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猛老猫の逆襲

山下洋輔/著

1,760円(税込)

発売日:2018/12/21

  • 書籍
  • 電子書籍あり

「創造、挑戦、全身全霊、常にユーモアを忘れない。これが山下洋輔スタイル」(指揮者 佐渡裕)。

常に第一線を疾走するジャズピアニスト山下洋輔。海外で日本各地で、エネルギッシュな超絶演奏で人々を熱狂させ、オケから浄瑠璃まであらゆる表現者と競演。ヤマシタの日常は生きた現代ジャズ史となる。山下洋輔トリオ結成50周年を記念して贈る、即興セッション旅日記最新版!

目次
自筆楽譜「The 30th Theme」

1 ミャンマーの地に、ピアノは芽吹いた!
2 ネピドー空陸作戦、象も参加!?
3 ウィーンぺた足乱入記
4 ザンクト・ペルテン、接着前歯猫、突入
5 ウィーン「黄金の間」でドンバ猫乱舞
6 ミュンヘン2丁目の夜は更けて
7 時をかける冷し中華
8 タイルマンvs.ブリックマン
9 池袋で人は踊り馬は駆ける
10 伝説の交差点、マキシ・ロード疾走の夜
11 狂演! 狂乱! 東奔西走の日々
12 面白合戦炸裂! 伊那、長野の夜
13 六本木への長い旅
14 百年監獄古時計
15 極私的四月の思い出
16 おれの人生、人任せ
17 驚異のタタキヤマけふ越えて
18 徳島えらいやっちゃ頬ずりボレロ
19 百花繚乱、打ち上げの掟
20 いざけたぞ高崎、ジャズマン変格活用
21 連打ジョークと必殺コマ落とし
22 3人寄れば、笑ってカミワザ
23 聖なるやわらぎ大騒ぎ
24 手強し薩摩弁、懐かしドバラダの日々
25 宇宙に飛び出し金メダル
26 226も函館も、30年を越えました
27 ノンストップ・セシル
28 囲碁も従兄もよじれまいおす
29 一度はお断りしてみても
30 ジャズ王国よ、永遠なれ

あとがき

書誌情報

読み仮名 モウロウネコノギャクシュウ
装幀 平野甲賀+新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-343705-5
C-CODE 0095
ジャンル エッセー・随筆、エッセー・随筆
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,408円
電子書籍 配信開始日 2019/06/07

