福永武彦新生日記
2,530円(税込)
発売日:2012/11/30
- 書籍
小説を追い求めつつも病と格闘した日々……そして新たな執筆生活へ――。
「先日ふと1949年1月から7月迄の日記を読みかへしてみると、僕の書いたもののうちこれが一番いいものであるかもしれないと思つた。」と書き遺された「戦後日記」に続く49年、51~53年の日記。妻子と別れ死の不安のなかで新たな生の意欲を取り戻すまでの、野心と断念、現状と夢想――人生と作品を結ぶ魂の苦闘と再生の記録。
一九四九年一月一日~七月十五日
一九五一年十二月十日~一九五三年三月三日
註釈
解説 一九四九年日記をめぐって 鈴木和子
一九五一~一九五三年日記をめぐって 田口耕平
福永武彦小伝 鈴木和子
原條あき子小伝 田口耕平
年譜 一九四四~一九五三年
書誌情報
読み仮名 | フクナガタケヒコシンセイニッキ |
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雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 356ページ |
ISBN | 978-4-10-318715-8 |
C-CODE | 0095 |
定価 | 2,530円 |
書評
福永武彦、再出発の記録
ジープの絵の発見が日記探しの旅のはじまりだった。
十数年前、ある事情で福永武彦日記(一九四七年)のコピーを僕は手に入れた。その存在を池澤夏樹さんに伝え、発表の機会をじっと待っていた。2008年春、池澤さんの札幌移住が決まり、僕も札幌での単身赴任生活が始まった。それを機に開かれた小宴で池澤さんが「田口さん、あれ出していいですよ」と言った。理由は日記の文学的価値の高さ、主要登場人物であるお母さんの没後数年が経ったからというものだった。僕は小躍りしたが、いかんせん現物がない。そこで日記探索隊を結成、旅に出ることになった。
メンバーは一九四六年日記を管理していた研究者の鈴木和子さん。二つの日記を合わせて刊行しようと目論んだ。手始めに追分の堀辰雄文学記念館に行くことにする。福永の別荘玩草亭に残された資料は全てここに収蔵されたことになっていた。連絡すると、館からは未整理のためお見せできない、池澤さんがいらっしゃるなら別ですが……との返事。そこで無理を言って真打ち登場を願い出た。
初秋の追分。レシートの類がほとんどでめぼしいものを見つけられずにいる中、ふと池澤さんが手にしたのがジープの絵だった。「これ、僕が描いた」。一緒に讀賣新聞の切り抜きがあった。十勝沖地震の義捐金を届ける夏樹少年が大きく写る。
もともと池澤さんは日記刊行に深く関わるつもりはなかったと思う。「出していいよ」は「出そう」とは違う。長じてから福永が父と明かされ、一緒に暮らすことのなかった池澤さんにとって普通の父子とは違う微妙な関係があったのは間違いない。そこにジープの絵である。大切に保管された自分の絵を池澤さんはどんな気持ちで見つめたのだろう。とにかく今までの関係が少しズレたのは確かだ。絵の発見翌日、池澤さんは「僕も混ぜて」と積極的に父の日記に関わることを宣言する。その場面を僕も鈴木さんも忘れることはできない。以来、僕らは池澤さんをこっそり親分と呼び、ともに日記探しに奔走することになった。
三年間に及ぶ探索は計五冊の日記という成果をあげる。最初の二冊に一九四五年の日記を加えた『福永武彦戦後日記』は昨年刊行。そして今回『福永武彦新生日記』が陽の目を見る。福永自身が自分の書いたものの中で一番いいという一九四九年日記と一九五一~一九五三年日記の二冊を収める。舞台は東京療養所。前者は長引く入院に疲弊、苦しむ夫婦の姿が描かれる。後者はそこから二年が経過、独身に戻った福永が徐々に回復していく再出発の日々を綴る。『戦後日記』が希望から絶望へ向かうものだったとすれば、『新生日記』は絶望から希望へ向かうものということができるだろう。ただし、その希望はちょっとほろ苦い。隠されていた帯広時代を明らかにした『戦後日記』と、この『新生日記』を通して読むと、福永武彦という作家の主題が現実生活に裏打ちされたものだと気づくだろう。そして福永の代名詞「愛と孤独」は甘ったれたセンチメンタルなものではなかったことを思い知らされる。
さて、ジープの絵を発見したときには存在すら知らなかったこの『新生日記』。一九五二年四月十九日付に次のくだりがある。「急に延子(元妻、澄子の妹)来る。先日読売新聞にのったナツキの写真とクレヨン画を持参」。あの絵は五十六年の時を経て、散逸した日記探索へと促す亡き父の愛のメッセージだった。
(たぐち・こうへい 北海道帯広柏葉高等学校教諭)
波 2012年12月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
福永武彦
フクナガ・タケヒコ
(1918-1979)1918年、福岡県生まれ。一高在学中から詩作を始める。東大仏文科卒。1948年、詩集『ある青春』、短篇集『塔』、1952年、長篇小説『風土』を発表、注目を集める。1954年、長篇小説『草の花』により、作家としての地歩を確立。以後、学習院大学で教鞭をとる傍ら『冥府』『廃市』『忘却の河』『海市』など、叙情性豊かな詩的世界のなかに鋭い文学的主題を見据えた作品を発表。1961年『ゴーギャンの世界』で毎日出版文化賞、1972年『死の島』で日本文学大賞を受賞。1979年、死去。