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水平線

滝口悠生/著

2,750円(税込)

発売日:2022/07/27

  • 書籍
  • 電子書籍あり

かつての激戦地・硫黄島。そこに生きていた人々が、現代の私に語りかけル。

祖父母の故郷・硫黄島を墓参で訪れたことがある妹に、見知らぬ男から電話がかかってきた頃、兄は不思議なメールに導かれ船に乗った。戦争による疎開で島を出た祖父母たちの人生と、激戦地となった島に残された人々の運命。もういない彼らの言葉が、今も隆起し続ける島から、波に乗ってやってくルルル――時を超えた魂の交流を描く。

  • 受賞
    第73回 芸術選奨文部科学大臣賞 文学部門
  • 受賞
    第39回 織田作之助賞

書誌情報

読み仮名 スイヘイセン
装幀 中山信一/装画・題字、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 512ページ
ISBN 978-4-10-335314-0
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 2,750円
電子書籍 価格 2,750円
電子書籍 配信開始日 2022/07/27

書評

死者から届く親しげな挨拶

松家仁之

 東京から千三百キロ南方にある硫黄島は、1968年にアメリカから返還されて以降、全島が自衛隊の管理する航空基地になった。もともと暮らしていた住民やその親族は、東京都の墓参事業の枠内で日帰りの訪問が許されるが、帰島はできない。
 太平洋戦争末期の1944年、硫黄島には千人あまりの島民が暮らしていた。本土防衛の最重要拠点とされ陸軍が送り込まれてからは、徹底抗戦を想定した迷路状の隧道が掘られ、司令部は地下に潜り、島は要塞化していった。
 アメリカ軍の空襲が激化すると、島民の内地への強制疎開が決定する。しかし、十六歳以上六十歳未満の男性は現地徴用され、穴掘りや炊事など軍の雑多な作業要員として留め置かれた。
 アメリカ軍は硫黄島を五日で制圧できると踏んでいたが、日本軍は地下要塞を拠点にしぶとく反撃し、一ヶ月を超える激戦となった。日本軍の戦死者は二万一二九人、アメリカ軍六八二一人。徴用された島民も百人近くが亡くなった。いまも一万柱を超える遺骨が硫黄島に眠っている。遺骨収集は断続的に行われているが、火山島である硫黄島の地下の気温は四〇度を超え、要塞が崩れ原形をとどめない区域も多く、困難を極めるという。
 戦闘の一部始終についてはいくつもの記録や作品がある。とりわけ大きな話題になったのは、梯久美子著『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』と、本書でも触れられているクリント・イーストウッドの映画「硫黄島からの手紙」だろう。いずれも悲惨としかいいようのない戦場の実態を描きだし、「玉砕」の内実を明らかにしているが、島民について触れている部分はあるにせよ本筋とはなっていない。
『水平線』は、全島疎開を余儀なくされた島民と、その子孫のおよそ三代にわたる人生を描いている。2020年と1944年、このふたつの起点が楕円を描いて広がるのがこの小説の時空である。視点や人称もつぎつぎに転じる。著者の変幻自在な小説技法は、本作のモチーフが過去に向けて遡るばかりでなく、過去が私たちの現在に入り込んでくることを自然に導いて、そのリアリティを支える。過去はいつでもふいに現れ、何かを落としては、そこに静かな波紋を広げてゆく。
 波紋をじっと見つめるのは、私たちと同時代の空気を吸う兄妹だ。強制疎開した島民の子孫である横多平(兄)、三十八歳と、両親の離婚により母の苗字を名乗っている三森来未(妹)、三十六歳。兄はフリーの編集者兼ライターだが今は休業中、妹はパン屋の店長、それぞれ単身者だ。
 波紋とはなにか。強制疎開後に伊豆で始めた民宿から突然「蒸発」したはずの祖母の妹から、横多平に連絡が届くことであり、硫黄島で現地徴用され死んだとされる、血のつながらない祖父の末弟から三森来未に連絡が届くことである。怪異譚と読めないこともない。しかし彼らの調子には無防備なほど明るい親密さがあって、恐怖や驚きを与えない。この人には伝わると信じ、ここにやってくるからだ。死者を理解し想像するのではなく、死んだ者たちが生者を理解する。兄妹の人となりや感覚、考えかたが丁寧に描かれているから、死んだはずの者が親しげに近づいてくることを読者は半ば当然のように納得する。
 硫黄島の自然や気候、特徴的な地形、水資源の乏しい土地で興された産業などが、戦前の暮らしとそこで生きる感覚とともに呼吸をするように描かれる。口にできない恋愛感情も、兵士になることを忌避するための秘密の行為も、たったいま自分が経験していることのように匂い立ち、耐えがたい痛みとなる。
 激しい戦闘で潰される故郷を離れ、戦後を生きた祖父の晩年の感慨に、しばらくその先に進めなくなった。これは戦争経験者の誰しもが、その生死にかかわらずおもうことではないか。
「話していないことはたくさんある。話さなかったこともたくさんあるけど、それは誰かほかのひとが話すのかもしれないし、誰も話さないならそれでいい。仕方がない」
 小説は書かないではいられない動機がなければ書けないというものでもない。しかしときに、書かないではいられない動機に衝き動かされて書く場合がある。本作はそのような作品であるにちがいない。傑作というほかない。ことばと記憶があるかぎり人は死なない、人は生きつづける。

(まついえ・まさし 小説家)
波 2022年8月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

滝口悠生

タキグチ・ユウショウ

1982年、東京都八丈島生まれ。埼玉県で育つ。2011年、「楽器」で第四十三回新潮新人賞を受賞し、デビュー。2015年、『愛と人生』で第三十七回野間文芸新人賞を受賞。2016年、「死んでいない者」で第百五十四回芥川龍之介賞を受賞。他の著作に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』『長い一日』『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』(植本一子氏との共著)など。

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