
受け手のいない祈り
2,090円(税込)
発売日:2025/03/26
- 書籍
- 電子書籍あり
他人の命のため、自らの命を削る。過酷な救命の現場を描く、魂の衝撃作。
感染症の拡大を背景に周囲の病院の救急態勢が崩壊する中、青年医師・公河が働く病院は「誰の命も見捨てない」を院是に患者を受け入れ続ける。長時間の連続勤務による極度の疲労で、死と狂気が常に隣り合わせの日々。我々の命だけは見捨てられるのか──芥川賞受賞の気鋭が医師としての経験を元に描いた、受賞後初の単行本。
書誌情報
読み仮名 | ウケテノイナイイノリ |
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装幀 | 新潮社写真部(青木登)/カバー撮影、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 240ページ |
ISBN | 978-4-10-355732-6 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 2,090円 |
電子書籍 価格 | 2,090円 |
電子書籍 配信開始日 | 2025/03/26 |
書評
ある現実の受け手から
「受け手のいない祈り」が雑誌に初めて掲載され、読んだ時の衝撃は、個人的につけている日記に記録がある。同時代に活動する著者の渾身の作に深い敬意を抱いた上で、「これがある限り『東京都同情塔』が受賞する未来は消えたが、私には運命を受け入れる強さがある」と、健気に自分を慰めることでその日記は締めくくられている。本作は、華やかな冠を与えられた著者の他の作品と並べても出色のできばえであり、この数年に発表された新人の手によるすべての純文学の中でも、抜きん出た一作だった。であれば必然的に、芥川賞を受賞するに違いないのだった。そもそも本作は競争など受け付けないずっと遠く高い場所で、一等星として発熱していたが、それにしても賞のネームバリューや公共性を最大限に活用し、タイトルに反して「受け手のいっぱいいる祈り」となるべき小説だろうと思われた。
運命を受け入れてから少し経ち、候補作が正式に発表された頃、新宿のバーで田中慎弥さんと話す機会があった。田中さんは、かの有名な不機嫌顔で「九段さんの前で失礼かもしれないけれど、どうして今期の芥川賞の候補に朝比奈秋が入っていないんだ」とおっしゃった。
「失礼かも」との前置きから察するに、もちろん言外に含む意図とはこうだ。「今回は朝比奈秋が獲って当然、君ではなく」
おっしゃる通りですね。当時はそう力なく同調するしかなかったのだが、すでに完成されていた初出時から、さらに一年以上をかけて大幅な改稿が施され、満を持して単行本化されることになった今、田中さんの「どうして」にやっと自信を持って答えられる――それは私たちが、より完全な形で、この小説の受け手となるためです、と。
物語の舞台は、コロナ禍による人員不足が原因で救急医療からの撤退が相次ぎ、地域唯一となった救急病院。初代院長が掲げた高邁な院是「誰の命も見捨てない」に従い、患者を無差別に受け入れ、ブラック企業ならぬブラック病院と化している。語り手の外科医・公河は、「命は本当に一番大事なのだろうか」という疑問を拭えぬまま、解熱剤が効かない奇妙な微熱を背骨にまとわりつかせ、不眠不休の労働を強いられている。
冒頭、大学同期の産科医の過労死を電話越しに知らされるが、死者への哀悼よりも先に意識に上るのは、「ああいう風には死にたくない」という嫌悪感と、いくら腹に詰め込んでもとめどなく溢れる食欲だ。電話中、「霊感のない自分が人生で初めて」死んだ人間の顔を目にしても、「身体をもたないものができることなど知れている」と、非現実的な現象を淡々と受け流している。一方、唯一患者と「縁切り」できる地域の中心街を歩く健康な生者たちは、「病人以前の病人」に見える。天体の運行に連動した生物の本能的なリズムに逆らい、連日の労働を繰り返すうちに、時間感覚や食欲のサイクルが狂い、昨日と今日、夢と現実、知人と他人、健康と病気、生体と遺体の境界までも見失うと同時に、あらゆる二元性を獲得した状態になっている。
