
わたしが・棄てた・女
693円(税込)
発売日:2026/08/28
- 文庫
- 電子書籍あり
あの日、僕はミツを騙し、ゴミ屑のように棄てた。真実の愛とは何か。感涙必至の名作。
太平洋戦争に敗れて3年、吉岡努は、どんな女でも構わないという暗い欲望のままに森田ミツと出会い、甘い言葉を囁き騙し、そしてゴミ屑のように棄てた──。吉岡が小狡く社会を生き抜く一方、ミツの人生は転落の一途を辿る。だがミツはひたむきに吉岡を信じ、想い続け、自らが最大の試練に直面してもなお、澄みきった心で悲しみにくれる人に手を差し伸べる。究極の愛を描ききった不朽の名作。
書誌情報
| 読み仮名 | ワタシガステタオンナ |
|---|---|
| シリーズ名 | 新潮文庫 |
| 装幀 | いなだよしえ/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
| 発行形態 | 文庫、電子書籍 |
| 判型 | 新潮文庫 |
| 頁数 | 320ページ |
| ISBN | 978-4-10-112342-4 |
| C-CODE | 0193 |
| 整理番号 | え-1-42 |
| 定価 | 693円 |
| 電子書籍 価格 | 693円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2026/08/28 |
書評

掌に残る消えない印
平凡で、地味で、どんくさい〈聖女〉と出会ってしまった男の物語──遠藤文学の代表作を読む
卑怯な男と一途な女。冷徹な男と耐える女。こうした図式でくくられる小説は少なくない。あらすじを読んだだけで分かった気になり、登場人物たちを軽蔑したり憐れんだりしているうちに、予想した通りの悲劇的な結末を迎える。
しかし『わたしが・棄てた・女』をそのような安易な先入観で手にした読者は、最後、本を閉じた時、必ずや言葉を失い、立ちすくむことになるだろう。一旦、分かりやすい型に誘い込まれ、油断した途端、足元が揺らぎ、気づくと人間存在の根源的な深みに吸い込まれている。ありふれた男女関係のもつれが、いつの間にか様相を変え、宇宙的と言ってもいい彼方にまで世界を広げ、一筋の光を届けてくれる。光は淡く、今にも消え入りそうでありながら、確かな温もりを持って、こちらの胸を照らし出す。
“私は自らの運命を受け入れ、それに感謝し、生かしているだろうか”
そう、自問しないではいられなくなる。
太平洋戦争に敗れて三年、戦災の傷がまだ癒えない東京から話はスタートする。“ぼく”は友人の長島と二人、六畳一間の下宿で一緒に暮らしているのだが、生活ぶりは無邪気なほどにだらしない。部屋は埃が舞い、万年床は臭気を発し、ノミが飛んでいる。汚れた下着を行李に詰め込み、洗濯もしないまま使い回している。学校にはあまり通わず、お金のためアルバイトに精を出す毎日だ。
お金とともに重要な問題は、女性だった。
(ゼニコがほしい、オナゴがほしい。)
自虐を装いながらも、はっきり本音を吐露している。
生活態度と同様、女性に対する思いにも子どもっぽさが隠しきれない。二人は葡萄の収穫をする娘たちの姿を思い浮かべる。葡萄棚へ手をのばした時にのぞく、真白い膝小僧の美しさに胸を高鳴らせる。人格を持った存在として、正面から女性と向き合うだけの経験はなく、ただ憧ればかりが膨れ上がっている状態なのだ。
彼らの年代特有の幼さなのだろうが、微笑ましいと言って見過ごすわけにはいかない。“ぼく”の場合、未熟さの裏に、邪悪さが潜んでいるからだ。その邪悪さこそが、森田ミツを引き寄せた、と言えるのではないだろうか。
“女の子が欲しいなら、どんな女の子でもいいじゃないか……古雑誌の黄色い頁に葉書を送る馬鹿な娘たちでもいい”
“……あの女の子はぼくにとって出来心の相手にすぎなかった……終電車が通過した夜のホームに冷たい風が吹きころがす煙草の空箱のように棄ててしまう一人の娘だった。”
“どうせ……恋愛する相手じゃねえからな。やっちゃえよ、やっちゃえよ。”
呆れるほどに酷い言葉の数々である。しかも可愛げがない。欲望に囚われるのは仕方ないとしても、それを解消するために他人を利用し、一生懸命、自分で自分に言い訳をしている。自分が傷つかないよう用心深く予防線を張りながら、隠しきれない気の弱さを持て余している。