インタビュー/対談/エッセイ

記憶とは不思議なものだ 半世紀ぶりの「再乱入ライブ」

山下洋輔

〈1969年〉という熱い季節、フリージャズを始めたばかりの青年ピアニストがバリケード封鎖中の早稲田大学へ「グガン!!」と殴り込んだ事件があった――

 『村上春樹presents
  2022/7.12
  山下洋輔トリオ
  再乱入ライブ
  TOKYO FM/早稲田大学共催』
 と書かれた大きな立て看板が、早稲田大学構内の大隈記念講堂の階段に出現した。昨年秋に早稲田大学4号館に「村上春樹ライブラリー」が開設されたのだが、同じ4号館で1969年に山下洋輔トリオがジャズ演奏の「乱入ライブ」を行なったことを、村上さんが思い出す。それを50年以上たった今、同じ大学の講堂で再現しようというものなのだ。
 当時の教室乱入演奏も含めて、どういう経緯だったのか、この50年間を思い返して記すことにする。
 50年前、正確に言えば53年前ということになるだろうか、1969年に、ぼくはそれまで自分のやっていたジャズのやり方を「フリージャズ」という方法に変えた。アメリカで実験されていたやり方で、伝統的なジャズのメソッドに課せられていた様々な規則を全て取りはらって、それぞれのプレイヤーが思うままに音を出し、他のプレイヤーはそれに反応して、純粋な意味での「即興演奏」を成り立たせようというものだった。
 そういう演奏を、最初にアメリカのプレイヤー、ピアノのセシル・テイラーやアルトサックスのオーネット・コールマンなどで聴いた時のぼくの反応は「なんだこれは! でたらめではないか!」というもので、こういうものには近寄ってはならないと考えた。当時のぼくは、そう感じざるを得ない「正統派」の道を歩んでいたのだ。先輩たちに教えられる通りにモダンジャズの基礎である「ビバップ奏法」を勉強し「ブルース形式」や「循環形式」を覚えて、そこに出てくる典型的な和音構造、コード進行をマスターした。チャーリー・パーカーの「コンファメーション」を思うように弾けた時にはとてもとても嬉しかったものだ。
 さらにその前の記憶を遡ることにする。
 1960年に高校を卒業した時には、ぼくはもうジャズの演奏ができるプレイヤーになっていた。プロのバンドから声がかかるたびにそのバンドにトラ(エキストラ、正規ではないその日だけの臨時メンバー)で行った。といってもやりたいモダンジャズの演奏ができるわけではなく、仕事場はキャバレー、ダンスホール、小さなクラブなどだった。それでもバンマスがジャズの好きな人だと、客のいない時に好きな曲を演奏できた。それ以外は、お酒やダンスの伴奏の曲ばかりなのだが、その少ない機会や、手に入れていたレコードのコピーを通じて前述したモダンジャズのやり方をマスターしていたというわけだ。その頃に渡辺貞夫さんからセッションバンドへの参加のオファーが来たのは嬉しかった。もっとも参加したのは短期間だったが。そのあとは、ぼくは人に雇われることのない自分自身のグループを持とうと考えた。
 知り合いのドラムやベースと組んでピアノトリオを作り、「枯葉」や「酒とバラの日々」などをやっていた。その少し前のことだが、ギターの高柳昌行さんとベースの金井英人さんが主宰していた「新世紀音楽研究所」というものが週に一度銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を借りて行われるようになり、我々若手にも人前でジャズを演奏できる環境が与えられた。そこで知り合ったのが、のちに生涯の師匠となるジャズ評論家の相倉久人さんだった。
 相倉さんは司会をしながら、我々に様々なことを教えてくれた。現代音楽から前衛美術から社会論まで驚くほどの博識で、その頃現れていた超前衛作曲家のジョン・ケージのことも相倉さんから聞いた。「4分33秒」という曲は、演奏者はその時間の間、何もせずにピアノの前に座りやがて去って良いというものだと知って、これには驚愕したものだ。
 そして、1960年代の最後の年にぼくは演奏の仕方を、近寄ってはいけないはずだった「フリージャズ」に変える。理由は色々あるが、相倉さんの言葉とともに、ぼく自身の病気があった。1967年の晩秋に風邪を患い、それが肺炎になりやがて肺浸潤と診断された。結核に準じた治療をせねばならず、1968年いっぱい一切演奏をできない時間を過ごした。その間文字を書こうと思い、「ブルー・ノート研究」という民族音楽学の論文を仕上げて後に発表したりするが、それはまた別の話だ。