読みながら思い出されるのは、ガルシア=マルケス『百年の孤独』に代表されるマジックリアリズムの手法である。精緻な細部の描写によって幻想的な要素を違和感なく日常に取り込み、読者に現実の再評価を促す効果があるとされるが、ただ本作はそうしたテクニックが意識的に採用されているわけではない。背骨を立て続けた極限の肉体と精神に起きることを、どこまでも正確に観察し、具体的に追究した結果、この書き方にならざるを得なかったのだろう。そして、現実を超越した魔術的な手触りを成立させているのが、現実の社会の歪みであり、現実の私たちの選択の結果である事実をこのように指摘する。
「(ブラック企業の過労死が世間で大きく取り沙汰されることについて)売り上げのために人命が犠牲になったことが問題で、医者の過労死はこれには当たらなかった。医者不足の地域で医者が死ぬまで働いて、多数の住民の命が救われるのだから、命の差し引きは大きくプラスで、社会にとってはコスパが良かった。ドキュメンタリー番組で、寝ずに働くことが医者の場合だけ美徳として放送されるのは、医者以外の、あらゆる人間の望みの現れだった」
受け手のいなかった「祈り」は、何かの因果によって物語に姿を変えた。それを投げ入れる先に、他でもない小説という器が選ばれたことが誇らしく、勇気づけられる思いがする。あからさまに本の宣伝になる書評はなるべく書きたくない主義だが、しかしこの小説の受け手は一人でも増やさなければならないと思う。著者のためでも、ましてや日本文学の振興のためでもなく、今も私たちが悪夢の淵に追いやっている、ただその人のために。
(くだん・りえ 作家)
波 2025年4月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ

消化器内科医兼小説家の二刀流対談
『サンショウウオの四十九日』で芥川賞を受賞し、新刊『受け手のいない祈り』が話題の朝比奈秋さんと、デビュー作『禁忌の子』が今年の本屋大賞で第4位に選ばれ人気の山口未桜さん。医師としての専門が同じという作家二人の対談をお届けします。
山口 『受け手のいない祈り』を拝読しました。医者としての過酷な労働が大変なリアリティをもって描かれていました。朝比奈さんと同じく私も医者ですが、その立場で読んでも傑作で、逆に、ここまで書かれるのはとても勇気が必要だったのではないかと思いました。
朝比奈 医師免許はまだ持っていますし、たまに病院で働いていますが、医者としてというより、人間として書きました。
山口 その距離感があったから書けたのでしょうね。医者として一番しんどい時だったら書けない。
朝比奈 当時は目の前の患者の治療と、五分でも時間があれば寝たいということしか考えられませんでした。十数年経って、ようやく書けました。
山口 患者さんを救うという熱い気持ちを、あれだけ過酷な労働の中でも持ち続けられる……。
朝比奈 目の前に死にそうな患者がいたら、自分が死なない限りは逃げられない。そのことの積み重ねで、医者は過労死に至るんだと思います。
山口 その限界が捉えられていると思いました。
朝比奈 今の僕はもう出涸らしです(笑)。あの過酷な日々の中で全部出し尽くしてしまいました。国家試験の勉強と同じで、一回きりだから出来た。
山口 またやれと言われてもやりたくないです。
朝比奈 ちなみに、小説に書いたような月の残業が三百時間を超えるような医者はほとんどいませんから、ほんのごく一部です。
山口 今は多くて百時間くらいですかね……でも、当直を時間外に含めない病院もありますよね。
朝比奈 (笑)。今日来られた皆さんも、この小説を読まれたからって、夜間救急にかかるのは止めようなんて思わなくていいですよ。僕も具合が悪くなったらすぐに病院行きますから。
忙しさからの思い付き?