ミツから来た手紙の便箋と封筒の安っぽさをあげつらい、筆跡を軽蔑する。ミツが身に着けているものをいちいちけなし、うす汚い娘、と断じる。ミツのスカートからはみ出した足に紙屑がまつわりつくのを見て、味気ない気分になる。
ミツの人間性に思いを寄せるという気持ちを、徹底的に排除している。外見や出自だけから、ミツを軽蔑していい相手と決めつけている。
想像の中にいる、葡萄を摘む娘の膝と、今目の前にいるミツの足。幻想にすがり、現実を遠ざけようとする態度には、一人の人間として成長しきっていない危うさを感じる。だからこそ、“ぼく”にはミツが必要だった。彼女にもらった十字架のお守りを彼は溝に捨てるが、その時、掌に生まれた空洞は、決して消えない重みを残した。そこにいながら、いない者として扱われたミツは、空洞になることで存在の証を刻んだ。
たった二度会っただけで、以降、一切の関りを絶ったつもりでいた“ぼく”だが、不思議と二人の人生は交差してゆく。忘れた気でいても、予告なしにミツの姿が思い浮かぶ。あるいは偶然、彼女のうわさが耳に入ってくる。その都度彼は、名付けようのない気分に陥りながら、残像を払いのけようとする。けれど、空洞をなきものにする、という矛盾の前では、ただ自分の無力を思い知らされるばかりだ。
“ぼく”がデパートの屋上で、アドバルーンの監視のアルバイトをする場面が出てくる。東京の街を見下ろし、無数の人々がうごめくさまを目にしてこうつぶやく。
(沢山の人生だな。色々な人生だな。)
平凡な感慨でありながら、実は重い真実を含んだ言葉だ。その証拠に彼は、この時、ミツを思い出している。
一人一人が、自分の人生を背負っている。授けられた運命から逃れる方法も知らず、ただひたすらに生きている。そういう意味では、誰もが平等なのだ。優劣も上下もない。“ぼく”がミツを蔑む理由はどこにもない。
ミツの本質を一言で表現した一文がある。
“……だれかが不倖せな顔をしているのを見ると、たまらなくなる……”
すぐ他人に同情し、自分の立場も忘れて何でも差し出してしまうミツを、“ぼく”は感傷的な気分に酔っているだけだ、鼻持ちならない、と断じる。彼女の同情を利用しようとさえする。
彼の考えは浅かった。彼女の他者に対する思いが、単なる憐れみに留まらないのを、彼女自身が証明してみせている。不運な出来事に出会うたび、彼女は成長してゆく。恨みの感情を見せる場面は一つもない。不運な中に何かしら意味を見出し、自分が果たせる役割を黙々とこなす。
“彼女には人生の運命とは反抗するものではなく、受け入れるものだった。”
満足な教育を受けられず、実母とは早くに死に別れ、継母と、血のつながらない幼いきょうだいたちに気を遣って早くに自立したミツ。運命に抗ってもがくエネルギーより、丸ごとそれを受け入れる忍耐強さの方が、自分を救ってくれるのだ、とちゃんと知っていた。
後半、最も大きな試練に直面した彼女が、どんな選択をするか。結論が明らかになる前から、読者には分かるような気がする。そうだろう、ミツならそうするに違いない、と納得し、彼女をいっそう応援したくなる。いや、励まされているのはこちら側なのだ。彼女の背中に向かい、両手を合わせ、感謝の祈りを捧げたくなる、と言った方が適切だろう。
映画や流行歌が好きで、スターの写真を部屋に貼って悦んでいるミツに出会い、修道女は『汝、幼児のごとく非んば』という聖書の言葉の意味をかみしめる。かわいそうな子を前にした時、“ぼく”のように相手をどう好きに扱っても構わないという、蔑みの心で接する者もいる。同情を示しはするが、自らに厄介ごとが降りかかってきそうになると、すぐに身をかわす者もいる。
しかし神は違う。かわいそうな子はお役に立つ子だ、としていっそうの愛を注ぐ。困難を乗り越えるための力を授ける。
同僚の奥さんが、子供の給食費さえ払えずに困っているのを知り、一生懸命貯めたお金を貸してあげた時。兄の治療費のため、パチンコ屋のお金を盗んだ男の身代わりになって罪を被った時。ミツはまだ、なぜ見過ごすより損をする方が気持ちが楽になるのか、自分で自分に説明できなかったかもしれない。しかし御殿場の病院にたどり着き、病人やシスターたちと触れ合うなかで、なぜ、と問う必要も感じないまま、自分らしさを発揮できるようになる。大きな不幸の連帯の中に、自分にとってふさわしい場所を見つけたのだ。やはり神は、人間にとって最も尊い力を、ミツに授けていた。
