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巨匠とマルガリータ

ミハイル・ブルガーコフ/著 、石井信介/訳

1,320円(税込)

発売日:2025/09/29

  • 文庫
  • 電子書籍あり

わたしだけについてきてください。本当の、真実の、永遠の愛をお見せしましょう。

ある春の晴れた日、モスクワに悪魔が現れた。黒魔術の教授を名乗る悪魔は、グラスでウオッカを飲む巨大黒ネコら手下を従え、首都に大混乱を巻き起こす。一方で文壇の権威に酷評され絶望に沈む巨匠。彼に全てを捧げるマルガリータは純愛を貫くべく悪魔の助けを借りる。スターリン独裁下の社会を痛烈に笑い飛ばし、人間の善と悪、愛と芸術を問いかける哲学的かつ挑戦的な世界的ベストセラー。

目次

第一部

第一章 見知らぬ人とは話をするな
第二章 ポンティオ・ピラト
第三章 七つ目の証明
第四章 追跡
第五章 グリボエドフの事件
第六章 いわれたとおり統合失調症だった
第七章 不吉な住まい
第八章 教授と詩人の対決
第九章 コロビエフの芸当
第一〇章 ヤルタからの知らせ
第一一章 詩人ベズドームヌイの分裂
第一二章 黒魔術と種明かし
第一三章 主人公登場
第一四章 雄鶏に栄光あれ!
第一五章 ボソイ組合長の夢
第一六章 処刑
第一七章 不穏な一日
第一八章 不運な訪問者たち

第二部

第一九章 マルガリータ
第二〇章 アザゼロのクリーム
第二一章 飛行
第二二章 ロウソクの灯の下で
第二三章 悪魔の大舞踏会
第二四章 巨匠の救出
第二五章 総督はどのようにイスカリオテのユダを救おうとしたか?
第二六章 埋葬
第二七章 五〇号室の最期
第二八章 コロビエフとベゲモトの最後の冒険
第二九章 巨匠とマルガリータの運命は決まった
第三〇章 出発の時が来た!
第三一章 雀が丘にて
第三二章 赦しと永遠の安らぎの地
エピローグ

翻訳メモ
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 キョショウトマルガリータ
シリーズ名 Star Classics 名作新訳コレクション
装幀 水沢そら/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 784ページ
ISBN 978-4-10-220007-0
C-CODE 0197
整理番号 フ-61-2
ジャンル 文学・評論
定価 1,320円
電子書籍 価格 1,320円
電子書籍 配信開始日 2025/09/29

