前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 葛原寿郎
(くずはら としお)


    「時間がない」
 竹内主任が、葛原の気持ちを読んだように言った。
「手短に説明する。頭に叩き込んでくれ」
 はい、と葛原はうなずいた。自己紹介がまだだったことに気づいた。
「葛原です。これは湯浅と言います」

「2番線、お下がり下さい」と、アナウンスが電車の到着を告げる。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」

 そのアナウンスに竹内主任は小さくうなずいた。
「ホシは浅草行に乗ってここへ来る可能性が高い。おそらく、先頭車両ですでに降りる準備をしているだろう。到着すると、奴は兼田さんからクーラーバッグを奪い、そのまま渋谷行に乗り込み、逃走を図るのではないかと考えられる。渋谷行のほうが先にドアが閉まるからだ」

 浅草行に乗ってきて、渋谷行で逃走する……。
 思わず、2番線と1番線を見比べた。1番線には渋谷行が停車してドアを開けている。

「和則ちゃんは保護されたが、ホシがクーラーバッグに手を掛けるまでは動くな。おそらく浅草行から降りてくる乗客はすべて怪しく見える。早まって誰何したりするのは、ホシを利するだけだ」

 主任の言葉に、ゴクリと唾を呑み込んだ。その音が聞こえたのではないかとギクリとした。

「現在、兼田さんには狩野刑事に貼り付いてもらっている。もう1人若いのがいるが、あまり当てにはならない。先頭車両にドアは3つ。どのドアから犯人が降りてくるかは予測できない。どのドアでも可能性はある。2両目の一番こちら側のドアということもないではない。そのために、俺たちはこの場所で待機する。不用意な言動は禁止する。臨機応変な行動が必要だ。何が起こるかは、最後までわからん」
「了解しました」

 2番線に浅草行が入線してきて、葛原は、腹に力を入れた。
 臨機応変な行動──これが、難しい。臨機応変に対処しろと言われたことは名誉なことだ。主任が自分を信頼してくれているということなのだから。
 しかし、その信頼にきちんと応えられるのだろうか、と葛原は一瞬眼を閉じた。

 竹内主任は、到着した電車に目をやっている。
 葛原も、そちらへ顔を向けた。

 ゆくゆくは、自分もこの竹内主任のような名刑事と呼ばれる人間になりたい。だが、刑事に求められている決定的な資質のようなものが、自分には欠けているのではないかと思えて仕方がない。
 それは、まさに今、主任から言われたばかりのこと──物事に対する臨機応変さ、なのだ。

 浅草行が停車し、ドアが開いた。
 必死で、下車してくる乗客を見つめる。
 この乗客たちの中に犯人が……。

 主任が言ったように、すべての乗客が怪しく見えた。全員が犯人に見えてくる。

 昔から、お前は応用の利かないヤツだ、と言われてきた。
「もう少し頭を働かせることができないのか」
 どれだけその言葉を聞かされたか。
 必要なことを必死で覚える。暗唱できるまで何度も繰り返し、準備には人一倍時間を掛ける。しかし、本番になり、覚えたこととほんの少し違った状況が現われたりすると、葛原はいつも当惑してしまう。

 臨機応変な判断……。

 葛原の目の前を、浅草行から降りてきたが通過して行った。怪しく見える。本部で教えられた情報では犯人は男女の2人組みなのだ。では、こいつらが──。
 チラリ、と竹内主任を盗み見る。主任は、その2人ではなく、車両の前方へ目をやっている。
 慌てて、葛原もそちらへ目を移す。
 その向こうには、狩野刑事福屋、そして被害者の兼田さんがいる。

 いきなり、隣で湯浅が「あっ」と声を上げた。
 なんだ? と思って振り返り、湯浅を見つめる。湯浅は、先ほどのカップルが降りたドアのほうを、眼を見開いて見つめていた。そちらへ目をやって、葛原は眉を寄せた。