朝比奈 僕は小説をほとんど読んでこなくて、ミステリーを読むのは『禁忌の子』(東京創元社刊)が数十年ぶりでした。実家に置いてあった赤川次郎さんやアガサ・クリスティーの小説を中学生の頃に読んだことがあったくらいで。
『禁忌の子』は単なる謎解きや悲劇に終わらず、人間ドラマとして包容力が感じられ、とても面白かったです。
山口 ありがとうございます。
朝比奈 山口さんは生殖医療が専門ではないですよね。でもああいう……どういえばいいのかな。
山口 ……ネタバレにならないように話すのって大変ですよね(笑)。
朝比奈 専門ではないけれど、興味はあったのですか。
山口 死体のルーツを辿る過程で自分のルーツと向き合う物語にしたくて、医学的な裏付けを入れながら物語を考えていたところ、ミステリとしての根幹のアイデアを午前四時、娘が夜泣きした瞬間に思い付き、一気に初稿を書き上げました。その初稿を、社会的なことや倫理的なことなどを勉強して、一年くらいかけて内容を深めていった感じです。
朝比奈 医者の仕事をしながら娘さんも育てて、そういう大変な状況だと思い付くのかもしれませんね。
山口 でも、そういう思い付きって今後何回もあるのかどうか。
朝比奈 どんどんあると思いますよ。僕なんか、医者として働きすぎて燃えつきたあたりから、頭がパカッと開くような状態になって、もううんざりするくらい物語が入ってくる。百三十くらい、家のPCのデスクトップを埋め尽くしています。どう頑張っても生きてるうちに書ききれません。だから今回の小説みたいに、書いているうちに死ぬんやろうな(笑)。好きで書いてるわけでなく、書かないと仕方ないから書いている。代わりに誰か書いてくれないかなって思います。山口さんいかがですか?
山口 検討させてください(笑)。
朝比奈 印税率の相談を……(笑)。
でも僕の話、他人事として皆さん聞いていると思いますけど、何かのきっかけで抱えきれないストレスに襲われて自分が破裂して、僕みたいに物語に取りつかれる人間になるかもしれません。気を付けてください(笑)。
ずっと書き続けるには
朝比奈 山口さんは、高校のころから小説を書かれていたのですよね。でも医者になるためにしばらく小説から離れていたと聞きましたが。
山口 はい、小説家は諦めて消化器内科医になったのですが、コロナ禍と出産が重なり、医師としての研究に携われなくなって。それで十六年ぶりに小説を書こうって思いました。
朝比奈 『禁忌の子』が一作目ですか。
山口 『禁忌の子』にも出てくる立花という女医を主人公にした連作短編を最初に書きました。長編はこれが初めてです。
朝比奈 去年デビューされて、変化はありましたか。
山口 執筆については、やることは一緒なので……。
朝比奈 地味な作業ですし(笑)。でも、医者と育児だけでも大変なのに小説も書くとは、相当な体力をお持ちではないかと。
山口 ないほうではないと思います。それに、朝比奈さんがおっしゃるような物語にとりつかれるというのはわかる気がします。
朝比奈 僕のように、頭がパカッて開けば、一生書き続けられますよ。
山口 オファーがあれば……(笑)。
朝比奈 いま山口さんにはたくさん依頼が来ていると思いますが、これから医者の仕事はどうするんですか?
山口 そこは悩んでいますね。常勤医として続けていくかどうか……。
朝比奈 僕は常勤医を辞めて、月に数回病院で働くだけなので、医者という感覚はもうないです。医者になったのも、命とは、人間とは、と子供の頃から考え続けてきて、医学部に行けばいいんじゃないかと思ったからです。でも、医学は自分の疑問に答えてくれなかった。ああ間違えたと思いましたが、哲学科に入り直すのも違うと思ったので、だらだらと医者になったという感じです。
僕も山口さんと同じ消化器内科が専門なのですが、子供の頃はテレビゲームばっかりしてたので手先は器用で、内視鏡なら画面を見ながら動かすから、ぴったりやなって。ちなみに、小説にも書きましたが、外科の手術にも携わったことがあるんです。でもチームプレイができないことに気づいた(笑)。すぐにイラッとしてしまう。内視鏡は一人でできますから。
医師志望の理由さまざま
朝比奈 山口さんはなぜ医学部に進んだのですか?