 病気明けの1969年春に、相棒のテナーサックス中村誠一とドラムの森山威男とともにリハーサルを始めた。ベーシストは都合で来られなかった。演奏に対する情熱が溜まりに溜まっていたぼくは、今までのやり方では飽き足らず「皆勝手に思い切ってデタラメをやろう!」と提案した。二人とも面白がってやってくれた。サックスは「シャバドビゲロゲログエーダバドビドビ」、ドラムは「ドバダドバダグシャダバドバラダドバラダ」、ピアノは「ガレロレキャラコログジャグジャドバベシャ」などとやりまくった。これがお互いに通じ合い、「ああ言えばこう言う」の応酬をいくらでも楽しくできることがわかった。
 それまでに聴いてくれていたファンからは「どうなっちゃったんだ」と困惑の声が上がり、先輩ミュージシャンからも「ヨースケ何やってんだ、大丈夫か」などという声が届いた。しかし我々はたじろがず、確信を持ってその演奏を続けていった。短期間のうちに評判となり、当時テレビディレクターだった田原総一朗さんの耳に入った。これが「早稲田事件」の発端だ。
 1960年代のいわゆるアングラな活動をしている興味深い人物を取りあげていた田原さんに、当時、オキテ破りのなんでもありのいわゆるフリージャズを演奏していた我々トリオのことが伝わり、取材するということになったのだ。事前の話し合いで色々突き詰められたぼくは「ピアノを弾きながら死にたい」という言葉を発した。これを聞いた田原さんが「それなら俺が殺してやる」と言ったのだ。
 学生運動が最高潮だった時期であり、田原さんには知り合いの全共闘一派がいた。彼らに早稲田大学内のバリケード封鎖中の教室に大隈講堂にあったピアノを運びこませて、我々のトリオに演奏させようというものだった。聴き手はゲバルト活動中の学生で、田原さんの予想では、演奏など聞かずになんだこれはと言ってぶち壊しに向かうはずだった。火炎瓶が飛ぶなか我々演奏者が逃げ惑う姿を収録しようという計画だったのだが、案に相違して学生たちはしんとして聴き入ってしまった。この様子が今でも映像に残っている。村上春樹さんは当時早稲田大学の学生だったが、この場面を目撃できず残念に思っていたらしい。「伝説」として残ったこともあり、村上ライブラリーが開設された機会に再乱入計画を立ててくれたのだ。
 大隈講堂の「再乱入コンサート」のチケットはすぐに完売した。伝説はよほど強く残っているらしい。ネットでの同時配信もおこなわれた。コンサートの趣旨に沿って当時のままのメンバーによる演奏が要請されたが、これは中村誠一、森山威男共に自分のリーダーバンドで活動を続けているという元気さだったので、当日結集することにまったく問題はなかった。リハーサルをやろうという話も出なかった。集まれば本番のステージで昔通りにできるという確信が我々全員にあったのだ。当日顔を合わせて、あの時やった通りの順番でやろうと話しただけだった。舞踏家の麿赤兒さんが本番の音源をもとに作ってくれたライブアルバム「DANCING 古事記」に収録されている「テーマ」、「木喰」(中村作曲)、そして「ミナのセカンド・テーマ」、「グガン」というレパートリーだった。
 一曲目はピアノが即興でフレーズを弾き出すというものだったが、これがなんの違和感もなく合奏になり「ドカシャバ、シャバドス!!」と盛り上がって無事に終了した。客席から大歓声が湧き上がりホッとした。50年後の聴き手もちゃんと理解してくれているのだ。
 三人での演奏は昔通り汗みずくになってそれがまた快感だった。拳打ちも肘打ちも遠慮なく出した。演奏中に顔にも汗をかき、ぬるぬるになってメガネが動き回った。それを手で外してピアノの中に放り込んだ。よく考えたらこれは50年前にやっていたことだった。あの当時はしょっちゅうそうだったのだ。あれ以降50年間、これは起きなかった。「そうか、こういうことが起きるんだ」と、三人での演奏の凄まじさを再認識した次第だ。
 演奏の後、村上春樹さんとトークをした。終わりに「ピアノソロでアンコールをお願いします」と言われた。最近必ず弾く自作のバラードがある。たまたま今回のライブの直前に村上さんの『ノルウェイの森』を開くと、冒頭に「記憶というのはなんだか不思議なものだ」という言葉があるではないか。偶然にも、そのままのタイトル「Memory is a Funny Thing」がそのバラードの曲名なのだ。さっそく村上ライブラリーで英訳本を確認すると、まさにその言葉通りだった。今回のイベント全体を象徴するようなタイトルの曲を弾いて、この「再乱入ライブ」を締めくくることができたというわけだ。

