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沙林 偽りの王国

帚木蓬生/著

2,310円(税込)

発売日:2021/03/26

  • 書籍

未曾有のテロ発生直後も、医療従事者たちは闘った――。医師でもある著者、入魂のレクイエム。

信じる心が、嘘と虚像に翻弄され起こった平成最悪の事件(テロ)。判断を誤ればさらに人が死ぬ――。あの日、未知の毒物と闘ったのは医療従事者たちだった。医師であり作家である著者が、膨大な資料と知識を土台に、想像力と熱意を注ぎ込み、「オウム」の全貌を描いた書き下ろし巨編。小説にしか到達できない深い鎮魂が、あなたを包み込む。

目次
第一章 松本・一九九四年六月二十七日
第二章 上九一色村
第三章 東京地下鉄
第四章 目黒公証役場
第五章 警視庁多摩総合庁舍敷地
第六章 地下鉄日比谷線と千代田線の被害届
第七章 犠牲者とサリン遺留品
第八章 サリン防止法
第九章 VXによる犠牲者と被害者
第十章 滝本太郎弁護士殺人未遂事件
第十一章 イペリットによる信者被害疑い
第十二章 温熱修行の犠牲者
第十三章 蓮華座修行による死者
第十四章 ホスゲン攻撃
第十五章 教祖出廷
第十六章 逃げる教祖
第十七章 教祖の病理
第十八章 証人召喚
第十九章 死刑執行
後記 主要参考文献

書誌情報

読み仮名 サリンイツワリノオウコク
装幀 古屋智子/装画、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 576ページ
ISBN 978-4-10-331425-7
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 2,310円

書評

おごそかな怒り

縄田一男

主人公は毒物学の権威、作者は精神科医。医師の視点から「オウム真理教」犯罪の全貌を描いた今作をめぐり、未解決事件の「謎」についての著者エッセイと縄田一男氏による書評をお届けします。

 二年に一度、あるいは一年に一度、私は私の批評する心を立ち往生させてしまうような衝撃的な傑作と出会う事がある。今年は、年が明けて三月、早くもそれはやって来た。帚木蓬生さんの大部の一巻『沙林 偽りの王国』である。
 作品は、オウム真理教事件の全貌に迫ろうとしたもので、和歌山カレー事件を題材にした『悲素』と同じく、九州大学の医師・沢井教授が事件を追及する主人公として再び登場する。
 全篇を貫くものは、作者のおごそかな怒りとも言うべきそれで、ここに作品がノンフィクションやドキュメントとしてではなく、小説として成立しなければならなかった意味があるように思われる。
 その怒りは、六千人以上を負傷させたオウム真理教だけでなく、教団に対する捜査を後手に回らす原因となった県警間の連帯の無さや、時にはオウム真理教幹部達を視聴率アップのため無批判にテレビ等に登場させたマスメディアの責任等に及んでいる。
 その中で、作者が心がけている事は、この事件渦中で無念のほぞをかんだ人々の思いをくみとる事であった。
 特に、松本サリン事件の第一通報者でありながら犯人と疑がわれた会社員が「妻が生きていてくれるから頑張れる」ともらしていたとする箇所や、作品が始まって間も無く、沢井教授が「ともかく、あの会社員は犯人ではありません」と言っている箇所、同じく沢井教授が警察は謝罪では無く遺憾の意を示しただけだと知らされ、「遺憾の意とは、気の毒ですという意味で、謝罪とは全く正反対ですよ」と返しているところからもうかがえる。
 そして、遠く離れ離れに埋められた坂本弁護士一家三人の遺体が五年十ヶ月を経てようやく一つに集う事が出来たと記されている箇所は痛ましさの限りだ。
 加えて、信者達に加えられた温熱修行、蓮華座修行による死の詳細を記したくだりは肌に粟を生じると言っていい。
 さらに「第十五章 教祖出廷」及び「第十六章 逃げる教祖」等における松本被告の無責任な態度。
 いわく「地下鉄サリン事件の犠牲者・被害者の無念さと苦痛は一顧だにせず、それは“絶対自由”“絶対幸福”“絶対歓喜”に至るお手伝いをしたまでだとする言い逃れは、教祖の頭の中では『絶対的に』確実なものなのだろう」。
 いわく「公判中も、教祖は馬耳東風、我関せずの態度を貫いた。犠牲者が何人出ようと、被害者が何千人出ようと、教祖には何の痛みもないのだ」。
 いわく「まずは怒号であり、次は支離滅裂の弁明、そして最後は、何やら自分流の呪文らしいブツブツである。これら一連の反応は、すべて生き延びるためのあがきであり、窮余の一策としてのブツブツは、あわよくば精神異常の診断を勝ち取るための詐病でしかなかった」。
 はどうであろうか。
 では作者は、いつからオウム真理教に関心を持ったのであろうか。本書「後記」にも詳しいが、前述の『悲素』の様々な毒物についての記載の中に、第一次世界大戦の塩素ガス攻撃、松本サリン事件と地下鉄サリン事件等にも触れられており、沢井教授の再登場は必然であったと言える。
 作品終盤の圧巻は、沢井教授に対する執拗な弁護側の証人尋問である。そしてこのくだりで、読んでいた私は明らかに発熱した。小説を読んでいてこんな事になったのは初めてである。それはたぶん、作者の気迫に圧倒されたという事なのだろう。
 が、悪夢はまだ終わっていないと作者は記す。オウム真理教が使っていた毒ガスVXを用いたマレーシアの空港での金正男の暗殺、そして全容解明に至らぬまま、政治的判断によって行なわれた死刑執行まで――。
 そして、作者はこうも記している。
「人間に原罪というものがあるとすれば、人を殺傷するための通常兵器や核兵器の開発、化学・生物兵器の開発と、その使用ではないかと思えてならない」と。
 本書は、私たちがオウム真理教事件から何を学び、何を学ばなかったのか、その答えを喉もとにつきつけてくる傑作といえよう。

