立ち読み:新潮 2024年5月号

[対談]吉本隆明から託された『精神の考古学』/中沢新一 吉本ばなな

吉本さん親子との出会い

中沢 吉本ばななさん(以下「ばななさん」)と初めてちゃんとお話ししたのは、伊豆の海水浴場でのことでした。お互い、半裸でしたね。まだ小さかったばななさんのお子さんも連れて、みんなで居酒屋へ行ったのでした。

吉本 そうでしたね。あのときは父も一緒で。父は一九九六年に一度溺れてしまい危ないところだったんですが、その後も夏になると一家で伊豆の海を訪れていました。中沢さんとお会いしたのは二〇〇三年の夏だと思います。父がまだ元気な頃で、土肥に行けて、中沢さんや糸井重里さんがいらしてすごく嬉しそうにしていた記憶がある。

中沢 僕がばななさんのお父さんの吉本隆明さん(以下「吉本さん」)と最初にお会いしたのは、それよりずいぶん前のことです。確か、一九八一年あたりじゃなかったかな。大学院に籍を置きながらネパールでチベット仏教の修行をして一時帰国をしていた時期に、親しくしていたある編集者がネパールで変なことをやっている奴がいるということで、吉本さんに引き合わせたのでした。
 吉本さんは『最後の親鸞』を出したあとで、頭の中が親鸞のことでいっぱいで、すごく興奮しているようにも見えました。そこへチベット仏教の修行をしているという僕が現れたものだから、もう腕まくりをして論争を始めちゃうわけです。対談が始まるやいなや吉本さんは「僕はそういう修行とか、身体訓練というのはダメだと思っているんですよ」とキツイことを言い出されました。きっと、僕のことを精神世界にどっぷり浸かったアホだと思ったんでしょう。そして、このアホを正しい道に導かなきゃいけない、という感じで、親鸞がいかに身体的な修行を捨て去っていったのかを滔々と語り始めました。
 そうなると僕も負けてはいられませんでした。「吉本さんは“身体”と一言で括られますが、その身体だって訓練や鍛錬を通して徐々に変わってくるものです。そうした変化していく身体を、吉本さんのように論理だけで考えて、変化しない同一体として扱っていいのですか」などと、今考えるとひや汗の出るような反論を返しました。ですから、この初対面のときは結局、平行線のまましょんぼり帰ってきました。吉本さんのご自宅での対談だったから、近くにはばななさんのお母さんやお姉さんもいましたね。

吉本 おそらく私も家の近辺にいたはずです。二人のあいだでそんなやり取りがあったとは、まったく知りませんでしたが。

中沢 ばななさんも近くにいたのですね。ただ、対談はうまく噛み合わなかったのに、それ以来、吉本さんは僕のことを気にかけてくれるようになって、「ニューアカ」ブームによって僕が表舞台に出るようになってきてから、『鳩よ!』という雑誌に「中沢新一を真っ芯で。」という文章を寄せてくれました。あいつはちょっとわけのわからないところがあるけれど、自分がやっていることとどこか重なる部分もあるんじゃないか、と感じてくれたのかなあ。それで、「へぇ、吉本さん、会ったときはあんなに僕のことを批判していたのに!」と、ちょっと驚いたんです。
 その後、九〇年代に入ってから、吉本さんとお付き合いが深くなっていきました。「新潮」で梅原猛さんを交えた「日本人は思想したか」という鼎談をし、一緒に京都へ旅行したこともありました。そして、二〇〇三年に僕の最初の著作『チベットのモーツァルト』が文庫化された際、巻末に吉本さんが解説を書いてくれました。当時はもう、目をかなり悪くされていたと思うのですが、解説の手書き原稿を見せてもらったら、大きな字と小さな字がゴチャゴチャに入り混じったその文章が、とにかく素晴らしかった。文字通り自分が真っ芯で捉えられたような、初めての経験に感動しました。僕が投げた思想の球を吉本さんがスコーンと場外へ打ってくれたような感じで、本当に感動したんです。
 吉本さんはその解説の中で、中沢新一がやっていることは「精神の考古学」なのだと書いてくれました。「彼はわたしの勝手な言葉を使うと、精神(心)の考古学をチベット仏教(密教)を素材に追求し、解明したいと考えているのだと言えばいいのではないか」と。そして、吉本さんから託されたこの「精神の考古学」という非常に印象的なフレーズを、いつか自分が取り組む重要な仕事のタイトルにできればとずっと温めてきて、今回の本に至りました。
 そんな経緯もあり、『精神の考古学』を吉本隆明さん本人に読んでもらえなかったのは残念なことではあるけれど、吉本さんを父として近くで見てきた娘のばななさんにお考えなどをお伺いしたいと思ったのです。

(続きは本誌でお楽しみください。)