立ち読み:新潮 2024年4月号

続うそコンシェルジュ うその需要と供給の苦悩篇/津村記久子

 さな子が突然「行けなくなった」と言ってくるのは何回目だっただろうか? さな子が「会おう」と言ってきた日は、もともと姪の佐紀と絵の展覧会に行って、帰りにもんじゃ焼きを食べるつもりだったのだが、さな子が、この先三か月は予定が詰まっているので、この日しかだめだ、と言ってきたため、じゃあ晩ごはんに行こうか、と私から提案して、佐紀に対しては、残念ながらもんじゃ焼きはナシで、と調整した日だった。さな子と行く店は、私が予約した。スペイン料理屋だった。
 そのさな子との予定がキャンセルになったこと自体は仕方がないと思っていた。しかし、キャンセルになった土曜日の二日前に、あやまりたいのでウェブ通話で話したいというさな子からの申し入れをまんまと受けたのがいけなかった。さな子は、「ごめん」という謝罪もそこそこに、「どうして行けないのか」という理由について話し始めた。
 先日、ある男のタレントが、ある女性の俳優と、ある球場の自由席で並んで野球を見ていた、という目撃情報が現在流布しており、SNS上の知人のヒマリちゃんが、二人は付き合っていて結婚目前だと言って回っているのだが、自分は違うと思っていて、みんなはそのことをどう解釈しているのかと検索したり調べて回っていたらとてもとても疲れてしまった。だから約束の日に食事には行けない。
 私は、ごめんね急に、という言葉の直後に、さな子の口からその男のタレントの名前が出た時点で、通話を承諾したことを後悔した。測ってはいないが、話し始めてだいたい一分でその名前が出てきたはずだ。せめて二分は待てよと思う。
 二人はその球場で試合をしていたチームの片方の熱狂的なファンで、実は小学校が一緒だったりするから(女性の俳優のほうが三学年上)、本当にただの友達じゃないかってほとんどの人が言ってる。付き合ってると主張するのはそのヒマリちゃんだけで、なんでかっていうと、ヒマリちゃんは男のタレントだけではなく、その女性の俳優も好きで、メイクや私服の感じなどを真似していて、同一化しているから、要するに願望を言っているのだ。
 私は、パソコンの前に両肘を突き、顔を両手で覆いながらその話を聞いていた。通話を、メイクを落としてしまったからという理由で音声だけにしていてよかった。
 さな子の意図はなんとなくわかった。平日にSNSを見過ぎて疲れたため、もともと約束をしていた土曜日に外出するのはなんとなくわずらわしくなったが、そのわずらわしさを作り出した原因についてはどうしても話して発散したい。だから違う日に私をつかまえたのだ。
 誰かに会う予定の少し前に想定外のことが起こって、その予定にどうしても乗り気じゃなくなる、体が動きそうになくなる、ということはたまにある。それはわかる。でも自分なら、そういう時はうそをつく。「体調を崩した」「風邪を引いた」「体調管理ができておらず申し訳ない」と言う。そうやって平あやまりして、何らかの埋め合わせを申し出て、そこで話をやめる。
「ヒマリちゃんはそういう痛いところがあるから、みんなに嫌われてるんだよね」
「あの、前にもその子のことは聞いたんだけど、もうミュートしたりしてあんまりかまわないようにして、頭から追い出したほうがいいよ、って言わなかった?」
「うーん。でも、私が無視してるみたいになっちゃうとみんなが気まずくなるし。リアルの付き合いもあるし」
「そうなんだ……」
「そうなの。みんなの中でいちばん何か発言するのってヒマリちゃんだし」
 学生だから暇なんだろうね、みんな嫌ってる、とさな子は続ける。私は「みんな」って誰? とたずねたくなるのを我慢する。その代わり、暇だからヒマリなのかな? と訊くと、えー違うと思う、でもおかしー、とさな子は笑った。元気そうな声だった。
「私が暗い顔を見せるとみのりに迷惑がかかると思って」
「いや、暗い顔でいいよ私は。暗い顔だと迷惑がかかるなんて言ったことあったっけ」
「えー、ないけど。みのりは優しいから、自己判断で。よく考えたの」
 私の渾身の反駁にも、さな子は少しもこたえていないようだった。
 時計を見て、三十分以上この話に心を奪われると負けだ、と考え、とにかく理由はわかったし、平日だし、じゃあこれで、とかろうじて言うと、あーうん、とさな子は少し不満そうな声を出した。

(続きは本誌でお楽しみください。)