(やました・ようすけ ジャズピアニスト)
波 2022年9月号より

初めて出会うものに、いまだにワクワクします

山下洋輔

常に第一線を疾走しつづけるジャズピアニスト山下洋輔。海外で日本各地で、オーケストラから人形浄瑠璃まであらゆる表現者と競演、旅と即興を綴る好評連載「猛老猫の逆襲」がいよいよ単行本に。「山下洋輔氏、負傷で休演」の驚愕から2ヵ月、完全復活した山下さんの最初の声をお届けします!(聞き手・本誌編集長)

「ヤマシタ負傷」の激震、その後

 ――復活おめでとうございます。お怪我の按配はいかがですか。
 いやはや、各方面にたくさんのご迷惑ご心配をおかけしました。まったく申し訳ない。老人の一人暮らしの危険、ですね。自宅の階段で足をすべらせてしまいました。電話で来てくれた息子が連絡して緊急入院しました。顔面なども打って全身打撲ということで。

 ――療養中もピアノを弾かれてた?
 退院後は出来るだけ触っています。スポーツ選手と同じでリハビリは欠かせません。痛めた指を動かしたり、全身を整えるため、本にも登場する鍼灸師の竹村文近先生のもとに通って、ビシビシと鍼を打ってもらって。ほら(と顔一面に鍼を打たれたスマホの写真を見せる)。

 ――これは法悦の表情ですか。
 そうですね(笑)。顔面に何十本なので思わず笑ってしまいました。竹村先生に出会って三十年以上ですが、四十歳の頃に演奏を見ていただいて、この勢いのまま六十代まで弾かせてみせる、と宣言してくれました。以来お世話になって、とうとう七十代後半まで来ています(笑)。

 ――そろそろ公演に復帰されるとか。
 はい。休演したコンサートのいくつかは延期にしていただいた分もあり、ありがたいのですが、それらもふくめて、二月から演奏に復帰します。

山下エッセイの原点とは

 ――連載「猛老猫の逆襲」が始まる前、新宿の飲み屋で椎名誠さんとばったり会って、山下さんの話になったんです。
 そうですか。「池林房」が椎名さんの本拠地ですよね。あそこでときどき打ち上げをするんですよ。ある時、ニューヨーク・トリオと座敷で飲んでいたら、椎名さんがヤアヤアよく来たねと合流された。そのときに椎名さんが、最近、あなたの旅ものを読んでいないな、ぜひ書いてほしい、と言われたんですね。そうか、やっぱりおれの原点は旅か、とあらためて考えたんです。

 ――その直後だと思うのですが椎名さんが、山下さんに直接言っといたから頼みにいけと。そしたら翌日、山下洋輔旅日記の企画が別の編集者からあがってきた。何このタイミング、ってすごく驚きました。
 明らかに天の配剤、いや椎名の配剤ですね(笑)。ありがたいことです。

 ――山下さんが文章を書き始めたのは『風雲ジャズ帖』(1975年)の頃からですか。
 その前に、「ブルー・ノート研究」という学術論文の体裁で書いたものが「音楽芸術」に掲載されました(1969年)。民族音楽学を日本に根づかせた小泉文夫先生や徳丸吉彦先生と知り合えて、ジャズ特有の音を民族音楽学的に分析したものです。それが生まれて初めて人前に出した文章です。それを読んだヤマハの「ライトミュージック」誌の編集者が、面白おかしくジャズマンの旅日記が書けないかと言いに来た。当時の山下トリオの森山(威男)、(中村)誠一のやることなど、面白いネタには事欠かないから、できるのではないかと引き受けました。お手本は大ファンだった筒井康隆さんの文章です。「おれ」という一人称になると、すごいスピード感で、面白いこと続出で、最後はハチャメチャになる。これを手本にして始めました。

 ――最近出た文藝別冊『筒井康隆』で、山下さんは筒井さんを「人生のすべて」と書かれています。
 まずはSFマガジンで読んだ「東海道戦争」に打ちのめされた。それがはじまりですね。もともとSFが好きだったけど、クラークやアシモフなど翻訳しかない中で、ついに日本人が登場した。最初は星新一小松左京、実はその前に北杜夫さんも書いていて、あれあれと思っていたのですが、結局、筒井さんで決まり(笑)。SF以外の小説も、以降、ぜんぶ筒井さんです。ぼくがフリージャズになった原因の一つも、筒井作品の自由奔放さに影響されたと言えますね。

