立ち読み:新潮 2024年5月号

サンショウウオの四十九日/朝比奈 秋

1

 コタツにはいったまま見送るわけにもいかず、ポールハンガーからコートを取って羽織る。リビングを一歩踏みだすと、廊下はつまさきの骨が割れそうなほど冷たい。玄関では五分で薄化粧をした母が、かかとの潰れたスニーカーに足を通している。屈んだ母の丸い背中の向こうに、入ってくる時に気づかなかった丈の低いパンジーが塀に沿って紫色に群生しているのが見えた。
 母はひとさし指を入れてかかとを起こすと、
「あぁ、寒い。二人ともここでいいから」
 トートバックを肩にかけて玄関から出ていった。
 すっかりくつろいでしまって靴を履く気にはなれず、私は目についた父の藍色のクロックスに足を通した。ぶかぶかとずれる音をさせながら、玄関先から蹴上げの低い階段を降りていく。門扉まで見送りに出た頃には、母はもう自転車で坂を下っているところで、すぐに角を曲がって見えなくなった。二月の外気の肌寒さに急いで玄関に戻る。
 廊下を小走りで引き返していると、痛いほどの寒さが足裏に染みてくる。暖房が入ったリビングに入っても、底冷えした床だけは廊下と同じ温度でくるぶしまで痛くなってくる。リビングの隅の4・5畳の畳敷きに着地して、その勢いでコタツに足を突っこんだ。荒れた呼吸を整えていると、実家の匂いが感じられる。
 数か月ぶりに娘たちが帰ってきたというのに母はパートを入れていて、父はまだ寝いっている。流しっぱなしのテレビだけが「実家に帰ってきた」という感じにさせる。チャンネルを変えて午後の番組を一巡したところで、
「二階行こう」
 寒さに押し黙っていた妹の瞬が口を開いた。
 リモコンの電源ボタンを何回押しこんでも作動しないことに瞬は徐々に苛立ちを募らせていく。瞬は苛立ちを散らしながら立ち上がり、テレビの端の電源ボタンを押して画面を消した。
 そうして、手に持っていたリモコンをテレビの横に置いた時だった。テレビ横のマガジンラックが目についた。引き抜いたグルメ雑誌は十年前のもので、平塚駅周辺のグルメ情報が載っている。ゴータマ、サンサールなど中学の部活帰りに立ち寄ったカレー屋はとっくの昔に潰れてしまっている。
 無くなった店の写真を観ているうちに瞬はひどく懐かしく感じて、胸に沁みてくる心地のままに、
「あぁ、懐かし」
 実際に声に出してからラックに戻し、かわりに私は隣の振袖のカタログを手に取る。表紙に見覚えのあるそれは成人式用の振袖カタログだった。コタツに戻って、一ページ目を開けると、西暦から十年前のものだとわかった。
 いくつかの振袖には付箋が貼られていて、十九歳の時の私か瞬が貼ったはずなのにどれも付けた記憶はない。ただ、それくらいの時期に、なぜかピンク色と黄色の付箋を貼ることに執心していたことが思い出されて、どちらかが貼ったものには間違いなかった。
「お父さんがさ、自分の生まれたときのこと話した年じゃない?」
 瞬がそう言ってから黙ると、私の脳裏にもカタログを前に付箋を貼っている二人の若い手が駆け巡ってくる。私はカタログをめくりながらも、ぼんやりと瞬の追想に任せる。
 頭の中では、十九歳の瞬がリビングテーブルに行儀悪く肘をついてソーダアイスを齧っている。時おりアイスを空のマグカップに突っこんでは、カタログの振袖に白くぽっちゃりとした手で付箋を貼っている。
 畳敷きには父が転がっている。十年前だからまだ白髪は少ない。コタツが出ていないからまだ温かい季節で、その畳の上でのんべんだらりと肘をついて寝っ転がっている。
 父はおもむろに起き上がって、
「かっちゃんな、昔っから……」
 と話しかけてきて、しかし、すぐに言葉を詰まらせる。久しぶりに『かっちゃん』という名前を聞いて、げっそりと痩せこけた伯父の顔が浮かんだ。
「伯父さんがどうかしたん?」
 私の相槌を無視して、父はごろんとまた畳に寝っ転がった。
「あぁ、お母さんと間違えたわ」
 恥ずかし気な呟きだけ聞こえてくる。瞬は伯父のことは気にならなくて、ただペタペタと付箋を貼っている。しばらく沈黙が続いてから、父が今度は上半身をしっかり起こして振り返った。そこから、伯父の出生の話をはじめた。

(続きは本誌でお楽しみください。)