後藤は毎朝だいたい午前五時に起きる。最近だと午前四時には空腹で目が覚めていて、腹をさすりながら起きようかと迷っている。二週間前だったら起きていただろうが、このところは横になったままのことが多い。
日課として、後藤はまず起きるとトイレに行く。それから即座に体重計に乗る。過去三十日分くらいのこの起き抜け体重だったら、嫌でも小数点以下一桁まで頭に入っている。
昨日の朝は、八十二・二キロだった。一昨日の朝も八十二・二だ。目が覚めた瞬間、あるいはそれよりも前から、後藤は体重のことを意識している。
横たわりながら、自分の下腹に(まずいな)と思う。いま全く尿意がないのだ。朝一でドカンと排尿しないと、それだけ朝の体重は重くなる。後藤は先々月から減量期に入り、水なら毎日五リットルは飲んでいた。あれだけ欠かさず水を飲んでいるのに、起き抜けの排尿が乏しいのは、いったいなぜだ。
後藤は、トイレに行くのが怖くなった。これではきっと溜息のような排尿しかない。五〇cc? 二〇cc? いまの膀胱にある微かな緊張から、尿の量を推し量ろうとする。
減量でこんなに苦戦するのは、初めてだ。いままでも思うように体重が減らないことはあったが、それなりの工夫をすれば、いつも乗り越えられた。それもゾッとしたことに、今日から八月だ。今年はどうしてこうも思い通りにならないのだろう。
午前五時まで、まだ一時間ある。後藤はじっと目を閉じて尿意を待った。自分が最後におねしょしたのは、いったいいつだったか。あれだけ一気に出せてしまえたらと、少し羨ましくなった。
午前七時に、会社の門をくぐった。朝から全身汗だくである。大会まで残り二か月はあるが、直近の減少幅から推察するに、このままでは目標体重に届かない。今朝はやむなく四十分も歩いた。
エントランスの脇に設けられた更衣室に入ると、後藤と似たような朝活直後の従業員が、そこかしこで身支度を整えていた。後藤は大手のリース屋に勤めている。本社は日本橋のド真ん中にあって、それこそ朝から有酸素運動するなど、意識高めの人間が多かった。
「お、珍しいね!」
後藤がシャワー室に入ろうとすると、知り合いの社員が声を掛けた。
「え、後藤クンも遂に走るようになったの?」
興味津々に訊ねる。この鈴木という先輩社員は、会社にある陸上部のエースだ。要するにガチの市民ランナーであるが、今朝もいったい何キロ走ったのか「(株)レンタール 陸上部」のオレンジ色のユニフォームを、恥ずかし気もなく汗まみれにしている。
「前に筋肉が落ちるから絶対に走らないって言ってなかった?」
この身体は体脂肪率、推定十二パーセント。枝のような腕と、鳥のような脚と、電柱のような胴体。細いながらも太い血管が走っている点は、いかにも長距離走者という感じだった。
「いえ、ちょっと歩いてるだけです」
「もうコレはやめたの?」
鈴木はマスキュラーのポーズをした。両腕を胸の前で内側に曲げる、モスト・マスキュラーと呼ばれるものだ。「コレ」とはすなわちボディビルを指す。後藤の経験上、ボディビルを表すジェスチャーとして、フロント・ダブル・バイセップスをする者が全体の八割。このようにモスト・マスキュラーをする者が残りの二割。この人は後藤が「選手」であることを知っていた。
「いや、やめてないです」
「じゃあ何で歩いてるの」
「再来月に大会があるんですけど、なかなか思うように絞れなくて」
思わず自分の腹を掴む。
「停滞期っていうんですかね。何だか身体が浮腫んでる感じで」
「もっと水を飲んだら?」
「うーん、そうですね……」
大会の二か月前にしては、ずいぶん掴める量が多い。後藤は朝っぱらから打ちひしがれる思いだった。
「でも後藤クン、すごくいい身体してるじゃん。まあ趣味なんだし、気楽にやったら?」
俺みたいに、とばかりにアクエリアスを呷る。その半透明の濁った色合いに、後藤は反射的に目を背けた。俺は絶対にアクエリアスは飲まない! 減量期であっても増量期であっても、スポーツドリンクの類は決して。
「……三時間は切りましたか」
ようやくジャージの上下を脱ぎながら、後藤は久し振りに訊ねてみた。鈴木のフルマラソンのベストタイムは、確か「三時間と二十分」だ。かねがね鈴木にタイムを訊くのは、挨拶のようなものだった。
「それがさ、この前の仙台のレースで、三時間と十七分だったよ!」
鈴木は少年のようにその何とかマラソンの話を始めた。後藤はふんふんと耳を傾けながら、次第に(いいなあ)と思えてきた。こういう市民ランナーに順位はない。あるのはきっと、タイムなのだろう。「自分との戦い」とか何とか言って、ぞんがい隣にいる生身の人間と、勝負することはないのだ。
「三分ちぢめるのに三年かかった」
ハハハと、鈴木は屈託ない。後藤は(自分の競技は違う)と思った。ボディビルではほんらい順位をつけられないものに順位をつける。そのために必ず隣の選手と比較される。ボディビルも「自分との戦い」だとはよく言われるが、後藤は決して、そうは思わなかった。それは、どこまでも他人との戦いだ。自分だけでは完結しない、未知の他人との戦いだ。
(続きは本誌でお楽しみください。)