立ち読み:新潮 2023年12月号

柘榴ざくろのもとで/野々井透

 雨夜の、うす青い中、君はぼんやり光っている。
 君が生まれて七回目の夜。はだけたままの、膨張した白い私の胸に乱れた髪が草のように散っていて、なにか哀しい。
「どうして光ってるの?」
 仄かに発光しているように見える君に向かって声に出してみる。でも、話しかけ方がよくわからない。ぼやけた言葉が、夜にゆるゆる溶けてゆく。
 不如意だ。
 なにか足りない。足りないのに、なにかあふれだしそう。消えたい、と少し思ってしまう。子を産んだら、こんなふうな感じが変わるかもしれない、と曖昧に思っていた。でも、変わらない。
 授乳の前には、君が吸いやすいように先端をやわらかくすること。ガーゼで包み、指で挟んで何度も揉むと、ぬるい液体が染み出してくる。やわらかくなったのを君の熱い口に含ませると、私の乳首は君の口蓋に収まる。
 いい乳をつくるため、肉や野菜の入ったスープをたっぷり摂る。すきなチーズは食べてはいけない。乳が詰まる。靴下を履くこと。裸足のままでいたら注意された。からだを冷やすと冷たい母乳になります。ほかにも、いろいろ、君について産院で懇ろに教えてもらって今日家に帰ってきたけれど、ひどくこころもとない。
 こころもとなさとは裏腹に、私のからだは、君に覿面に順応するため、めくるめく変幻し続けている。胸は大きな白桃がふたつなっているみたいで、乳が充満してくると、固く張って鈍く疼く。君が吸いはじめると、やわらかくなって痛みがひいてゆく。満ちて、張って、疼いて、吸われて、ひいて、安楽になって、また満ちてゆく間に、私は無性にたべものを口にする。大きな蛇になって、すべて丸呑みしてゆくように豪胆に食べる。
 私のからだが知らないからだになってゆく。知らないからだを私は追いかけている。うまく、追いつけない。追いついて、早く新しいものに、母的なものに変化しないといけないのに変われない。
 三十五年生きていても、君を産んでも、なにかがずっと足りない。
 たぶん、私は君をいとしいと思えていない。
 いとしいって、どんな感じだっただろう。
 母が子をいとしむって、どんな感じだろう。わからない。
 青い夜の中に私の母が、す、と現れる。眉をひそめ、私を見ている。
 ずいぶん前に家を去った母が、君が生まれてから、紛れ込むようにかたくなに現れるようになった。
 あのとき、私が呼んだからだろうか。君を産み出そうと、分娩台の上で太く咆哮しながら、別離してからやり取りもせず今は遠くに暮らす母を、私は呼ぶように想った。
 春の、萌ゆる頃の母だった。
 甘いにおいのするしっとりとした花びらのようだった母が変調しはじめた頃の姿。五歳の私は、瞳を凝らし、黙って母を見ていた。陶碗から箸でなかみを摘まもうとしたとき、日曜日の夕方のざわざわする商店街を歩きながら、凜とした笑い声の直後に、母の頬や口角のあたりが震えた。もぞもぞ震えては口を結び直す。あとは黙り込んで、じっと動かない。そうかと思えば、やたらに喋り続けた。明日ピクニックへ行きましょう。その次は海。花火大会も。打ち上げ花火の、あがっていくときの音がいいの。あ、でも、ここのボタンを掛け違えてる。うまく直せない。ほら、指がうまく動かないの。ボタンがうまく掛けられない。ブラウスのボタン、もしかしたら、いつもひとつ掛け違えていたかも知れない。どうしよう。いやだ、どうしよう。話のなかみは歪みながら広がっていって、唐突に鼻白んで終わる。母は、土の中に沈んでゆきそうだったり、疾走してそのまま何処かへ行ってしまいそうだった。
 母と折り重なるようにいっしょにいる私を見た誰かが、ひそやかに話すのを聞いた。
 あのひとたち大変。あのひと母親なのに、ちっとも母親らしくない。あのひとは情を失くしてしまった。屈託だけ残った。壊れている。娘は気の毒。娘と母がさかさま。かわいそうな母子。不幸。不憫。哀れ。負。ああいう血は繰り返されるよ。あの家のおばあさんも変わっていたじゃない。そうね、どこかおかしかった。女ばかりの家で変わってた。きっと、あの血は繰り返す。負は連鎖する。ひそひそひそ。
 顔の見えない不透明なひとたちが密造したような、血は繰り返す、負は連鎖する、という言葉が、私にぬらくらと侵入してきて、からだのどこかに産み付けられた卵のようにして残ってしまった。
 春の粉っぽさの中で、母はひとりでおののいて立っていた。
 そんな母を分娩台の上で想ったら、私の中で怒りに似たような気持ちがからだを突き破るように昂まって、からだが中心から裂かれてゆくようにして君が生まれた。外へ出た途端、君は大きな声で泣いた。私も泣いた。温かい涙だった。でも、この涙の意味をわかる自信が私にはない、そんなふうに思った。

(続きは本誌でお楽しみください。)