ミツの人生に触れた今、“ぼく”をただ単に身勝手な男として切り捨てることはできない。彼もまた、すべての人間と同じ、逃れられない運命を背負う者なのだ。彼の犯した過ちを責める資格は、自分にはない。彼の心に潜む邪悪さは、私の内にもある。天空から眺めれば、彼も私も、うごめく無数の人々の中で、区別などつかなくなる。
シスターからの手紙を前に、表面的な言い訳では誤魔化しきれない寂しさを彼は味わう。掌に残る空洞を見つめる。そこから伝わる痛みに、心を震わせる。
“……ぼくは今あの女を聖女だと思っている……”
最初の手記に、彼はちゃんとそう記している。蔑んできたものすべてが、実は聖なるものだったのだと気づけたのだ。ミツは一人の人間の生き方に消えない印を残した。決して無力な人間ではなかった。
今、私は、彼に感謝したいという不思議な感情に浸っている。私をミツのところへ連れて行ってくれて、どうもありがとうございます。ほんの短い出会いの中で、人生の根を照らし続ける決定的な光を得たあなたこそが、読者の前に、ミツを立ち現わして下さったのです。そう言って、両手を合わせ、感謝の祈りを捧げたい。
※2026年8月末に刊行された新潮文庫『わたしが・棄てた・女』のために書かれた解説を再録しました。
(おがわ・ようこ 作家)
インタビュー/対談/エッセイ

いたずら好きの「絶対君主」
「ああいう方の息子さんだと大変ですね」。そう言われ続けてきたけれど──
父は亡くなる一年ほど前から、意識がはっきりしない状態でした。私にとっては絶対君主であり、同時に世の中で最も尊敬しており、なおかつおしゃれな人だったので、言葉を発せず、医療機器につながれてベッドに横たわったままの父の姿を目のあたりにするのは精神的にこたえました。当時、私の勤務先(フジテレビ)は新宿区河田町に社屋があり、父が入院していた慶応病院とは目と鼻の先。にもかかわらずお見舞いに行っても一時間足らずで帰る。とても耐えられなかったのです。我ながらエゴイストでした。
心が重い日々を送っていたときに、テレビ長崎が制作したドキュメンタリー番組を目にしました。禅僧の息子さんがクリスチャンのお母様を看取るお話で、番組の最後に彼が言ったのは〈うらを見せおもてを見せてちるもみじ〉。良寛の辞世の句です。紅葉が散り際には綺麗な表だけでなく裏も見せるように、人間は良い面も悪い面も、喜びも悲しみもすべて見せて旅立っていく──。この言葉を聞いて初めて「自分は間違っていたかもしれない」と感じ、機会を見つけては病室に足を運ぶようになりました。
父が亡くなる二、三週間前、母が足を押さえて病室に入ってきました。駅の階段で転んだらしい。ここは病院だから早く見てもらった方がいいね、と家族で話していると、意識が混濁した父が突然目を開けて、
「心配だな」
とはっきり言ったのです。それが私の聞いた最後の言葉となりました。
平成8(1996)年9月29日、午後六時三十六分に息を引き取りました。直後に速報が流れ、病院に記者が続々と集まり大変な騒ぎとなりました。このままではご迷惑をかけてしまうので、取り急ぎ病院の中庭で取材を受けたのですが、私は大変動転していました。父が亡くなるはずがない、と思い込んでいましたから。人工透析に加えて腹膜透析も行っていましたので、多少の知識があれば余命を推測することは可能だったのに、なぜか父は死なないと信じ切っていました。普通ではない精神状態での会見だったため、ある記者から直接の死因を問われた際に、
「司法解剖の結果を待たなければわかりません」
とお答えしてしまい、騒然となりました。変死なのか、となってしまって。病理解剖の間違いです。
父は七十三、私はまだ四十でした。早すぎる死です。もっと話しておきたいことはたくさんあったのですが、叶いませんでした。
思い返せば、仕事とか人生とか、それから愛、死、そして神について父と真面目に語り合ったことはありません。
『深い河』のサイン本
私と父は一風変わった親子関係であったと思います。普通のサラリーマンのご家庭は、会社がオンタイムで家はオフタイム。家ではリラックスしたり家族と遊んだりと切り替えがありますが、作家は家で仕事をするので双方渾然としてまだら模様。相当熟練しないと今がオンなのかオフなのか判断できないのです。原稿用紙に向かっている時だけがオンではないからいよいよ接触は慎重にならざるを得ない。トランプで非常に楽しく遊んでいたのに、三十分後には「うるさい!」と怒鳴られる。学習の結果、安全策として言葉使いが非常に丁寧になり、敬語を使っていました。
