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あこがれ

瀬戸内寂聴/著

1,650円(税込)

発売日:2022/09/29

  • 書籍
  • 電子書籍あり

99歳の最期までペンを握り続けた著者の遺作となる、自伝的な掌篇小説集。

――そうか、もう、あっちにいるのか。この飛行機は、棲み馴れたあの世から、これから生きていくこの世に着いたということか――。飛行機であの世へ到着したという設定の「星座のひとつ」。ハアちゃんと呼ばれた子どもの頃にまだ見ぬ町や人に憧れた記憶を描いた表題作など17篇。99歳で大往生した著者の最後の小説集。

目次
あこがれ
履物屋の親友

宝物
サーカス
赤い靴
井戸
大正琴
消えた墓場
父と母
はらから
遭いたい人
井戸の話
ハルピン駅
路地があった
雨雲
星座のひとつ

書誌情報

読み仮名 アコガレ
装幀 上野リチ「スキー用刺繍手袋デザイン」(京都国立近代美術館所蔵)/装画、The National Museum of Modern Art,Kyoto/Photo、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 160ページ
ISBN 978-4-10-311229-7
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 1,650円
電子書籍 価格 1,650円
電子書籍 配信開始日 2022/09/29

書評

保存されている幼女

井上荒野

 著者の生い立ちを主なモチーフとして紡がれた十七編。表題作「あこがれ」は冒頭に配されており、大阪へ行く船に乗る父を見送った夜のことが描かれている。「……九十六歳にもなったわたしに、生きる未知へのあこがれをしっかりと植えつけてくれたのは、あの夜だったと確信している」という一文で締められる一編に、読者もまた船出したかのように、豊かな小説世界へと誘われていく。
 月並みな形容と思いつつ、「万華鏡のような」という言葉をどうしても使いたくなる。ひとつひとつの短編の、きらめきや、不思議な揺らめき。読み返すたびに風景の色が変化する感じ。しっとりとした回想録というよりは、わくわくする玩具のような一冊である。「魔術的リアリズム」と言われたガルシア=マルケスの世界を思い出したりもした。マルケスの舞台は南米、本書は徳島なのだが、同じくらい鮮やかでひみつめいたエキゾチズムと、それこそ「あこがれ」に似たものを感じさせられるのはなぜなのだろう。
 実際のところ、本書に納められた掌編はどれも、回想録でも回顧エッセイでもなく、小説、というほかないものである。本書には、小説的「魔術」が満ちている。それはたとえば、著者の特質だと私が考えている、言葉に対して張り巡らされた神経にある。
 先に紹介した「あこがれ」に登場する連絡船は、「小ぢんまりした胴体に似合わない大きなさけび声をあげて、船の発着を知らせる」。伯母の死を描いた一編で、幼い著者が姉と一緒に渡るのは、「日本一長いと信じこまされた赤い橋」だし(「消えた墓場」)、ろうじ(路地)にある駄菓子屋で店番をするのは、「脚の悪いおばはんと、その娘のまつげの濃い女」である(「路地があった」)。
 さらりと書いているようで選び抜かれた言葉。あるいは、著者特有の回路を通って必然的に転がり落ちた言葉が、てらいのない平易な文章の中に窓を穿ち、思いもかけぬ奥行きの景色を現出させるのだ。
 十七編のほとんどは、子供というより、ほとんど幼女の頃の回想である。その頃の感覚が、老齢の著者によって、このように保存されていることに驚く。たとえば風景描写で、周囲のものを視認する順番や、ある出来事を理解していくために最初に嵌めるピース。「(母親の)桃色の豆のような乳首をなめたり吸ったり、思いきり乳房を掴んだりする幸福を、私は誰が何といっても手放すものかと思っている」(「蠅」)というような感慨などは、まるで幼女そのものが書いているかのようだ。
 小さかったなあ、かわいかったなあ、おばかさんだったなあ、という、凡百の回想録に(読者が、それに著者自身も)持つような感傷を、だから本書では持ちにくい。そのかわり、昭和初期の徳島の町に暮らす幼女の不安や恐れやあこがれや希望がそのまま、体の中に流れ込んでくるような心地になる。これは著者の記憶力のなせる業なのか、百歳近い老齢が人の感覚を揺り戻すということなのか。いや、先にも書いた通り、どの掌編も完璧な小説であるということを考えてみれば、著者は幼女の無垢や無邪気や、世界に対する幼女としての認識を、小説家として完璧に創作したとは言えないだろうか。
 あたかも、幼女が少しずつ成長するように、本書一冊を読み進めるにつれ、登場人物のプロフィールや人生が少しずつ補填されていくような趣もある。たとえば、「蠅」では、「逐電」して家族を捨てた人だとあっさり記されていた祖父は、後の掌編の中で、女芝居の団長と駆け落ちしたということがあかされる。さらに「雨雲」という一編では、その女団長が「これ以上きれいに化けられないと思うほど、うっとりする美しさで……」と描写され、一座の町まわりを見物する近所の人たちの「あんなんを、毒婦っていうんじょ、男たらしの毒婦!」「へええ! ほな、おそろし女ごじゃな、ふうん、毒婦……か!」というようなやりとりがあらわされる。万華鏡の奥へ奥へと、読者は引きずり込まれていく。
 後半には、亡き姉に語りかける「はらから」や、自身の結婚の経緯を書いた「ハルピン駅」なども並び、最終話「星座のひとつ」では、著者は飛行機の中にいて、この世とあの世の境目をたゆたっている。船からはじまった掌編集が、飛行機の中で閉じるというのも、いかにもこの著者らしい格好よさではないか。

(いのうえ・あれの 作家)
波 2022年10月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

瀬戸内寂聴

セトウチ・ジャクチョウ

(1922-2021)1922年、徳島県生れ。東京女子大学卒。1957(昭和32)年「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞、1961年『田村俊子』で田村俊子賞、1963年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。1973年11月14日平泉中尊寺で得度。法名寂聴(旧名晴美)。1992(平成4)年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、1996年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『場所』で野間文芸賞、2011年に『風景』で泉鏡花文学賞、2018年『句集 ひとり』で星野立子賞を受賞。2006年、文化勲章を受章。著書に『比叡』『かの子撩乱』『美は乱調にあり』『青鞜』『現代語訳 源氏物語』『秘花』『爛』『わかれ』『いのち』『私解説 ペン一本で生きてきた』など多数。2001年より『瀬戸内寂聴全集』(第一期全20巻)が刊行され、2022(令和4)年に同全集第二期(全5巻)が完結。2021年11月9日99歳で逝去。

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