書評

ブルガーコフの魔術が描く「読んで楽しい地獄」

小泉悠

 この度、『巨匠とマルガリータ』の新訳について評論せよというお題を頂いた。正直、かなり慄いている。
 私はフリーの物書きで食っていた時代が長く、したがって原稿の依頼はなるべく断らない、という方針で生きてきた。依頼されたことはないが、「おいしいカレーの作り方」について書けと言われたら(原稿料によっては)書いただろうと思う。
 だが、ことは『巨匠とマルガリータ』だ。20世紀ロシア文学の、まさに「巨匠」と呼ぶべきミハイル・ブルガーコフが、10年以上の歳月をかけたという大作である。ロシア軍事オタクが昂じて何となく職業にしてしまった、という程度しかロシアとの付き合いがない私が、軽々に論じてよい作品ではあるまい。幸い、本書の巻末には、今回の翻訳を見事に成し遂げられた石井信介氏による詳細なガイドが付されているから、文学史的な読み解き方はそちらを参照願いたい。
 代わってこの文章で論じてみたいのは、『巨匠とマルガリータ』世界の「ソ連ぽくなさ」である。人々の暮らしぶりや物腰が、なんとなくおっとりしているのだ。
 その直接的な理由は、登場人物たちがある種の特権階級に属していることに求められるだろう。おそらくブルガーコフの周辺人物たちをモデルにしたと思われる文学者や劇場関係者たちはソ連社会のエリートであり、したがって一般庶民よりも格段にいい暮らしをしていた。なにしろ「あらゆる色の何百もの更紗」に「キャラコ、シフォン、燕尾服用のラシャ」(外貨専用商店トルグシンの品揃え)である。あるいは「新鮮なイクラと一緒に鉢に盛られたサラダ菜」、「水滴がついた銀製のワインクーラー」、「エゾライチョウの胸肉」(グリボエドフの家のレストランのメニュー)だ。共同住宅で一緒に暮らす同居人の鍋からペリメニだって掠め取ろうという庶民たちとはわけが違う。
 共産主義の理想が結局は帝政時代と変わらぬ格差社会に堕しているではないか、というブルガーコフの告発は明らかだ。突如としてモスクワに現れて全てをめちゃくちゃにしていく悪魔の一団は、裏切られたユートピアを告発する検察官役ということになろうか。
 だが、それだけでは説明がつかない部分もある。『巨匠とマルガリータ』の執筆は1928─1929年頃に始まり、1940年のブルガーコフ死去の直前まで続いたというが、これはちょうどスターリンによる弾圧が強まり、最高潮の恐怖政治にまで達する時期である。実際、作中の登場人物たちはある「機関」の影に常に怯えている。これがスターリンの弾圧マシーン、内務人民委員部(NKVD)であることはいちいち説明するまでもないだろう。しかもNKVDはただ庶民を弾圧するだけでなく、党幹部に将軍、はてはNKVD自身の指導部まで逮捕・処刑していく化け物であった(悪魔の舞踏会でマルガリータにお目通りする最後のゲストに注目)。
 しかし、この点は、エリートたちの腐敗ほどにははっきりと告発されていない。ことあるごとに警官がすっ飛んできて、やたらと人間が逮捕されるものの、あまり非人道的な様子が見られないのだ。少なくとも現実のNKVDのように殴る蹴るの暴行を加えて無理やり供述調書にサインさせているようには見えない。
 ブルガーコフがこうした実態を知らなかったということはありえない。同僚たちが次々と粛清され、本人もスターリンから個人的に睨まれて作品の発表も思うに任せなかったというブルガーコフのことである。スターリン体制の過酷さは身に染みてわかっていよう。
 そのことは、よく読めばわかるようになってはいる。逮捕された巨匠が釈放されたときには廃人のようになっていたことを思えばよい。あるいはボソイ組合長の夢で繰り広げられる「し物」が公開裁判を思わせることは石井氏の解説にもあるとおりだ。
 ただ、そうしたどぎつさは、あまり作品の前面に出てこない。恐怖支配のエグい実態は軽妙な文体の下からチラチラと覗く程度であって、全体的にはファンタジー読み物のように読めてしまうのだ。これが商業作家としてのブルガーコフの販売戦略であったのか、そうでもしないと世に出せないという覚悟であったのか。ブルガーコフ研究者の見解を聞いてみたいところだが、この作品を「読んで楽しい地獄」とでも呼ぶべきものに仕上げたブルガーコフの魔術的手腕には、ある種の凄みを感じさせられた。
 ちなみに『巨匠とマルガリータ』では二つの物語が同時並行していく。ここまで述べてきた、モスクワに現れた悪魔をめぐる物語と、キリストに惹かれながらも処刑せざるを得なかったローマ総督ピラトの物語である。このうちの後者ではエルサレムの街が黒雲に包まれ、それが晴れた後にピラトの絶望が残る。彼は2000年苦しんだのちに、巨匠によってようやく赦される。では、同じように黒雲に包まれたモスクワはどうなるのか。ピラト=スターリンは? その死後、たった70年ほどを経たに過ぎない彼にはまだ赦しは訪れないだろう。なにしろモスクワには、まだ新たなピラト=プーチンが居座っているのだし。

(こいずみ・ゆう 東京大学先端科学技術研究センター准教授)

波 2025年10月号より

著者プロフィール

ミハイル・ブルガーコフ

Булгаков,Михаил

(1891-1940)ウクライナ生れ。キエフ大学医学部卒業。空想科学的世界と現実を織り交ぜて社会を風刺する『悪魔物語』などで注目された。しかし、ソ連体制下において、その風刺性ゆえに作品の多くが発禁処分となり、政治的抑圧を受けることとなった。最晩年の代表作『巨匠とマルガリータ』も生前に発表することはかなわなかったが、のちに再評価が進み、近年では20世紀ロシア語文学を代表する作家のひとりとされている。

石井信介

イシイ・シンスケ

1948年静岡県生れ。1971年モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学歴史文学部を卒業。1976年大阪市立大学大学院経済学研究科修士課程修了。ソ連ノーボスチ通信社の東京支局やロシア向け物流会社のロシア各地駐在勤務ののち、フリーに。訳書に『犬の心』、著書に『奪われた革命』などがある。

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