父が芥川賞を受賞した翌年に私が生まれましたので、芥川龍之介にちなんで龍之介と命名されました。当時は受賞したからといって裕福な暮らしが送れたわけではありません。八畳、六畳、四畳の日本間が三つある目黒区駒場の借家に住んでおり、私が四歳頃だったか、米櫃を母が濡れた布巾で一生懸命拭っていました。何をしているのと聞くと、
「こうして拭くとお茶碗二膳分くらいはお米が付くのよ」
と言われ、子供心に生まれる家を間違えたと思いました。
おそらくですが、原稿料だけで安心して暮らせるようになったのは私が小学校に入ってから、玉川学園のいわゆる「狐狸庵」に越した頃ではないでしょうか。『沈黙』を出版する少し前くらいです。文芸の世界は分かりませんが、タイトルからして『おバカさん』とか『ヘチマくん』ではやはり心許ない。
玉川学園の家は三階のワンフロアが父の仕事部屋で、寝室も書斎も応接もあり、丹沢連峰が一望できるので父は大変気に入っていました。二階はリビングで一階は私と母の部屋。基本的には三階には足を踏み入れません。
私が小学生の頃、父は夜型で、二十二時くらいから朝まで執筆していました。私が朝食を食べていると憔悴しきった顔で父が三階から下りてくるのです。お友達のお父様は朝七時三十分にはワイシャツを着て、ネクタイを締めているのに。この頃から、どうも我が家はおかしいと感じ始めました。
ちなみに五十を過ぎた頃から父は昼型に変わりました。仕事が終わってからの夕食だったので非常に平和。作家が何型かで家族は大きな影響を受けます。
目下、父が純文学を執筆しているのか、あるいはユーモア小説なのか、視覚的情報では一切判断できません。後に原稿用紙を見ると、純文学──例えば没後発見された「影に対して」──は名前入り原稿用紙をわざわざ裏返して、2Bや3Bの柔らかい鉛筆で、ミミズが這ったような字で真っ白な面に書いています。対してユーモア小説は原稿用紙のマス目を使っていましたから、父の中で使い分けはしていたのでしょうけれども、我々家族は気配を察するしかない。
父親が物書きだとはっきり分かったのは小学校三年生の私の誕生日でした。
「今日はいい誕生日プレゼントをやろう」
と町田駅前の書店に連れて行かれました。父は私の手を引いて店主の前にツカツカと歩み寄ると、
「私は作家の遠藤周作です。今日からこの子が買う本は全て私にツケで回してください」
と言うのです。私は母に「漫画ばかり読むんじゃありません」と怒られていましたので、父のお墨付きで漫画が読み放題になるのが嬉しくて。ところが今ほど漫画が豊富ではなかったので、すぐに読み尽くしてしまった。おそらく父の作戦だったと思うのですが、次第に一般書籍を手に取るようになったのです。あ、これは北のおじちゃま(註・北杜夫)の本だから読もう、とか。もちろん父の著作もありましたが、購入はしません。
明確な理由はありませんが、父の前で父の著作を読むのはタブーでした。ましてや感想を言うなんてありえない。『沈黙』を出版した際、家に届いた見本の一冊に、サインペンで署名をして母に贈っていて、子供ながらに格好いいことをするなと思いましたが、父のサイン姿を見たのはこの一度だけです。
私がサイン本をもらったのも一度だけ。結婚をして別所帯を構えていた私の元に、突然『深い河』のサイン本が送られてきました。珍しいことがあるものだと本を開くと、父のこれまでの小説の登場人物が名前を変えて全て登場していて、これは作家遠藤周作の総集編ではないかと思いました。これを書いたら死んでしまうのではないかと不吉な予感にとらわれ、事実、遺作となりました。
父が私の絶対的な君主であったことは間違いないので、王に対して「恐れながら」と感想は言えません。もちろん私が著作をほぼ読破していることは把握していたでしょうけれど、一度も意見交換をしたことがありません。なぜなら作品の良し悪しにかかわらず、物語ひいては遠藤周作の核心に触れざるを得なくなる。小説だけでなく、父も私も、真面目な話になるとお互い照れてしまうところがあり、さりげなく話題を転換し、突き詰めて話し合うことを避けていました。今となっては後悔ばかりです。
「影に対して」にあるように、父は祖父と大変不仲でした。しかし祖父が老人病院に入院したと聞いた父は、何を思ったか大学生の私を伴ってお見舞いに行ったのです。三十分ほどの対面の後、二人で蕎麦屋で食事をしていると、
