
藍を継ぐ海
1,760円(税込)
発売日:2024/09/26
- 書籍
- 電子書籍あり
数百年先に帰ってくるかもしれない。懐かしい、この浜辺に――。
なんとかウミガメの卵を孵化させ、自力で育てようとする徳島の中学生の女の子。老いた父親のために隕石を拾った場所を偽る北海道の身重の女性。山口の島で、萩焼に絶妙な色味を出すという伝説の土を探す元カメラマンの男――。人間の生をはるかに超える時の流れを見据えた、科学だけが気づかせてくれる大切な未来。きらめく全五篇。
狼犬ダイアリー
祈りの破片
星隕つ駅逓
藍を継ぐ海
書誌情報
読み仮名 | アイヲツグウミ |
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装幀 | 草野碧/装画、新潮社装幀室/装幀 |
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 272ページ |
ISBN | 978-4-10-336214-2 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 1,760円 |
電子書籍 価格 | 1,760円 |
電子書籍 配信開始日 | 2024/09/26 |
書評
科学の体温に触れて
わたしって、地球に生きているんだなぁ。本書を読み終えたときに浮かんだのが、こんな感慨だった。地球に46億年分の歴史があるなかで、人類が誕生したのはほんの20万年前。そこからの歴史というのは、人の想いの積み重ねでできている。その上に、今、わたしが生きていることって、ものすごい奇跡だ――。たった5つの物語を通して、深い感動を伴う、確かな実感を得たのだった。
とは言え、5篇で描かれるのはあくまで現代の日本。登場するキャラクターも、本当に日本のどこかで暮らしているんだろうなと、親近感とリアリティのある人々。そこに、“科学”というスパイスが加えられる。それだけで見える世界のスケールが広がるのが、伊与原新マジックだ。
以前、わたしはNHK Eテレの「サイエンスZERO」という科学番組のナビゲーターを6年間務めていた。20年以上続き、現在はタレントの井上咲楽さんが担当している人気番組だ。わたしが当時、毎週さまざまな話題に向き合ってきたなかで、一番大きな発見だったのが、科学はあたたかい、ということ。こんなに心が動かされるのかと驚かされた。学校の授業で習っていたときにはただの事実やデータとしか思えなかったものが、研究されている先生方から直接お話を伺い、その現場を見て、最終的には、最新研究の功績とともに関わる人たちの想いを受け取った。
そうして日常に戻り、すこしでも科学的視点で物事を見られるようになっただけで、生活が立体的で彩り豊かになっていった。科学は、世界の解像度をあげてくれるのだ。本書でもそのような体験ができる。
冒頭「夢化けの島」は、山口県の見島へ、地質調査にやってきた歩美と、萩焼で使う見島土を探しに来た光平が出会い、土地の生い立ちに触れながら萩焼の歴史を辿っていく物語。「焼き物とか粘土が科学と関係あるなんて」と光平が呟くが、まさに同感だった。伝統的な職人仕事の陶芸と科学は交わることはないと思っていた。ところがどうだ、土を知ろうとすると1200万年前の島の形成まで遡ることになる。さらにその歴史ある地の土を使った器に今も夢をかける人がいて、これからも形として残り、想いが繋がっていく。すごいロマンではないか。
ただ、科学でも解明されていないことはまだまだ世の中にたくさんある。その一つであるニホンオオカミを追ったのが「狼犬ダイアリー」だ。オオカミといえば、童話にも登場するので姿形のイメージは何となくあったが、実はニホンオオカミは詳しい外見すら明らかになっていないのだそう。ある時、ウェブデザイナーのまひろは、奈良の山中でオオカミらしき生き物と姿を消した大家の犬の行方を探すうち、真相を知り、人とオオカミ/犬の暮らしの変遷を見つめていくことになる。
歴史に想いを馳せるだけで、今いる場所やそこにあるものが鮮明になっていく。「祈りの破片」で、長崎県長与町の一つの空き家から始まる物語は心が震えた。近隣住民から「えすか(こわい)家」だと相談を受けた役場の小寺。ただの空き家かと思いきや、そこで見つけたものは、表面が溶けたり焦げたりしている岩石や瓦やレンガ、コンクリートの破片だった。そこから、原爆やキリスト教信仰まで思いを巡らせていく。
現代ではもしかしたら薄れつつある過去、だけど確かに残っている歴史。それらを知ることは、未来を築く上で大切なことだと思う。つづく「星隕つ駅逓」は、まずタイトルにある“駅逓”すらわたしは知らなかった。駅逓とは、旅人の宿泊や郵便、運送などの役割を担った、北海道の開拓で重要な役割を果たした施設だ。人と人との繋がりにおいて欠かせなかった場所とも言える。そんな駅逓があった遠軽町に隕石が落ちてきたことをきっかけに、一つの家族が変化していく物語から、北海道、日本、いや地球の成り立ちまで考えさせられた。
我々は一つの地球で生きる命なのだ、という意識は最後の表題作でより濃く感じられる。徳島県の海辺の町を舞台に、ウミガメと自分を重ねる中学生沙月が主人公だ。ウミガメの生態がまた神秘的だ。徳島で生まれたウミガメは黒潮に乗って太平洋に出て、3、4年かけてカリフォルニア沖まで行く。そこで10年余り過ごし、若ガメになったら帰郷の途へ。さらに10年以上かけて成体になる、とても長い成長の旅をする。メスに関しては、自分の生まれた浜あたりに戻ってきて産卵する特徴があるという。そして沙月と一緒にウミガメを見守る佐和が言う。「すべては巡る、いうわけや」。
