱う日満合同の会社に勤めておりました。
 家族はその会社の社宅のような家に住んでいました。充分な広さがあって、あの時代になんとお便所は水洗でした。内地では見たこともないもの。
 その家で私は満人の女中を一人使って家事を切り盛りし、四人の子を育て、夫の世話をしました。食べるものは近所で手に入ったし、ちょっと贅沢なものは三中井百貨店まで行けば買えます。あの町の日本人の普通の暮らしだと思っておりました。
 四年前の真珠湾の時から日本は戦争でしたが戦場はいずれも南の方だし、新聞は連戦連勝と書いているし、自分たちからは遠い話だと思っておりました。
 しかし時がたつにつれて満洲でも戦争の気配が濃くなってきました。最強の関東軍がいるから大丈夫と言いながら、空襲のない新京でも防空壕が掘られるようになりました。
 その年の八月九日、夫のもとに召集令状が来ました。四十一歳の一家の主を兵隊に取るのかと嘆きましたが、お国の命令ですからしかたがありません。頭の上に暗い雲がかぶさってくるようでした。私が留守宅を守らなければならない。
 夫は十二日までに四平省梅河口の部隊に入隊することになりました。
 十一日、私は夫の汽車の切符を買いに駅に行ったのですが、駅は大混乱で、その日の分はもうないと言われました。遅れてもいいから翌日出発せよ。
 その夜、隣組の非常呼集の鐘が鳴りました。

(続きは本誌でお楽しみください。)