山口 親に勧められたからです(笑)。消化器内科というのも、女医が内視鏡ができたら女性の患者さんに喜ばれるのではと親に勧められたからでして。でもやってみたら、ERCP(総胆管や膵臓での内視鏡の手技)がすごく楽しくて。
朝比奈 すごく狭い場所に、とても細い管を入れるんですよね。
山口 マニアックな手術です(笑)。私、覚えが悪くて手先も器用じゃないんですけど、一度覚えたら忘れないタイプなんです。
朝比奈 スロースターターなんですかね。ちなみに、親の敷いたレールに乗ってきたのに、作家になっちゃったことについて、ご両親はなんと?
山口 まあ、よかったね、と。
朝比奈 あまり喜んでいないような(笑)。
山口 でも、親との関係はよくなりました。わだかまりがなくなったというか。医者になったものの、胆膵という開業には向いていない分野を選んだのは、もしかしたら親への反発もあったのかもしれない。
朝比奈 医者としてちゃんと仕事をして、作家としても成功しているんだから、親孝行な娘ですよ。
山口 親からは「置かれた場所で咲きなさい」と言われ続けました(笑)。
医師だから書ける/書けない
朝比奈 山口さんの一日はパンパンに詰まっているんじゃないですか。
山口 朝は七時に起きて、保育園に子供を送ってから職場に行って八時四十五分に始業、午後六時くらいまでが仕事、それから子供を迎えに行って、買い物して家事をして子供を寝かせたら十時くらい。それから私たちのご飯を作って主人と食事して、十一時から二時くらいまでが執筆です。
朝比奈 平日の睡眠時間は五時間くらいですか、はあぁ……。僕は毎日死ぬほど寝てます(笑)。十時間くらい寝てさらに昼寝することもあります。
山口 『祈り』の頃には寝られなかったでしょうから……。
朝比奈 十数年前の睡眠を取り戻しているんでしょうね。でも、そんな生活……育児はやめられないとしても、常勤医だったり小説だったりは、もうやめようと思ったりしません?
山口 それは……。
朝比奈 ちょっと思い始めてる?(笑)
山口 書くことが呪いみたいな感じになってるかも。
朝比奈 そのスケジュールで、それこそ五年続けるのは大変ですよ。
山口 かつての朝比奈さんほどではないですけど。
朝比奈 心配になります。
山口 産業医の面談を受けているみたいです(笑)。
朝比奈 それに、医者である以上、医療倫理から逃れられないですよね。僕はもう医者だと思ってないから、それこそ小説で「患者が生きようが死のうがどうでもいい」とか書けますけど。
山口 患者さんに読まれることを考えますし、現役の勤務医なので、誰かを傷つけてはいけないっていつも考えます。『禁忌の子』も、非常にセンシティブなテーマなので、丁寧に積み上げて書きました。
朝比奈 例えば、手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」では、医者としての正しさはどうでもよくて。でも命自体に対しては誠実で、魂について深く描いているところは共感できます。
山口 私も「ブラック・ジャック」好きで、他にも最近だと「まどか26歳、研修医やってます!」のドラマが、すごくよくできているということで、医療関係者の評判がいいですね。
ちなみに、『受け手のいない祈り』の医者同士の会話というのがすごく私には響いて、最初にも言いましたが、医者の世界から距離を置いているからかなと思いました。
朝比奈 医者として守るものがないのでしょうね。
山口 NGゼロみたいな。
※編集部注:この対談は2025年4月5日に開かれたトークイベント(紀伊國屋書店横浜店主催)の内容を再構成したものです。
(やまぐち・みお 小説家・医師)
(あさひな・あき 小説家・医師)
波 2025年6月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
朝比奈秋
アサヒナ・アキ
1981年京都府生まれ。医師として勤務しながら小説を執筆し、2021年、「塩の道」で第7回林芙美子文学賞を受賞しデビュー。2023年、『植物少女』で第36回三島由紀夫賞を受賞。同年、『あなたの燃える左手で』で第51回泉鏡花文学賞と第45回野間文芸新人賞を受賞。2024年、「サンショウウオの四十九日」で第171回芥川龍之介賞を受賞。他の作品に『私の盲端』など。