
掌より愛をこめて─阿刀田高さいごの小説集─
2,090円(税込)
発売日:2026/05/27
- 書籍
- 電子書籍あり
わずか数枚の原稿が生む、大きな驚き。名手が放つ愛とたくらみの掌篇集。
銀座の地下から漕ぎ出す舟、異文化が生む愛の落とし穴、窓から見えるもう一人の私、幼い昔へと走る電車──アイデアとウィットと皮肉な筆致を武器に切れ味鋭い短篇を次々ものし、世に送り出した作品はじつに900以上。91歳、ついに迎えた創作人生の終わりに感謝をこめて読者に贈る「てのひらの小説」珠玉の36篇。
黒いシアター
ささいな出来事
敗者と勝者
下り電車で
数に祈りを
左門町の夜
左手の研究
花の香り
最後の人
小鳥と歌とシロの午後
壺の底
怪しい贈り物
カードの贈り物
不都合な帽子
胸さわぎ
靴の心
本屋の魔法使い
街ものがたり
恐ろしい窓
水の町
美しい歌
お手紙をどうぞ
うれしい手紙
入れちがえに用心
白い封筒
夢のあとさき
コクリコの道
鐘の音
黒い箱
夢一夜
脱出
掌から
雪の朝
走り書き。
窓
新聞が消えた日
さくら慕情
あるうららかな日に
アフター・ファイブ
オマージュ抄
笛吹峠の鈴の音──〈新々釈遠野物語〉として
ショートショートの道
エピローグ
狐つき
書誌情報
| 読み仮名 | テノヒラヨリアイヲコメテアトウダタカシサイゴノショウセツシュウ |
|---|---|
| 装幀 | 市村譲/装画、新潮社装幀室/装幀 |
| 雑誌から生まれた本 | 波から生まれた本 |
| 発行形態 | 書籍、電子書籍 |
| 判型 | 四六判 |
| 頁数 | 240ページ |
| ISBN | 978-4-10-334333-2 |
| C-CODE | 0093 |
| ジャンル | 文芸作品 |
| 定価 | 2,090円 |
| 電子書籍 価格 | 2,090円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2026/05/27 |
書評
アンコール!
コンサートに行くと、そのジャンルにかかわらず、予定された演奏曲目(セットリスト)が終わると、最後にアンコールの時間になる。演劇だって、上演演目が終わった後、役者たちが物語の世界から現実の世界に戻ってきて、最後の挨拶をする。みんな、その「世界」を終わらせたくないからだ。
わたしの知る限り、もっとも感動的なアンコールの一つは、20世紀最大のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが、1986年、82歳の時、およそ60年ぶりに祖国へ戻り、モスクワで行われたリサイタルでのものだ。アンコールでホロヴィッツが弾いたのはシューマンの「トロイメライ(夢)」。子どもでも弾けるその曲を、ホロヴィッツは、この世のものとも思えぬ美しい音で弾いた。その様子はいまも動画で観ることができる。静まり返ったホールで、身じろぎもせず聴き入る聴衆たち。中には流れ出る涙をそのままにしている人も。それが巨匠からの最後の贈り物であることをみんな知っていたのだ。
阿刀田高さんの『掌より愛をこめて─阿刀田高さいごの小説集─』を読んだ。美しいと思った。簡潔にも思えた。静かだった。でも諧謔も生きていた。エロティックなところも、謎めいたところも、楽しげに遊ぶ箇所もあった。つまり、これまでずっと、阿刀田さんがわたしたちに送り届けてくれたものが、みんなそこにあった。いや、ただ「そこにあった」のではなく、まるで巨匠がアンコールで弾く曲のように「そこにあった」。いままではひとりの演奏家として、たくさんの聴衆の前で弾いたのだ。心をこめて。そして拍手を浴び、お辞儀をして、ピアノの前を去っていった。約束事はそこで終り。いや、すべてを尽くして聴衆に捧げた時間は終わった。それでも、別れがたく、もう一度、聴衆と見つめ合うために再び、ピアノの前に座るのだ。だから、アンコールで、もう一度、巨匠は姿を現す。終わったと思ったものが終わってはいないのだ。もう一度、繰り返してくれるのだ。今度は、まるで恋人の囁きのように親密に、こっそりとしかける悪戯のように自由に、正式の物語が終わった後、突然訪れる束の間の休息のように、穏やかな日射しを浴びて。
本書の掲載順と、作品の発表の順番は異なっている。
冒頭の「黒いシアター」と題された10本の連作がもっとも遅く書かれた。この本が阿刀田さんの「さいごの小説集」なら、この部分がほんとうに「さいご」に書かれたものになる。
「黒いシアター」の作品たちには、いままでわたしたちが読んできた阿刀田さんの短編の良さが詰まっていた。いや同時に、すべての作品から漂ってくるのは、小説家・阿刀田高の姿というより、人間・阿刀田高の姿であるように、そして、そこには、拭い去りがたい「終り」の感覚があるようにも感じられた。
「下り電車で」の主人公の「あなた」は四十一歳で「都心の優良企業に勤めるエリート」だ。結婚しているが、子どもはいない。厳しい立場の中間管理職として今日も出社する。駅に着き、停まっている電車に乗り込む。「あなた」はすぐに、間違えて「下り電車」に乗ったことに気づく。けれど「ま、いいか」と思う。「いつも、いつも、混んでいる上り電車」ではなく「下り電車」に乗ってゆく。するとなぜか、忘れられない過去の思い出が胸の奥から湧きだしてゆく。「電車の響きが消え、なにかが薄くなって」いき、その電車は「末尾の車両に一人だけを乗せたまま花咲く里へと向かっている」のだ。説明など不要だ。ホロヴィッツの「トロイメライ」をただ深い沈黙と共に聴いたロシアの聴衆のように、わたしたちはただ読めばいいのである。
現時点で阿刀田さんの「さいご」の作品である「壺の底」は「黒いシアター」の掉尾を飾るものでもある。「八十歳を越え」「妻の春菜が二年前に他界」した「私」の、日々の暮らしと思いを描くこの短編の主人公の姿に、誰もが作者の阿刀田さん本人を思い浮かべるだろう。そうかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。年老いて身体もままならない「私」。すると亡くなったはずの「妻」の声が聞こえてきて、「私」に大切なことを教えてくれる。それが何なのかは、読者のみなさんに自分で確かめてもらいたい。「妻」が「私」に教えたかったことは、著者がわたしたち読者に伝えたかったことなのかもしれない。最後に、著者は「アンコール」で、そのことを書いた。いや弾いたのである。そして、わたしたちは読んだ。いや聴いたのだ。みなさん、立ち上がり、著者に万雷の拍手を。
(たかはし・げんいちろう 作家)
波 2026年6月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
阿刀田高
アトウダ・タカシ
1935年、東京生れ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に勤務しながら執筆活動を続け、1978年『冷蔵庫より愛をこめて』で小説家デビュー。短篇小説の名手として知られ、1979年「来訪者」で日本推理作家協会賞、短篇集『ナポレオン狂』で直木賞、1995年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。2018年には文化功労者に選出された。文化審議会会長や第15代日本ペンクラブ会長を務め、2026年5月現在、山梨県立図書館名誉館長。他の著書に『街のアラベスク』『花あらし』『ローマへ行こう』『地下水路の夜』など。軽妙で知的なエッセイのファンも多く、『ギリシア神話を知っていますか』をはじめとした古典入門エッセイ「知っていますか」シリーズや、2025年には老境の暮らし方を率直に綴った『90歳、男のひとり暮らし』を発表し、新たな読者を獲得している。


































