夜間飛行
1,760円(税込)
発売日:2019/02/22
- 書籍
- 電子書籍あり
銀座の夜はこの女のためにあった――昭和ノスタルジー溢れる長編小説!
昭和四十年代の東京に花開いた文壇バー。その拠点たる銀座で、文士たちの両眼を虜にし、「最後の女給」と謳われた女。九州の料亭の娘に生れ、美貌ゆえに数奇な運命を強いられたその短くもパワフルな生涯を、姪の眼から辿った長編小説。銀座が不夜城を誇り、地方が活力に満ちていた昭和を、ノスタルジーたっぷりに再現する。
第二章 茶色の小瓶
第三章 逃亡
第四章 ゆき子
第五章 武勇伝
第六章 銀座姫
第七章 岬への凱旋
第八章 恋
第九章 ムーンライト飛行
書誌情報
読み仮名 | ヤカンヒコウ |
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装幀 | 新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 240ページ |
ISBN | 978-4-10-352291-1 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 1,760円 |
電子書籍 価格 | 1,760円 |
電子書籍 配信開始日 | 2019/08/02 |
書評
郷愁だけではない語りの魅力
舞台のひとつとなる福岡県西部の言葉が耳から離れない。「よお覚えとらっしゃあ」「やっぱあ、きれいかねえ」「しょんなかたい」。主人公・増澤裕子の家族や幼馴染み、実家の料亭「富貴楼」に出入りする人々の口をつく文字が音となって、私たちにその土地の匂いや人の体温までも運んでくる。故郷の言葉は幼少期の裕子を優しく包み込むものであったと同時に、成人となった際にはその身を束縛する忌み嫌う響きもあった。
夫の園井昭夫は名うての女たらしだった。彼の誘いに、勝気で自信に満ちた裕子は乗ってしまい、家族の反対を押し切って結婚するが、野卑で嫉妬深く、働こうともしなくなった昭夫の暴力に苛まれていく。自分のなかにあった一縷の尊厳までもが奪われそうになった時、裕子は生まれたばかりの娘、真奈を置いて故郷を逃げるように去った。行方の知れない放浪に出た裕子は、ひどい乳腺炎や空腹に苦しむなかプロテスタント教会で命を救われるものの、そこも自分の居場所ではないとあえて過酷な労働に身を投じる。
転がり込んだのは関西のとある料亭旅館だった。そこでは多くの訳ありの仲居が働いており、食事は立ったまま済ませるのが当たり前。裕子は初めて冷や飯に味噌汁をかけて掻きこむ「猫飯」も経験する。そして同僚との諍いなどを通して誰にも頼らない強い女性になっていく。
なぜ裕福な家庭に生まれ育った彼女がそうした日々を乗り越えられたのかといえば、「うちが幸せやらになりませんように」という頑なまでの思いを抱いていたからだ。その言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきたことが、後に東京・銀座の高級クラブ〈姫〉の看板ホステス(裕子はその言葉を使わず、最後まで自分を「女給」と呼んでいた)にまで上り詰める原動力になったのだと思う。
〈姫〉のオーナーは、後に立て続けにヒット曲を書く作詞家・山口洋子である。そこに出入りするのは王貞治や長嶋茂雄、勝新太郎や田宮二郎、里見とん、大佛次郎、川端康成など、プロ野球選手、大物俳優、そして文豪たち。洋子をして「〈姫〉を看板に戦う私の同志」といわしめる裕子は、各界の著名人が集まるその場においても臆することなく、それまでの人生で否応なしに身につけた矜持をもって接客していたのだろう。多くの男性に口説かれても、ときにぴしゃりと断り、ときにやんわりとかわしていた。
ところが落とし穴は意外なところにあった。あれだけの強さをもった彼女がどうしてそこで命を落としてしまうのか――疑問に感じる向きも多いだろうが、故郷での夫・昭夫との馴れ初めを思い出せば、これまで心の鎧で隠していた裕子のさがのようなものがこぼれ出てしまったのかもしれない。
脇を固める登場人物たちも生き生きしている。裕子の兄、武之は口よりも手が先に出るような直情的な男だが、なんとか妹を故郷に戻らせようと、裕子がいるという情報を聞きつけるたびに福岡から関西へと身を運ぶ。ガセネタで繰り返し騙されてもあきらめず、ついには大阪・北新地で再会を果たし、一緒に帰郷する約束をするものの、妹は彼の前からするりと消えてしまう。この物語の最後に妹の遺骨を膝の上にしてつぶやく武之の言葉は、彼の裕子への心情をもっとも率直に表しているのではないか。彼女が故郷に「凱旋」したのは、あっけなく自ら命を絶った後であった。
裕子と同じ時代を生きた読者であれば、「ビートルズがタラップを降りて来た翌年には、青白い顔にソバカスを散らしたツイッギーがやって来た」という一文から、日本が高度成長期をひた走っていた頃を思い起こし、郷愁を誘われるだろう。後から生まれてきた世代にとっては、この物語があの時代に生きた人々の歴史の証言のように読めるかもしれない。
それを支えているのが本書の語り部である裕子の姪の梢、すなわち著者・北迫薫による筆遣いだ。叔母の記憶がほとんどない著者は、当時を記録する文献を渉猟し、裕子の短くも波乱に満ちた人生を再現するよう努めた。それが登場人物の吐息までも伝わってくる作品に結実したわけだが、登場人物たちとの距離感は適度に保たれており、ノスタルジーを喚起するだけではない本書の魅力となっている。
(ほうち・たかゆき ノンフィクション作家)
波 2019年3月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
北迫薫
キタサコ・カオル
1954年、福岡県生まれ。武蔵野美術短期大学生活デザイン専攻科にて田村義也氏に師事。『夜間飛行』は処女作である。合気道五段。