 ――個人的な出会いは?
 1967年か1968年。ぼくは音楽評論家・相倉久人さんに1960年代からつきまとっていたのですが、ある日「今小説でいちばん面白いのは筒井康隆だよ」と言う。わが意を得たりです。筒井さんのジャズ好きを聞きつけていた相倉さんが、新宿ピットインが出していた月刊情報誌への原稿依頼をしていた。その原稿とりにいくのにくっついていきました。それが初対面。筒井さんのエッセイによれば、ぼくはジャズマンには見えなかったらしい。サラリーマン風にネクタイをしめていたし……やっぱり1968年かな、病気療養中だった頃です。それで、1969年に演奏を再開したときに見に来てくださって、その時はすっかりドシャメシャ演奏になっていたのですが、それを面白がってくれた。

 ――そしてお付き合いが深まった。
 週に一度、紀伊國屋裏にあった当時のピットインでやっていて、そんなものを聴く人はなかなか集まらない時代に、筒井さんは毎週来てくれた。とても嬉しくて、メンバーとも気があって、演奏後、朝まで飲み歩くという信じられない奇跡の時間を過ごしました。その後、筒井さんの芝居や映画や音楽演奏でも交流が続きました。

ジャズと落語、ジャズと囲碁

 ――「小説新潮」で1981年から始まった「ピアニストを二度笑え」、小林信彦さんが称賛して、この書き出しが素晴らしい、落語の名人の語り出しのようだと。この『猛老猫の逆襲』の冒頭もまさに落語。
 落語は家中が好きで、子どもの頃からラジオで聴いていました。寄席にも行きましたね。イイノホールだったか、ナマの志ん生も文楽も間に合いましたね。つまり、志ん生、文楽、円生、このへんが中心で、若手は談志小三治、志ん朝。そこから後はわかりませんね(笑)。

 ――小沢昭一さんも同じことを。年下のやつの落語は聴く気がしない、と。
 やっぱりねえ。とにかく、年上のとても悪いおじさんが、酒だ、博打だ、吉原だととんでもなく悪いことを教えてくれる。それが落語だと思っていた(笑)。おもしろいフレーズも覚えてしまって、文章の書き出しに困った時には、「するってえとお前さん何かい」と言ってみる。するとそのあとがすらすら出てくるとか。

 ――この本のなかでも志ん生の「黄金餅」の言い立てのようにとか、談志の「寝床」の下げである、番頭が「カムチャッカに逃げる」とか、自然に書かれてますよね。
 あれ、カムチャッカってのは志ん生じゃなかった?

 ――あのシュールな下げを作ったのは志ん生ですが、行った先はドイツで、カムチャッカは談志のアレンジのようです。
 そうですか。さすが(笑)。とにかく「寝床」は志ん生の語りが好きで、旦那のド下手な義太夫に耐えられなくなった番頭が逃げ込んだ蔵の中へ「語り込む」とか、もう筒井宇宙そのもの! エッセイにこのことを書いたら、小林信彦さんが同意してくださったんですよね。
 落語とジャズは、バカバカしさ、ダジャレ好き、ユーモアの精神がどこか通じるんでしょうね。もっと分析的なことを言う人もいましたよ。誰だったかな。

 ――平岡正明さんですか。古典(スタンダード)の解釈をすること、つねに即興(アドリブ)の要素があることとか。
 そうそう。そういえば、ぼくは囲碁がヘタの横好きなんですが、囲碁とジャズにも「即興」という相通じるところがあるとこじつけちゃった。

 ――山下さん、囲碁の腕前は?
 街の碁会所に行って「初段」というのはとっても勇気がいる、という程度。

 ――段をお持ちなら相当では。
 いや、この本にもちょっと書いてるけど、いろいろ偶然が重なって囲碁のプロに知り合いができたり、小林千寿六段にほんの少しお稽古をつけてもらったりしてるだけで。でも、日本棋院から「囲碁大使」をおおせつかったために、名誉五段の免状まで頂戴してしまった。それに実質的な意味はほぼありません(笑)。

