私のことならほっといて
605円(税込)
発売日:2022/10/28
- 文庫
家に、夫の左脚があるんです。絶賛を浴びた『甘いお菓子は食べません』著者の傑作短編集!
家に、夫の左脚があるんです――。35歳で夫を亡くした〈私〉が火葬場から帰宅すると、ベッドの上に丸太のような脚が置かれていた。朝目覚めたときも、街で若い男を誘ったあとも、目の前に現れる片脚。辟易した私は山に捨てようとするが……。独身と偽っていた恋人に報復を試みる女性、ルームシェアする友人に匂いが好きだと言われ戸惑う女性。日常と異常の狭間に迷い込んだ七人を描く短編集。
薄紅色の母
匂盗人
六本指のトミー
片脚
あなたの惑星
私のことならほっといて
書誌情報
読み仮名 | ワタシノコトナラホットイテ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 安藤正子「ざわわ/Zawawa」 2008 pencil on paper 84.5×89.5cm (C)Masako Ando Courtesy of Tomio Koyama Gallery 作家蔵/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-120623-3 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | た-119-3 |
定価 | 605円 |
書評
女を知ってはじめて、男は男を知る
田中さんの文章は、好きなタイプだ。
リズム感なのか、言葉のチョイスなのか、わからないが、自分で書いた文章のように、すんなり入ってくる。だから、物語の当事者のような気持ちになる。
「六本指のトミー」の主人公・マリーは僕だった。
クラスメイトのトミーがひた隠しにする、六本目の指に触れてみたくてたまらない――そんな経験があったのかなかったのかわからないが――あったような気がしてくる。
僕はあいつの指をくわえたかった。それが悪いことなのだという自覚はなんとなくあるのだが、その衝動を抑えられない。邪な欲望が故に僕はあいつに近づいた。ずる賢く距離を縮めて、そして何でもないようなフリをしてくわえた。でも想像していたような悦びはなかった。罪悪感と後悔の方が百倍大きかった。くわえる前のドキドキを返して欲しい。だから僕は早く忘れることにした――。
作中では、トミーに拒否されたマリーは、欲望を見透かされたと感じて逆ギレした。そして、悲しいことが起こる。
マリーがトミーに抱いた欲望は、ある種性的な欲望だった。無垢な存在に対して性的な欲望を抱くことは、やっぱり悪いことなのか。欲望を抱くこと自体は悪いことではないように思う。でも実際に行動に移したら、最悪の結末となったのだ。
女の官能がテーマの短編集であるせいか、収録された七本の短編には、軽薄な優男しか出てこない。男の頼りなさ、薄情さが女の主体性を引き出し、欲望を呼び起こすのだろう。
男が意図的にバカを演じているようにも思えるのは、軽薄であることが女性のエロスをかきたてることを知っているからか。それでも、女が満足するところになんて手が届かない。そこまで一生懸命になる気もない。結果、永遠に両者の願いが重なることはない。
だからエロいのだ。興奮するのだ。
読みながら、僕はずっと物語の視点人物である女と同化していた。あの彼にも、どの彼にも衝動が沸き起こった。それは、女に同化して男に興奮することであって、心地良い違和感と胃のあたりのもやもやが同居する。
でも突然、パッと俯瞰して主人公の女性を性的な欲望の対象として見ている時もある。
忙しい。こんなに緩やかで優しい文章なのに僕の心は忙しい。
主観と客観が入れ替わる。僕は誰なんだ。誰に興奮しているんだ。いや、何に興奮しているんだ。いや興奮している訳ではない。主人公と同化しているだけなんだ。実際に身体が反応している訳でもない。気持ちが整理出来ない――。
すると、どうだろう。記憶の断片とも呼べないような、忘れ去ったはずの邪な欲望が、罪悪感が、後悔が、次々と蘇ってくる。
ほとんど話したことがない、顔にアザがあったサッカー部の同級生のことをたまに思い出す。友達の、顔も覚えていない離婚した元妻のことをたまに考える。小学生の時の隣の席の勉強が出来る女子のキラキラした腕毛をはっきりと覚えている。そして、グラスを片手に大きな夢を語っている軽薄な優男は――もしかして、いつかの僕か。
何を書いているんだ。
表題の『私のことならほっといて』のように、僕のことも、もうほっておいて欲しい。
書くことをやめてさっさと寝てしまおう。そうしたら――夢に出てくる男を愛して夢の中で死ぬことを選んだ「私のことならほっといて」の主人公のように――僕も会えるかもしれない。僕の場合なら、アラビアンナイトに出てくるような女性。その薄褐色の肌にスーッとナイフを刺しこんで、ツーっと手首から指先に流れた血が白い大理石のテーブルに落ちる直前に白ワインが入ったグラスで受けて、その音を聞こうかな。
この本には、男であれ、女であれ、必ず自分がいる。自分とは違う性の、違う人生を生きる登場人物たちと同化することで、素の自分の欲望を感じることが出来る。たとえば男である僕は、女たちの本当の願いに、その時はじめて気づくことができるのだろう。
(てづか・まき 「歌舞伎町ブックセンター」オーナー)
波 2019年7月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
田中兆子
タナカ・チョウコ
1964(昭和39)年、富山県生れ。8年間のOL生活ののち、専業主婦に。2011(平成23)年「べしみ」で女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。同作を収録した『甘いお菓子は食べません』でデビュー。2019(令和元)年『徴産制』でセンス・オブ・ジェンダー賞大賞を受賞。ほかの著書に『劇団42歳♂』『私のことならほっといて』『あとを継ぐひと』などがある。