
高畑勲と「火垂るの墓」─「幻の脚本」と「7冊の構想ノート」を読み解く─
1,980円(税込)
発売日:2026/06/24
- 書籍
- 電子書籍あり
「二度と観たくない傑作」はこうして生まれた。
幽霊の清太、幾度も登場するドロップ缶、節子を笑顔にした蛍のまばゆい光。映画オリジナルの「仕掛け」と制作秘話から、巨匠が遺した想いに迫る。「これは反戦映画ではありません」──高畑勲監督は生前なぜこう言い続けたのか? NHKディレクターが世界的ヒットとなった映画を丹念に取材した、心揺さぶるドキュメント。
はじめに
1章 自宅に遺されていた構想ノート
三ノ宮駅の太い丸柱/「ノートが6冊発見されました」/「全然『戦後』ではないですよね」/家族も知らなかった構想ノート/「これは心中ものだって」/「あのつらい戦争はもうないんだ。しないんだ」/亡くなる3年前の岡山市での講演
2章 ノート4冊目に記された「幽霊の清太」
国宝のように運ばれてきたノート/原作の拡大コピー/「こんなに頭のいい人が世の中にいるのか」/7冊のノートの順番/【ノート1冊目】/【ノート2冊目あるいは3冊目】/【ノート3冊目あるいは2冊目】/【ノート4冊目】/最大の発明/【ノート5冊目】/【ノート6冊目】
3章 高畑さんが「一番悩んでいたのは」
同時公開を仕掛けたプロデューサー/「何回も同じことは言わないよ」/公開から37年後に描いた「節子」/【ノート7冊目】の「みつめる清太の(F)」/「恐ろしい映画なのだと思う」
4章 「幻の脚本」
7冊と一緒に発見された/「間違いなく親父の字です」/吾作という名前があった「農家の男」/「西宮のおばさん」の違い/自責の念に苦しみ続ける清太
5章 戦後40年経ってのアニメーション映画化
社員の給料袋にチケットを/「忘れものを、届けにきました。」/スタッフが給湯室でシャンプー/「あの人たちこんな仕事してたんだ」/庵野秀明監督が描いた重巡洋艦/「傍観者」として描いたB29/経験値の違い/「死んだ清太が描けない」/「公開に間に合わなくていいんですよ」/火垂るはぜんぶが日常/上手く描けなかった「雑炊」/実物の焼夷弾を買ってきた/「顔を照らすほどの明るさにはならない」/ドロップ缶から転がった骨の「音」/「君たちは何を残すんですか」/焼け野原を表現するアニメーション/〔トトロ〕〔火垂る〕を同時担当した編集マン/机の周りに山になっていた薬/幽霊は高畑さんのやさしさ
6章 高畑監督も「清太」だった
故郷・岡山市で語った戦争体験/高畑さん9歳、姉11歳で/突然失神した五十鈴さん/勲さんは「命の恩人」/下駄がカタピン、カタピンいいながら/「こんなに生やさしくなかったね、と」/人々が住むエリアを焼き払う計画
7章 土壇場でカットされた10分間と、線画で公開された3つのシーン
カットされた「10分間」/絵コンテの「欠番一覧」/1週間で書き加えられた3シーン/清太の無邪気な表情/一部線画で公開された/「うまくいくに決まっていると思っていた」/見つかったフィルム/「現実と風が吹き通うものに」
8章 ドキュメンタリー取材を受けない3つの理由
密着取材は、極めて難しい/「そういう物語を撮りたいんでしょう?」/弁証法の人/2年半の撮影で/対話は続いた
おわりに──「これは反戦映画ではない」高畑さんが遺した問いかけ
書誌情報
| 読み仮名 | タカハタイサオトホタルノハカマボロシノキャクホントナナサツノコウソウノートヲヨミトク |
|---|---|
| 装幀 | アニメ映画『火垂るの墓』より (C)野坂昭如/カバー画像、新潮社,1988/カバー画像、新潮社装幀室/装幀 |
| 発行形態 | 書籍、電子書籍 |
| 判型 | 四六判 |
| 頁数 | 224ページ |
| ISBN | 978-4-10-357081-3 |
| C-CODE | 0095 |
| ジャンル | 文学・評論、ノンフィクション |
| 定価 | 1,980円 |
| 電子書籍 価格 | 1,980円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2026/06/24 |
書評
「難攻不落」高畑勲の創作に、新発見で挑む
今となってはそれ以外の完成図など想像することすら難しいほど、決定的な「正解」を叩き出しているように見える、歴史的傑作たち。しかし実際には当然のことながら、そこにたどり着くまでには、作り手たちが時に悩みながら下した無数の判断と、いくつかの奇跡的幸運の、積み重ねがある。つまりその作品が、我々がいま知るかたちとはまるで違ったものになっていた可能性も、実は大いにあったのだ……!