 ――十月の名人戦の第四局、井山裕太名人と張栩九段の観戦記を書かれてましたね。
 観戦記なんてものは、無理ですよ。打った手の解説はできませんと最初にお断りしたら、ただただそこにいて見て喜んでいればよいというので、そのようなものを朝日新聞(2018年10月14日付)に寄せました。対局は、見ていておもしろいんですよ。我田引水ですが、二人の棋士がすわるとステージに立ったジャズマンと同じで、自分と相手との応酬が始まる、とか。広い盤の上に石が一個置かれても、それがものすごく大事な石になるのか、捨て石になるのか、まったくわからない。打つたびに、その価値が違ってくる。それが即興演奏によく似ている。というような視点ですね。

ずっと旅していたい

 ――久しぶりの旅ものは、お書きになってみていかがでしたか?
 後で読むと、なんて忙しい奴だ、とあきれますが(笑)、書いていて楽しかったですね。ご先祖探訪や猫ものやJAZZ講座など何でも入れちゃえるんですね。それには、旅日記というスタイルが一番合っているかもしれないな。次から次へと渡り歩きながら、目にするもの経験するもの面白いと思ったものを、リズム感にまかせて書く。普通こうは書かないだろうなということもちらりと意識しつつ、おれならではのフレーズでやってしまう。音楽と同じ快感ですね。ウィーンで偉大な人たちの名前を踏みつけた呪いで靴底がはがれて裸足のペタペタ歩き、ペタ足になっちゃったというくだりもね(笑)、あれはぜひ書きたかったですよ。

 ――あいかわらず旅は多いですよね。
 そうですね。ほんとに忙しいというか、めまぐるしい。ぼくの旅は次から次へと事件が起こって、アタフタするというのがテーマみたいで。

 ――よく出てくるのが「忘れ物」話。
 ありますねえ、荷物問題はつねに。手に持ったものが忘れ物になる、これは大ネタですね。とくにすごいものを忘れるとたいへん苦労しますが、半分しめしめと思ったりして(笑)。

 ――2018年はニューヨーク・トリオ結成三十周年、この大ネタをなんで書かれなかったんですか。
 そこも忘れ物でしたね。でも時期的に無理だったので、あとがきに無理矢理入れました。その苦労話もごらんください。

 ――山下さんは即興のイメージですが、案外譜面通りの演奏も多いんですね。
 こんどのミャンマーとウィーンもそうですけど、オケと合わせる機会がだんだん増えてきたからかもしれません。そういう場合は、臆病なのでせっせと練習します。佐渡裕さんが、こいつはよく練習すると褒めてくれるのは、そのせいなんですよ。オケと合わせられないと、迷惑かけますから。

 ――昔、オケと共演した時にコンサートマスターにそっぽ向かれたというエピソードがありませんでしたっけ。
 ありましたね。テレビ番組で、交響曲「運命」にピアノアドリブで乱入するというもので、プロデューサーや指揮の山本直純さんは面白がっていたかもしれないけど、現場の反発は思った以上だった。コンマスはオケ全員の意志を体現しなければならないから、みんなが怒っているのに、ひとりだけニコニコしているわけにはいかない。それで、演奏終了後、握手を求めたら、女性コンマスでしたけど、拒否してそっぽを向かれた(笑)。あれには一瞬参りましたけど、当然だよなという気持はぼくのなかにありました。そういう見世物ですからね。きちんと筋をとおして拒否してくれた。
 でも誰とやっても、何をやっても、たとえ失敗してもそれがぼくには面白いんですよ。初めて出会うものに、いまだにワクワクします。

(やました・ようすけ ピアニスト、作曲家、エッセイスト)
波 2019年3月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

山下洋輔

ヤマシタ・ヨウスケ

1942年東京生まれ。ジャズピアニスト、作曲家、エッセイスト。国立音楽大学卒。1969年、山下洋輔トリオ結成、フリー・フォーム演奏でジャズ界に大きな衝撃を与える。1988年、山下洋輔ニューヨーク・トリオを結成、世界各国で演奏活動を展開する。1999年芸術選奨文部大臣賞、2003年紫綬褒章、2012年旭日小綬章を受章。国立音楽大学招聘教授。演奏活動のかたわら、エッセイストとしても知られる。著書に『風雲ジャズ帖』『ドバラダ門』、『ジャズの証言』(相倉久人との共著)など多数。

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