(なわた・かずお 文芸評論家)
波 2021年4月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

オウム真理教犯罪の闇

帚木蓬生

主人公は毒物学の権威、作者は精神科医。医師の視点から「オウム真理教」犯罪の全貌を描いた今作をめぐり、未解決事件の「謎」についての著者エッセイと縄田一男氏による書評をお届けします。

 オウム真理教による犯罪の全容は、拙書で書き尽くしています。しかし今以て未解決の犯罪は、1995年3月20日の地下鉄サリン事件の十日後に起きた国松孝次警察庁長官狙撃事件と、ひと月後に生じた村井秀夫刺殺事件です。
 前者は長官が居住しているマンションの通用口で発生し、後者はオウム真理教東京総本部前で実行されました。いずれも周到に計画された犯行です。狙撃者は逃亡後、煙のように闇に消え、逮捕された刺客は暴力団員だったものの、その背後は闇に包まれたままです。ある意味でこの二つの闇こそが、オウム真理教の犯罪の核心だと私には思えます。
 もちろん、この犯行を指揮した人物は、教祖以外に考えられません。その解決の糸は、2018年7月の、教祖以下幹部十三名の死刑執行によって断たれました。
 しかしこの二つの犯罪が、教祖の頭ひとつで考案されたとは到底思えません。教祖の周辺に存在した、頭脳集団つまり法皇官房が演じた役割が、大きかったのではないかという推測が成り立ちます。二つの犯罪のみならず、一連の犯罪にも法皇官房は関与したのではないでしょうか。
 この頭脳集団の筆頭は、東大医学部に在籍していた石川公一で、実行犯ではないため、何の罪にも問われず、後に変名で九州大学医学部を受験して合格、背後関係が暴かれて教授会の反対で合格取消しになっています。教祖の側近にあったこの人物が終始、犯罪の埒外にあったはずはなく、今日でも闇を抱いたまま、苦悶の日々を送っているのではないでしょうか。
 他方、教団内外で演じた役柄が大きかった割には、比較的軽微な罪ですんだ人物が二人います。ひとりは、「ああ言えば上祐」と揶揄された外報部長、後の“緊急対策本部長”の上祐史浩です。この上祐があることないことの嘘八百を、マスメディアの前で滔々とまくしたてている姿は、年配の人なら記憶にも新しいはずです。
 村井秀夫が刺殺されたとき、すぐ近くにいて、何か言おうとしていた瀕死の男の口を塞いだのが、饒舌な上祐でした。こうして村井秀夫の最期の言葉は永遠に封印されたのです。この刺殺の背後に潜む闇を知悉しているのは、懲役三年の実刑を受けたあと、現在もなお観察処分下にある後継教団“ひかりの輪”代表たる当人でしょう。
 残るひとりは、“法務省大臣”だった弁護士の青山吉伸です。京都大学在学中二十一歳の最年少で司法試験に合格した頭脳を使い、教団の行動に楯突く動きに対して、訴訟を乱発しました。法律の悪用に関しては獅子奮迅の働きをし、忙しさの余り裁判をすっぽかすのは度々でした。審理が長引けば長引くほど、事態は動かず、教団には有利だったのです。
 しかしこの裁判の連発に怖気づいた最たる組織は、警察でした。現在でも捜査に対しては腰が重く、大方の犯罪の芽には眼を背ける悪癖を身につけています。ましてや相手は宗教法人ですから、下手をすると火中の栗を拾う結果になります。しかも犯罪の場は全国に散らばり、警視庁を含めて各県警は、連携を欠くという致命的な欠陥のため、単独で対処する他なかったのです。慎重すぎて後手後手に回った捜査は、後世に禍根を残しました。
 拙書の題名にある「偽りの王国」は、当時のそうした警察組織をも暗喩しています。その王国が、現状もなお続いていないことを願うばかりです。
 さらにまたこの「偽りの王国」は、当時のマスメディアにもあてはまります。地下鉄サリン事件の九ヵ月前、1994年6月27日に長野県松本市で起きた松本サリン事件の直後、全く見当違いの捜査をした長野県警の尻馬に乗ったのが、信濃毎日新聞以下の新聞各紙です。第一通報者の河野義行氏を犯人とみなして、あたかも県警の広報紙に成り下がりました。重態の妻を看病しながら、冤罪に喘がなければならなかった河野氏の辛酸は、想像を絶します。
 事態を批判的に論じなければならないはずのメディアで、視聴率を稼ぐために、教祖や上祐、その他の幹部を幾度となく画面に登場させたのは、テレビ各局でした。この露出によって教団が力を増した事実は否めず、今から見れば、このとき王国としてのメディアの化けの皮がはがれたのです。それ以後テレビは衰退の一途を辿っています。

(ははきぎ・ほうせい 精神科医・小説家)
波 2021年4月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

帚木蓬生

ハハキギ・ホウセイ

1947(昭和22)年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部に学ぶ。2023年8月現在は精神科医。1993(平成5)年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞、2011年『ソルハ』で小学館児童出版文化賞、2012年『蠅の帝国』『蛍の航跡』の二部作で日本医療小説大賞、2013年『日御子』で歴史時代作家クラブ賞作品賞、2018年『守教』で吉川英治文学賞と中山義秀文学賞をそれぞれ受賞。『国銅』『風花病棟』『天に星 地に花』『受難』『悲素』『襲来』『花散る里の病棟』といった小説のほか、新書、選書、児童書などにも多くの著作がある。

判型違い(文庫)

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