「もう、いいかな」
とポツリと呟いたのです。今消えようとしている祖父の命が「もう、いいかな」なのか、自分が抱えている祖父へのわだかまりは「もう、いいかな」なのか、私ははっきりと聞かなかった。本当は聞かなければならなかった。向き合わなければならなかった。でも、聞いたところできっとはぐらかされたでしょうし、何より父が目の前からいなくなる日が来るなんて考えもしなかったものですから……。
下北沢で刺された
父は私をからかい、困らせることを喜びにしていたように思います。小学校四年生のときに裏磐梯で三泊四日の高原学校がありました。行程の二日目、山登りを終えて夕食をいただき、就寝というときに教頭先生が、
「遠藤くん、ちょっと」
とおっしゃる。何かしてしまったかと不安に思いながら先生のお部屋に伺うと、先生が葉書を一枚持っていました。どこで知ったか父が教頭先生に葉書を送っており、
〈大変お世話になっております。うちの豚児は時々寝糞をする癖があります。ご迷惑をおかけするのではないかと憂慮しております〉
発想が突飛です。考えつかない。
思い返せば未就学児の時、父が講演旅行で海外に行った折に、当時は機内から葉書が送れましたので、便りをよこしたのです。普通の親は子供の不安を消すような優しい言葉を並べると思うのですが、父は違う。
〈お父さんは今、飛行機に乗って、ガムもお煎餅もチョコレートも食べ放題だ。どうだ羨ましいか〉
なぜ子供相手にこのような事を書くのか、動機が分からないです。突飛としか言いようがない。
発想が突飛といえば、玉川学園に若かりし頃の吉永小百合さんが対談にこられました。三時間ほどお話をしたのち、三階のお手洗いを貸したのです。吉永さんがお帰りになったあと、トイレにはしばらく「主人専用」という貼り紙がありました。凡人にはない発想です。
思春期の折には、父の隣を歩くのを避けるとか、口数が減るなどはありましたが、決定的な反抗期はありませんでした。父のおかしな行動によって反抗する力を削がれた、というのが正確かもしれません。
2月14日、バレンタインデーの朝のことです。食堂へ行くとファンの方から頂いたチョコレートが壁中に飾られているのです。百個はありました。そして自慢気に、
「で、お前はいくつもらったんだ」
と、こうですよ。笑わされるだけなんです。
大学生の時には銀座に連れて行ってもらいました。ホステスさんが「龍之介さん、踊りましょう」と誘ってくださったのは良いのですが、熱烈なキスをしてくるのです。父の目の前で。どう考えてもおかしい。後に判明したのですが、父が事前にお店の方に、
「龍之介を誘惑してやってほしい」
とお願いしていたそうです。当時の私にとって、キスは大イベントでしたから動転しました。
大変な人気作家だったゆえに、なかには狂信的なファンの方もいらっしゃいました。私、小学校三年か四年のときに刺されました。〈遠藤周作は自分を愛しているのに、順子(註・遠藤氏の妻)が無理矢理押しかけ、やむなく一緒に暮らしている。しかも順子には龍之介という連れ子までいる〉と思い込んでいる方に。電車通学の帰路、下北沢で井の頭線から小田急線に乗り換えている時に、鋏で脇腹をいきなりグサリ。幸い大した傷ではありませんでしたが、かなり出血したので私も呆然としてしまって。女性は駅員さんに取り押さえられていました。慌てて迎えにきた母が「あなたのせいで子供がこんな目に遭うんです」と父を大変なじっていたことを覚えています。
ああいう方の息子さんだと大変ですね、と言われることもありますし、実際刺されもしましたけれど、プラスマイナスで考えれば圧倒的にプラスが大きい人生でした。初対面の方にもなんとなく信用していただけましたし、「お父様の作品を読みました」と言っていただけることも多く、父には感謝しかありません。
三島さんを悪く言う人は偽者
賑やかな人でしたから作家同士の付き合いも多く、とりわけ阿川弘之先生、三浦朱門先生、北杜夫先生とは親しかったように思います。
阿川先生は車の運転が好きで、父を乗せて箱根に行ったことがあります。箱根ターンパイクという曲がりくねった山道を阿川先生が凄まじいスピードで走行し、命の危険を感じた父が速度を緩めるよう頼むと、阿川先生は、
「マキシムでご馳走すると約束するか」
恐怖のあまり了承した父に重ねて、
「ボルドーの高いワインを飲んでもいいか」
