明治35年(1902)
4月11日、東京・神田に生れる。

明治37年(1904) 2歳
6月3日、妹冨士子(後に高見沢潤子)誕生。

大正10年(1921) 19歳
3月20日、父豊造死去、享年46。

大正11年(1922) 20歳
小説「蛸の自殺」を「跫音」に発表。志賀直哉に送り、賞賛の手紙を受取る。

大正14年(1925) 23歳
東京帝国大学仏蘭西文学科に入学。この年、中原中也を識る。長谷川泰子と棲む。

大正15年(1926) 24歳
「人生斫断家アルチュル・ランボオ」を「仏蘭西文学研究」に発表。

昭和3年(1928) 26歳
「Arthur Rimbaud」を卒業論文として東大仏文科を卒業。長谷川泰子と別れ、奈良へ赴く。

昭和4年(1929) 27歳
「様々なる意匠」を「改造」の懸賞評論に応募、二席に入選して同誌9月号に掲載される。

昭和5年(1930) 28歳
「文藝春秋」に文芸時評を連載。ランボオ「地獄の季節」を翻訳刊行。

昭和7年(1932) 30歳
「Xへの手紙」を「中央公論」に発表。

昭和8年(1933) 31歳
「『永遠の良人』」を「文藝春秋」に発表。以後ドストエフスキイ研究が昭和30年代まで続く。

昭和9年(1934) 32歳
5月、森喜代美と結婚。

昭和10年(1935)33歳
「私小説論」を刊行。

昭和11年(1936) 34歳
「作家の顔」を「読売新聞」に発表。これが契機となって正宗白鳥と〈思想と実生活〉論争。

昭和12年(1937) 35歳
「文芸批評の行方」を「中央公論」に発表。3月6日、長女明子誕生。10月22日、中原中也死去。

昭和14年(1939) 37歳
「ドストエフスキイの生活」を刊行。「満洲の印象」「事変と文学」など社会時評を書き継ぐ。

昭和16年(1941) 39歳
「歴史と文学」を刊行。古美術に親しむ。

昭和17年(1942) 40歳
「当麻」「徒然草」など日本の古典論を発表。

昭和21年(1946) 44歳
「無常といふ事」を刊行。5月27日、母精子死去、享年66。

昭和22年(1947) 45歳
「モオツァルト」を刊行。

昭和24年(1949) 47歳
「私の人生観」を刊行。

昭和25年(1950) 48歳
第一次小林秀雄全集(創元社版)刊行。

昭和26年(1951) 49歳
創元社版「小林秀雄全集」により芸術院賞受賞。

昭和27年(1952) 50歳
「ゴッホの手紙」を刊行、翌年、読売文学賞を受賞。今日出海とヨーロッパ旅行に出発。

昭和30年(1955) 53歳
第二次小林秀雄全集(新潮社版)刊行。

昭和33年(1958) 56歳
「近代絵画」を刊行、野間文芸賞を受賞。「新潮」にべルグソン論「感想」の連載を始める。

昭和34年(1959) 57歳
「文藝春秋」に「考へるヒント」を連載。芸術院会員となる。

昭和38年(1963) 61歳
作家同盟の招待によりソヴェト旅行に出発。ベルグソン論連載中断。文化功労者に選ばれる。

昭和40年(1965) 63歳
「新潮」に「本居宣長」の連載を始める。岡潔と対話「人間の建設」。

昭和42年(1967) 65歳
第三次小林秀雄全集(新潮社版)刊行。文化勲章受章。

昭和52年(1977) 75歳
「本居宣長」を刊行、翌年、日本文学大賞受賞。

昭和53年(1978) 76歳
「新訂小林秀雄全集」(新潮社版)刊行。

昭和56年(1981) 79歳
「文学界」に「正宗白鳥の作について」を連載。

昭和57年(1982) 80歳
一月、「『流離譚』を読む」を「新潮」に発表。四月、「本居宣長補記」を刊行。

昭和58年(1983)
3月1日、午前1時40分永眠。墓は、鎌倉・東慶寺にある。

昭和6年
文壇デビュー当時


昭和42年11月
文化勲章を受章