 老人客がホームの上に仰向けに倒れていた。その老人を老婦人が助け起こそうとして屈み込んでいる。
 その2人の前を、スポーツ選手のような身体つきの男が、まるでゾンビか何かのような妙な動き方でホームの前方へ向かって歩いていた。

 湯浅が老人のほうへ行こうとしたのに気づいて、葛原もそちらへ駆け寄ろうとした。
 しかし、待て──と、言うように竹内主任が手を差し出して2人を制止した。

 待て? でも……と、葛原は老人と主任を見比べた。
 主任は、妙な歩き方の男のほうを見つめている。
 ひっくり返っている老人のことが、葛原には気がかりだった。あのぐらいの歳の人は、ちょっとつまずいただけでも危ないのだ。

 祖父が散歩の途中で転んだことを思い出した。
 なんの障害物もない平坦な路上だった。そんなところで、祖父は転び、そして足を骨折した。

「違います」と突然声がして、葛原は驚いてそちらへ目をやった。
 いつ来たのか、男と女がそこに立っていた。男のほうはたぶん刑事だろう。チラリと盗み見た竹内主任の様子からすると、2人は知り合いのように見える。本庁の部下なのかもしれない。女のほうは、よくわからなかった。二十歳前後の女の子だ。刑事のほうが女の子の腕をつかんでいる。

「ホシは向こうです。押田という名前のようです」
 刑事は、竹内主任に報告し、女の子のほうを目で示した。
「この人は、押田から兼田さんの監視を言いつけられていました。和則君は、この平岡さんのアパートで寝ているそうです」
「和則君は無事に保護された」
 竹内主任は刑事にそう告げた。

 葛原には、本庁の刑事の言っていることがよく理解できなかった。主任のほうは、その報告を当然のように聞いていた。
 押田? 平岡?

 いや、平岡という名前はどこかで聞いた。
 ええと、あれは──。
 そう思ったとき、いきなりその平岡と呼ばれた女の子が「キャーッ!」と凄まじい声で叫んだ。
 度肝を抜かれて、彼女の視線を辿り、危うく葛原まで叫び声を上げそうになった。

 何が起こったのか、福屋が数メートル離れたホームの中央で火だるまになっていた──。
 福屋は悲鳴を上げ、ホームの床に崩れ落ちると、そのまま転がりはじめた。

「沖崎、ここを頼む。お前たち2人は、そいつを救出しろ」
 お前たち2人というのが自分と湯浅のことだと気づいて、葛原は、ホームを転げ回っている福屋のほうへ走った。

「…………」
 しかし、福屋に近づくことができない。
 湯浅が着ていたジャケットを脱ぎ、燃え続けている福屋の服や頭を叩きはじめた。
 気がついて、葛原も自分のジャケットを脱いだ。

 どうなっているのかワケがわからなかった。
 湯浅と一緒に炎を消そうとジャケットを振り回しながら、葛原は「なんなんだ、なんなんだ」と呟いた。
 心臓が破裂しそうな勢いで鳴っている。
 自分のしていることが、よくわからなかった。

 ホーム全体がパニックになっている。
 あちこちから悲鳴だの怒鳴り声だのが聞こえる。

 誘拐犯を捕らえるのだと覚悟してこのホームに降りてきた。絶対に自分で捕らえてやろうとも思っていた。課長の指示が遅いことに苛立ったほど、気持ちが張りつめていた。
 しかし、それでどうして福屋が火だるまになったりするのだ?
 臨機応変に、と主任は言った。
 自分がすべきことはこれでいいのか?

 ようやく福屋の全身を覆っていた炎が治まり、葛原は福屋を抱え起こそうとして手を縮めた。
 黒こげになっている服が熱かった。福屋は悲鳴も上げず、すでに気を失っている。そのどこもかしこもが焼け石のように熱くなっていた。

 救急車を──と、思って湯浅のほうへ目を上げたとき、突然、葛原の周囲が真っ白に輝いた。
 とっさに今度は自分が燃え上がったのかと思った。
 しかし、そう思ったときには、葛原の身体は蒸発し、消滅していたのである。


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