すべての生命は、地球を巡る。人の想いは、時を巡る。本書で描き出される体温のある科学によって、人間の奥深くに刻まれている遠い記憶が呼び起こされた。それはとてもあたたかく、清らかだ。
(みなみさわ・なお 俳優)
波 2024年10月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ

孤島で千二百万年を思う
地質学者がいう“最近”という言葉は、もはや一種のジャーゴンとなっている。ある地質現象について彼らが「これは最近の出来事で」と説明を始めたとしても、鵜呑みにしてはいけない。よくよく聞けば百万年前の話だったりするのはざらだからだ。数十億年にわたる地球史を読み解くことを仕事にしている以上、当然といえば当然かもしれない。
百万年前が“最近”なら、日本列島に人間が住み着くようになった四万年前は“つい最近”ということになる。そんな時間感覚で日常を生きることは不可能だとしても、ときに時空を俯瞰して今自分が立っている位置を眺めてみることは、精神の深呼吸とでもいうべき効果をもたらすのではないか。
日本海の孤島、見島で、岩場に建つ観音堂から高さ三、四十メートルはあろうかという断崖を見上げながら、私はそんなことを考えていた。
褐色のごつごつした岩肌は、およそ千二百万年前に海底から噴き出した溶岩と火山噴出物である。目を凝らせば、ラグビーボールのような形をした火山弾がいくつもはさまっているのが見て取れる。それらの地層を斜めに横切るようにして、灰色の岩石が貫入している。それもまた、地下深くから上がってきたマグマが冷え固まったものだ。
見島へは、『藍を継ぐ海』の第一編、萩焼を題材にした「夢化けの島」執筆のための取材で訪れた。山口県は萩の北西約四十五キロメートル沖にぽつんと浮かぶ、人口六百人ほどの小さな島である。4月の海風を全身に受けながら、観光協会で借りたレンタサイクルで、丸一日かけて島を一周した。
見島の成り立ちは、実は日本列島の誕生と深く関わっている。およそ二千万年前から千五百万年前にかけて、アジア大陸の東縁が割れて隙間に海が広がっていき、日本列島が現在の位置まで移動してきた。見島は、そのとき日本海の海底にできた裂け目から噴き上がってきたマグマが作り出した火山島なのだ。
この島では、萩焼に欠くことのできない原土の一つ、「見島土」が採れる。千二百万年前の溶岩が風化してできた、赤い粘土である。一説には、島流しの憂き目にあった江戸期の名工、六代林半六こと林泥平がこの粘土を本土に持ち帰り、以降萩焼で広く用いられるようになったという。
見島土は、いわば列島誕生の副産物であり、大地が経てきた時の賜物だ。林泥平も、彼に続いた萩の陶工たちも、当然そんなことは想像だにせぬまま、その赤い粘土を用いて器を挽き続けてきた。褐色の断崖と対峙して泥平が考えたことは、悠久の時の流れなどではなく、この島の何がどう使えるか、であったはずだ。
日本人の祖先が列島へ渡ってきて、四万年。世代に換算すれば、ざっと千三百世代である。列島の各地に広がった人々は、多様な風土に適応し、山海の資源を活かす術を学んで定着した。そして、その方法を家族や共同体で連綿と受け継ぎながら生きてきた。『藍を継ぐ海』では、見島の他に、奈良の東吉野村、長崎の長与町、北海道の遠軽町、徳島の海辺の町を舞台にしたが、この五編に通奏低音として響かせようと試みたのは、それぞれの土地に固有の「継承」である。
継承の際の理屈としては、時代に応じて様々なものが使われてきたであろうが、現代を生きる我々は「科学」という理屈を知っている。人類の飽くなき好奇心が生み出した、今のところもっとも強力な理屈である。科学のせいで世界から神秘が失われたと嘆く人々がいることは知っているが、私はその考えに与しない。
神代の物語を紡いだ人々は、天の川銀河の二千億個ともいわれる恒星系の一つで地球が四十六億年前に生まれたことを想像できただろうか。流れ星で吉兆を占った人々は、その正体が彗星の塵や小惑星の破片であることを想像できただろうか。村の浜でウミガメの産卵を見守ってきた人々は、それらが遥か太平洋をひと巡りして戻ってくることを想像できただろうか。
科学が世界を味気ないものにしているのではない。科学の知識が積み上がるにつれ、世界の時空はむしろ拡大し、その細部も豊かなものになっているのだ。列島の各地で営まれてきた「継承」を科学の光で照らしたとき、その像はよりくっきりと浮かび上がり、また新たな輝きを放ち始める。
そんな時代に生きる幸運を噛みしめながら、千二百万年に及ぶ地球のダイナミクスが作り上げた断崖を眺めていると、見島の海風が胸の奥まで吹き通っていくように感じた。
(いよはら・しん 作家)
波 2024年10月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
伊与原新
イヨハラ・シン
1972年、大阪生れ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。2010年、『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。2019年、『月まで三キロ』で新田次郎文学賞、静岡書店大賞、未来屋小説大賞を受賞。他の著書に『八月の銀の雪』『オオルリ流星群』『宙(そら)わたる教室』『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』『磁極反転の日』『ルカの方舟』『博物館のファントム』『蝶が舞ったら、謎のち晴れ 気象予報士・蝶子の推理』『ブルーネス』『コンタミ 科学汚染』などがある。