立ち読み:新潮 2023年10月号

午後の朝鮮薊/蓮實重彦

 よもぎの四十九日の法要を何とか終えたばかりだというのに、その姉のあざみから旧知の中隊長宛に電話があったとのことで、何やら詳しいことはわからんが、こんどの土曜の昼に龍土町の貴様の爺さんの旧宅まで足を運べというので、ひとまず許可しておいた。どうせあの女のことだから、よからぬ仕掛けを企んでいるだろうぐらいの察しはつく。とはいえ、それはこの俺さまとはいっさい無縁のことだから、土曜日の朝食以降、ひとまず任務の一切は免除されるものとしておく。だが、どんな事態が起ころうと――けっ、その意味、わかるだろうな――夕食時以前には遺漏なく兵舎に戻っておくように、と東北帝大出身だという若い大尉は磊落に笑う。いまのところはその予測もできぬが、かりに空襲警報が鳴りわたり、このあたり一帯に途方もない数の焼夷弾など落ちてきたとしたら、従姉を近くの防空壕にでも放り込んでから、何を擱いても即刻帰営せよ、よいな。ところで、あの従弟、なぜかこのわたくしのことなど見向きもしてくれませんと、貴様の従姉は不満げに嘆いておったぞ。もう二十歳は過ぎとるんだから、女性を女性としてもてなす術ぐらいは心得ておらねばならぬ、とひとまず忠告しておく。もっとも、あのあざみという女、一応は人妻でもあるというが、そのご亭主という男など会ったことも見たこともない。とはいえ、女としてなかなか奥深い仕掛けを生まれながらにそのからだの芯に装填しており――けっけ、失敬――またその自信たっぷりな世間的振る舞いにおいても、稀代の女傑と呼んでも過言ではあるまいから、な。もっとも、従姉と従弟という仲は、俺さまの知る限り、近いようで思いきり遠く、遠いようで思いきり近くもある。だから、その近さと遠さをしかるべく操る術さえ心得ておれば、何が起ころうとまあ大火傷を負うこともあるまい、けっけっけ。
 どうやら、この時期としてはかなり稀なことといえようが、佛蘭西料理の献立に相応しい朝鮮薊――その名にもかかわらず、純粋の国産である――をさる筋から手に入れたという薊子が、時節柄ながらく休業を余儀なくされている農學部近くのごくちっぽけだが味は本格的な洋食屋のコック長に懇願して調理してもらうといった話らしいのだが、献立と同じ名前を持つ近親の女が、茹であがったばかりの薄くて思いのほかふくよかな薊のがくと呼ばれる葉にそって生真面目に白い前歯をとがらせたりしている姿を目にするのも一興かと断じ、大尉にはありったけの詫びの言葉と礼を尽くしてから、二朗は早々と中隊長室から退散した。
 あちらの言葉でアルティショウと呼ばれている朝鮮薊の上品な食べ方など、存在しておりませんと断言していたのは、開戦の日にどこぞへと姿をくらませてしまった伯爵夫人だったが、実際、芯の部分をのぞけばフォークやナイフなど使うこともなく、誰もが素手で立ち向かうしかありませんから、そのために指先を洗う薫りのよい水を収めたちっぽけな金物の容器など添えることがマナーとなっております。そう呟いていた女の記憶はすでに一家の中では薄れかけているが、そのふくよかな掌の感触だけは、俺の素肌がしかと覚えこんでいる。あれからすでに三年もの歳月が過ぎていることに改めて驚きながら、二朗は、誰にいうともなしにそう呟く。初めてアルティショウなるものを目にしたとき、出来そこないの玉葱のお化けかと思ったことを、二朗は記憶している。だがそれと異なり、食べるのは茎のまわりの部分ではなく、それは切り落とし、緑色の萼のあたりを茹で、その底のあたりを指さきで切り離し、ソースにひたしてから歯でこそげとる。すると、小さな中心部分があらわれるのである。
 そういえば、このところ、それにふさわしいライ麦がどうしても手に入らず、二朗さんお気に入りの田舎麺麭は焼けそうにないと料理長がこぼしとりましたわよ。「無用之者、立入嚴禁」と張り紙されている兵舎の地下の特別連絡室にずかずかと踏みこみ、抵抗する同僚を脅すようにして奪いとった電話で従姉を呼び出してみたところ、受話器の向こうの薊子は、艶然と口にする。ええ、あの大尉殿は、どなたもが「豊満な」と呼んで下さるこのわたくしのからだの芯でしっかりと味方につけておりますから、どうかご心配なく。こう見えたって、このあざみというあなたの従姉、帝国陸軍の上層部――その、ほんの一部にすぎないにせよ――にはそれなりに顔が利きます。ですから、多少の無理は聞いていただけるものと確信しておりましたの、はい。
 でも、だからといって、あの酷たらしいきゃはんなんぞを幾重にも捲いたままの冴えない軍服姿であのお宅にお見えになったりするのなんざあ、ご法度よ。いったんご自宅に戻り、お兄さまのお下がりの三つ揃いにでも着替えてから、すがすがしい風情でおいで遊ばせ。それにふさわしく、お部屋を整えさせておきますから。もっとも、しばらく閉めきったままの空き家の扱いに馴れた女中どもを、せめて三人ぐらいは親戚筋からかき集められればの話ですけど、ね。何しろあのお屋敷、このところしばらく雨戸も開けておりませんし、井戸水だけは何とか使えるとのことですが、瓦斯が配給されているかどうかさえ、わかったものではありませんので、ね。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)