阿川は本当にひどいやつだ、と怒っていました。
三浦朱門先生のお宅には私も一緒に伺ったことがあります。ご自宅には当時まだ珍しいファクシミリやワードプロセッサが完備されており、三浦先生は父に自慢したのです。「これからは、こういうことだ」と。相当口惜しかったのでしょう。帰り道、
「あんな物を使っているから、ロクな小説が書けない」
と憎まれ口を叩いていました。
後日、父もファクシミリを自宅に導入しました。ある日、庭で父が長時間、空を仰いでいるので事情を聞くと、
「ファックスが来ないんや」
「お父さん、ファックスは空から飛んできません」
生活能力が無いというか、機械関係は苦手な人でした。
北先生については私自身困らされたことがあります。編成局に所属していた時なので、三十歳過ぎだったと記憶していますが、打ち合わせをしていたら会社に北先生からお電話がありました。
「龍之介君、頼まれていた台本が出来上がりましたので、取りに来てください」
一切頼んでいません。躁の時期と耳にはしておりましたので、そうかと。とにかく世田谷区松原のご自宅に急行すると喜美子夫人が申し訳なさそうな表情をしていらして、応接間には本当に原稿が積んでありました。一瞬にして大ピンチです。
「先生、お願いした私が伺うのも変な話ではございますが、今回はどういったお話でしょうか」
「火星人の男と地球人の女の恋愛です」
火星人……頭が真っ白になりました。どうやってお断りしようか。咄嗟に、
「あー先生、申し訳ございません。弊社は去年から火星人はやめちゃったんです」
と口から出任せを言いました。我ながら天才的な切り返しだったと自負しています。ところが北先生は、
「だったら地底人にしてもいいです」
本当に頭が痛くなってきました。更に悪いことに、地球人役は加賀まりこさんにオファー済みで、三ヶ月もスケジュールを空けてあるという。加えて、
「火星人は私がやりますから」
とおっしゃり、状況は悪化の一途を辿ります。なんとか白紙にしようと、
「先生、主演俳優は朝から晩まで一週間、いや三週間くらいでしょうか、寝る時間もございません。体力的に非常に厳しゅうございます。大丈夫ですか」
と申し上げると、それは無理かもしれない、と。なんとか良い方向に行きかけたと安堵していたら、
「では私はADをやります」
「先生、そちらのほうが大変です」
決して原稿には触らず帰らなければならないと考え、
「弊社は今年の春から“世にも奇妙な物語”を立ち上げましたので、そちらのプロデューサーを寄越します」
と告げて辞去しました。後日、後輩に北先生の火消しをしてもらい、加賀まりこさんの事務所には私が事情をお話しして、なんとか難局を乗り切りました。
三島由紀夫先生については印象深い出来事があります。
私が十四歳のときに三島先生が自決なさり、大変な騒ぎになりました。朝日新聞の一面に写真が掲載され、テレビでは国粋主義者だなんだと報じられている。つまり、あまり良く捉えられてはいなかった。なぜそのような論調になっているのか全く理解できずにいる私に向かって父は、
「今、三島さんのことを悪く言っている人間は偽者だから、よく覚えておくように」
と言いました。核心に触れるような話は避けるのに、つい本質的なことを「言ってしまう」ことがありました。
父に言われて心に残っている言葉はいくつかありますが、その中で最も印象に残っているのは「人生に完全な善や悪はない」というものです。ほとんどの事象は善悪の中間即ちグラデーションの中にあると。だから「人が何かを行ったときに、善だとか悪だとか二分法で判断をするのはやめろ」と言われました。どんな良い人でも悪いことはするし、どんな悪い人でも良いことはする。罪を憎んで人を憎まずと言うつもりはないけれども、事象や人物を批評したり判断したりする時には複合的に判断したほうが良いと教えられました。現代は物事を善悪に分けがちですから、父の考えは背反しているかもしれませんが、私にとっては非常に腑に落ちる考え方です。
(次号へ続く)
(えんどう・りゅうのすけ 遠藤周作長男)
著者プロフィール
遠藤周作
エンドウ・シュウサク
(1923-1996)東京生れ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。1995(平成7)年、文化勲章受章。

































