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ツユクサナツコの一生

益田ミリ/著

1,980円(税込)

発売日:2023/06/29

  • 書籍

期待もせんと絶望もせんと、それでも人は生きていける――。予期せぬ展開に心揺さぶられる、著者史上最長編の感動作!

マスク生活2度目の春を過ごす、32歳・漫画家志望のナツコ。社会の不平等にモヤモヤし、誰かの何気ない一言で考えをめぐらせ、ナツコは「いま」を漫画に描く。描くことで、世界と、誰かと、自分と向き合えるから。“わかり合える”って、どうしてこんなに嬉しいんだろう――。自分の「好き」を大切に生きる、「あなた」に贈る物語。

目次
第1話 ガムマシーン
第2話 キャンプ
第3話 フルーツサンドイッチ
第4話 盆栽
第5話 カキ氷
第6話 レコード
第7話 マトリョーシカ
第8話 コーヒー
第9話 ケーキ
第10話 おせち
第11話 手ぶくろ
第12話 オルゴール
第13話 えんぴつけずり
第14話 プリン・ア・ラ・モード
第15話 タンバリン
第16話 まねき猫
第17話 アイスクリーム
第18話 財布
第19話 望遠鏡
第20話 ドーナツ
最終話 胡桃

書誌情報

読み仮名 ツユクサナツコノイッショウ
装幀 益田ミリ/装画、池田デザイン室/装丁
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 A5判変型
頁数 272ページ
ISBN 978-4-10-351982-9
C-CODE 0079
ジャンル コミック
定価 1,980円

書評

新しい実感のその向こう

津村記久子

 社会の安定は脆く、平和は失われる時は一瞬で、一度失われたら取り戻せるか取り戻せないかすら危ういものだ、ということを思い知らされた2020年からの三年間だったと思う。ずっと何か、人間の好き勝手な消費に倦んだもの、これまでの世界観が通用しなくなったものの断末魔の声を聞いているような気がする。それらには自分も部分的に加担している。なんでそんなわけのわからないものの後始末を、この世に生きる普通の誰かが犠牲になってやらなければならないのか、という怒りがずっとある。
 世界は本当は平和なんかではなかった。『ツユクサナツコの一生』は、それを思い知った後でも日常を生きていく自分たちの実感が描かれた作品だと思う。決して深刻ぶることはなく、他人の目を意識して感情を高ぶらせることもなく、わたしたちが本当に感じることが、適切な感情のレベルで描かれている。
 お母さんが亡くなり、姉も家庭ができたので、お父さんと二人暮らしのナツコが、お父さんのためにワクチンの予約を取ろうとする。けれども、スマホと固定電話から二時間かけてもつながらず、ナツコは「今日で再ダイヤルのボタン壊れるわマジで!!」と怒る場面は笑ってしまう。そうだそうだ、こんなだったのだ。ワクチンを打つことから何かを学んだわけでも、ましてや楽しかったわけでもないけれども、集団接種がいいのかとかクリニックがいいのかとか、この曜日や時間帯がいいのにどうしても空きがないとか、無料のPCR検査はほんのちょっとでも体調が悪い様子を見せたら追い返されるから、ちょっとした咳でも出さないように我慢してすごく緊張したとか、そんな些細なことで一喜一憂していた。
 嘆きすぎないし開き直りもしない「普通」の反応を、ナツコたちが共有してくれることにほっとしたのだった。くそみたいな日常を押し付けられて怒ったり悲しんだりして疲れている時に「自分もこんなんよ」と言ってもらって気持ちが軽くなったような気がする。この数年、感染拡大に関して、嘆きも怒りも諦めも山のように聞いた。でも自分が必要としていたのは、ナツコとお父さんのように「この日常が来てしまった」ことを淡々と乗り越える誰かの新しい実感だったのではないか。
 同じ職場で同じようにアルバイトをしていた女の子がやめていく時に、ナツコが車道越しに「わたしーっ マスクとったらこんな顔やからーっ」と呼びかける場面も印象的だ。これも、ある場所でのアルバイト期間がすっぽり収まってしまうぐらいに長い感染拡大の時間の中でこそ起こることだろう。こういうことがあったからコロナだってあってよかったよねみたいな屁みたいなことを言いたいんじゃなくて、あんなバカみたいな状況でも交換される個人の正直な想いはあって、そのこと自体には価値があるのだと言いたい。
 ナツコはインスタグラムにマンガを投稿している。ナツコの思ったこと、経験したことと、マンガの登場人物が立ち会う状況や発言などがリンクしていることがとても実験的で楽しい。作中でナツコは、出版社の編集者にウェブでマンガを描かないかと打診され、「動物が主人公でほっこりする漫画」をリクエストされるのだが、おじさんと猫が入れ替わる〈パロの1日〉も、猫が人間ならぬニャンゲンになる〈吾輩は……〉もすごくおもしろい。特に後者の〈吾輩は……〉のニャンゲンが、はからずも現金を手にして「部屋を手に入れ ヨギボーも手に入れ」、週休3日の会社に入ってソロキャンプをしたりという、「今の人間」の欲求を体現してしまうシュールさには笑ってしまった。ナツコの作品を通して、自分が知らなかったミリさんの作風を見せてもらえたような気がして、驚いたりもした。
 そしてそのニャンゲンは、人間ではないので寿命が短かったりもする。母親の死、感染拡大による死、ウクライナでの死と、本書が描く日常の実感の中には、多数の死が含まれている。本当は平和なんかではなかった世界が、どれだけの人間の、どのような人間の人生を奪ったかということと、本書は厳粛に向き合う。本書が描くいくつかの死は、感染拡大に関連すると明言はされないのだが、ウイルスも戦火もおさまらない中で、単なる数になってゆく「死」が、いったいどういう中身を持っていたのかということを象徴的に描き出すことに成功している。
 わたしたちが何を失ったのか、何を失っているのか。本書はそのことを、抽象的な説明や感情の暴走の描写に頼らず、読者に体感させる。一方で、ナツコの分身と言えるマンガの中の登場人物である春子の「自分が好きや思うことは、一生、死ぬまで自分だけのもんや」というモノローグは力強い。
 この三年の世界の動きに疲弊している人は、ナツコに出会ってみて欲しい。誰にも説明できない、でも確実に自分が失ってきた何かの存在を、ナツコと作者のミリさんだけは理解してくれるときっと思えるだろう。

(つむら・きくこ 作家)
波 2023年7月号より
単行本刊行時掲載

赤江珠緒さんナレーション、刊行記念特別動画!

著者プロフィール

益田ミリ

マスダ・ミリ

1969年大阪生まれ。イラストレーター。主な著書に、漫画『マリコ、うまくいくよ』(新潮社)、『すーちゃん』(幻冬舎)、『僕の姉ちゃん』(マガジンハウス)、『沢村さん家のこんな毎日』(文藝春秋)、『こはる日記』(KADOKAWA)、『お茶の時間』(講談社)、『泣き虫チエ子さん』(集英社)他、エッセイ『東京あたふた族』(ミシマ社)、『小さいわたし』(ポプラ社)、『永遠のおでかけ』(毎日新聞出版)、『大阪人の胸のうち』(光文社)『小さいコトが気になります』(筑摩書房)他、絵本に『はやくはやくっていわないで』(ミシマ社、絵・平澤一平)などがある。

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