ひみつの王国―評伝 石井桃子―
1,034円(税込)
発売日:2018/03/28
- 文庫
- 電子書籍あり
新田次郎文学賞受賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
没後十年、児童文学の星座でひときわ輝く石井桃子の稀有な生涯に迫る。初の本格評伝!
ノンちゃん雲に乗る、クマのプーさん、ピーター・ラビットなど作家・翻訳者・編集者として幾多の名作を世に送り出し、溢れる才能のすべてを「子ども時代の幸福」に捧げた101年の生涯。200時間に及ぶインタビューや書簡、綿密な取材をもとに、戦前戦中の活動や私生活にも迫る。子どもの本で人々を勇気づけ、児童文学の星座で強い光をはなつ石井桃子の稀有な人生を描いた、初の本格評伝。
三月ひなの国へ行く
氷川様にまもられて
平等の風が通り抜ける家
読書事始め
姉たちの結婚を愁う
女子大で英語を学ぶ
自活への細道
その頃、モダンガールたちは
昭和六年の「社中日記」
レインボーグリルのかげで
『幻の朱い実』の頃
小里文子と「貞操問答」
女子の本懐
「日本少国民文庫」と山本有三
シー・ヨードラーの若者たち
スキー場の恋
「白林少年館」に描いた夢
井伏さん、太宰さん
少国民と「菊の花」
北京の空、東京の空
労働科学研究所の秘書になる
敗戦まで
「ノンちゃん」本になる
戦犯になった作家たち
うるわしき鶯沢の過酷
諦めなかった吉野源三郎
「岩波少年文庫」創刊まで
占領下の編集
児童文学の旅――米欧留学
読み聞かせから生まれた名訳
かつら文庫を開く
子どもの文学とは
中川李枝子と松岡享子
本物の作家になるには
キャザー&ファージョン&ポター
『ノンちゃん』はどこから来たのか
私というファンタジー
もう一度、ミルンに学ぶ
子どもの本に理屈はいらない
友情の首飾り
半世紀のちの告白
百年をかけた幸福
引用・参考文献リスト
石井桃子略年譜
文庫版のためのあとがき
解説 川本三郎
書誌情報
読み仮名 | ヒミツノオウコクヒョウデンイシイモモコ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | Henry J. Darger “In the Realms of the Unreal” Mixed media on paper 61cm x 227cm (detail)(C)Kiyoko Lerner 2018 協力:小出由紀子事務所/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 720ページ |
ISBN | 978-4-10-121056-8 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | お-102-1 |
ジャンル | ノンフィクション |
定価 | 1,034円 |
電子書籍 価格 | 1,034円 |
電子書籍 配信開始日 | 2018/09/21 |
書評
空白を埋める試み
幼年時代から思春期にかけて、石井桃子による翻訳書の世話にならなかった読者はほとんどいないだろう。『うさこちゃん』『クマのプーさん』『ピーターラビット』。誰もが知っている三つのシリーズを挙げるだけで、それはただちに納得できるはずだ。
しかし、これほど親しみのある名前なのに、石井桃子その人の全体像は掴みにくい。そもそも明治四十年生まれの病弱で小柄な女性が、どのような経緯で子どもの本と係わりはじめ、戦争をはさんだ二十代なかばから三十代なかばにかけての厳しい時期をどのように乗り越えてきたのか。新聞雑誌に発表されたエッセイや後年の自筆年譜によって、当時の活動はある程度想像できるとはいえ、空白はまだ、あちこちに残されている。
本書は、この空白を埋めるために重ねられた、持続的な読みの成果である。二〇〇二年夏に行ったという長大なインタビューを軸に、著者は没後の取材を通して得た証言や、親友の遺族から提供された貴重な書簡を援用しながら、慎重な手つきで謎に迫っていく。
石井桃子には、心の内側に踏み込んでくる者をやんわり拒む一面があったようだ。他者を遠ざける冷たい人だったわけではない。それどころか彼女は、進むべき道を拓いてくれる人物をいつのまにか近くに呼び寄せてしまう、運命的な出会いの才に恵まれていた。犬養毅、菊池寛、永井龍男、井伏鱒二、吉野源三郎、山本有三、小林勇……。語学力と実務能力に長け、人柄もよかったことに加えて、これらの人々のつながりが、無名の女学生を戦前はまず文藝春秋社に、次いで新潮社に導き、戦後は岩波書店の編集者として力を発揮するまでの流れを作った。彼らがいなかったら、『プー横町』や『ドリトル先生』や『岩波少年文庫』も、生まれることはなかっただろう。
著者はまた、別の文脈の固有名に注意を向ける。『幻の朱い実』の登場人物のモデルで、いっとき石井がその家に通いつめるほど意気投合していた文藝春秋社時代の同僚小里文子。小里の同級生で、彼女の思い出を深く共有することになる水澤耶奈。結婚寸前までいきながら結ばれなかった七つ年下の恋人、進藤四朗。明るみに出たこの四朗の存在が、『ノンちゃん雲に乗る』の執筆過程と手紙形式の構成に影響を与え、石井が訳したエリナー・ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の構造とも似ているとの指摘は、評伝を踏みだして文芸批評に近づいている。
埋められた空白のうち最大のものは、戦中、石井桃子が「意に反して」大政翼賛会に関わり、情報局直属の「日本少国民文化協会」文学部会幹事として名を連ねただけでなく、「菊の花」と題する掌篇を機関誌に載せていたという事実だろう。書かれた動機や作品の解釈がどうあれ、国威発揚を目的とする活字に残したことを石井桃子ほどの女性が悔いていなかったはずはない。その深さは「余人の想像をはるかに超える」と、死後に一文の存在を知った著者は息を詰めるように記している。
消そうとしても消し得ない悔い。敗戦後すぐ、石井が軍需工場で知り合った女性と東北で過酷な開墾生活に打ち込むことを選んだ背景には、右の文章に対する「罪」の意識があったのではないか。それを贖うには、「生涯、この国の子どもたちに最善を尽くして、どんな時代、政治体制下でもゆらぐことのない、真に心の栄養となる本当のお話を作り、あるいは選び、訳し、届けること」しかないと考えたからではないか。
戦後、亡くなった小里文子から受け継いだ荻窪の家に「かつら文庫」を開設して子どもたちに本と夢を与え、瀬田貞二をはじめとする新たな運命の出会いを重ねながら、石井桃子は二〇〇八年にその命が尽きるまで全力を振り絞って闘った。そんな解釈の土台になっているのは、自らも彼女の日本語に育てられた世代のひとりだという著者の、感謝と敬愛の念である。だからといって解釈に偏向が生じることのない確かな距離の取り方に、書き手としての覚悟と対象への深い愛が滲み出ている。
(ほりえ・としゆき 作家)
波 2014年7月号より
単行本刊行時掲載
イベント/書店情報
- 終了しました
著者プロフィール
尾崎真理子
オザキ・マリコ
1959(昭和34)年宮崎生れ。読売新聞編集委員などを経て文芸評論に専念。著書に『大江健三郎 作家自身を語る』(大江氏との共著)『ひみつの王国 評伝 石井桃子』(芸術選奨文部科学大臣賞、新田次郎文学賞)、『大江健三郎の「義」』(読売文学賞)など。2016年度日本記者クラブ賞受賞。