そんな危うい綱渡りが、最終的には誰もが認める成功へと繫がってゆく物語は、必然、大きなカタルシスを生む。「名作誕生秘話」はその点で、高い満足度が保証されているも同然なジャンルなのである。映画関連書籍だと、例えば『2001:キューブリック、クラーク』、『ザ・ゴッドファーザー』、『砂の器 映画の魔性 監督野村芳太郎と松本清張映画』、『メイキング・オブ・スター・ウォーズ 映画誕生の知られざる舞台裏』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード 口述記録集 血と汗と鉄にまみれた完成までのデス・ロード』あたり、どれもページをめくる手が止まらない面白さだ。
その意味で、『高畑勲と「火垂るの墓」─「幻の脚本」と「7冊の構想ノート」を読み解く─』は、そうした「名作映画メイキング本」の系譜にも確かに連なりつつ、類書とはいささか異なる感触でもある一冊、とは言えるかもしれない。前述したような言わば「約束されたハッピーエンドに全てが収斂されてゆく」物語化とはむしろ一線を引き、逆に、「なぜ高畑勲は『火垂るの墓』を“このかたち”にしようと考えたのか?」という問いを、掘り起こされた資料と改めての関係者取材から、一歩ずつ「遡って、探ってゆく」アプローチが取られているからだ。そしてそこには、高畑勲という作家の「難攻不落」ぶりが、大きく関係している。
言わずもがなアニメーション史に屹立するこの巨人は、盟友にしてもう一人の巨人・宮﨑駿とは対照的に、基本的に「自ら絵は描かない演出家」である。その名作群の異常な完成度は、もっぱら彼があらかじめ構築した、鉄壁の論理とビジョンによってもたらされたものなのだ。
驚くべきは、特に高畑勲の場合、そこに迷いの過程のようなものが、いっさい見えてこないことだ……それこそメイキング的な種明かしや「物語化」を良しとしない徹底した作品主義を貫いたこと、舌鋒鋭い理論家だったことも手伝って、少なくとも彼の中では最初からいきなり答えが出ているかのように、我々には感じられてきた。分析したり論じたりする対象としては、やはり「難攻不落」たる所以だ。
大量に遺された作品資料がこれでもかと展示されていた2019年の「高畑勲展」を経てもなお、その印象は強まる一方だったのだが……実はその中に、貴重な新発見が含まれていた。題名にもある「7冊の構想ノート」である。「原作に忠実な映画化」を常に心がけていたという高畑勲が、野坂昭如の短編小説を、どのような思考のプロセスを経てアニメーション映画に翻案していったのかが、ここには克明に記録されている。「最初からいきなり答えが出ている」わけでは、もちろんなかったのだ!
原典をひたすら読み込み、吟味し、その本質をアニメーション映画というメディアを通して最も効果的に伝えるためにはどうすべきなのか、繰り返し繰り返し、問い直す。その中からついに、ノートも4冊目となったところで、原作のどこか突き放した視線を見事映画的に表現した、高畑勲版「火垂るの墓」最大の発明とも言うべき「幽霊の清太」が、初めて登場する……これ以上ないほど真っ当に創作へと向き合う姿勢があればこそ到達できた、「正解」。この「種明かし」にはやはり、間違いなく後世のクリエイターたちの糧にもなろう、創造行為の真髄が詰まっているように思う。
さらに本書は、結果的に採用されなかった深沢一夫脚本や、色付けが間に合わず線画のみのシーンを含んでいた初公開時の上映フィルム(しかも、その時に得た手応えが後の「かぐや姫の物語」などの手法へと繫がっていった、という高畑勲本人の言葉まで)も追って発掘し、検証を加えてゆく。映画研究として、画期的な成果であることは言うまでもない。
「火垂るの墓」ラスト、我々が暮らす「現在」を黙って見つめる兄妹の魂のように、本書もまた、結局この作品をどう解釈するか? という問いを、ひとつの答えに収束させず、読者の側にもあえて、投げかけてくる。「問い続ける」ことこそ、高畑勲が本作に託したものだったのだから……この丹念で誠実な調査が、改めてそれを、明らかにしてみせたのだ。
(らいむすたーうたまる ラッパー、ラジオパーソナリティ)
波 2026年7月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
ずっと「火垂るの墓」を意識してきた
4歳と14歳で、戦火を生き抜こうとした──。野坂昭如の小説を、高畑勲はどうやって映画にしたのか。新資料で明かすドキュメントを、「わたしの知らない子どもたち」の公開を控える映画監督が手に取った。
もう「火垂るの墓」がやっている
初めて映画「火垂るの墓」を観たのは大学生の頃だったでしょうか。本書『高畑勲と「火垂るの墓」─「幻の脚本」と「7冊の構想ノート」を読み解く─』のオビにある「二度と観たくない傑作」は言いえて妙ですよね、当時同じように思いました。そして高畑勲監督が1988年にこういう作品を作られた価値は、本当に高いと改めて感じています。
10月に新作映画「わたしの知らない子どもたち」の劇場公開を予定しています。過酷な戦後を生きる女生徒と教師の物語で、戦災孤児がテーマです。ですからずっと「火垂るの墓」は意識してきました。「火垂るの墓」という金字塔があるのに、それ以上のものが必要だろうか。ましてや戦争を知らない自分が「火垂るの墓」以上のリアリティや、影響力のあるものを作るのは難しいのではないかとも思いました。
なかなか映画は見直す勇気が持てませんでしたが、「高畑さん」「火垂るの墓」のキーワードを見るたびに記事を読み、高畑さんの言葉をよく読むようになりました。なかでも出身地・岡山市での講演で口にされた、「あれは反戦映画ではないということをずっと主張してきました」(2015年)という言葉にとても驚いたんです。
本書もこの高畑さんの「反戦映画ではない」がひとつの軸になっていて、その真意に迫ろうと、著者でNHKディレクターの寺越陽子さんがいろんな関係者の方に尋ねていきます。
「作品のテーマは何ですか」
本書を読んだ後、寺越さんがかつて高畑監督の「かぐや姫の物語」の制作現場を長期取材したドキュメンタリーを拝見しました(「高畑勲、『かぐや姫の物語』をつくる。~ジブリ第7スタジオ、933日の伝説~」2014年)。その冒頭がとても印象的です。
「かぐや姫」でどんな画を、どんな映画を作ろうとしているのか、と寺越さんが直接尋ねます。すると長椅子であおむけに身体を倒した姿勢の高畑監督がこう答えます。
「そんなの分かるわけないでしょう。そんなこと考えるわけ? 監督って」
「どんな映画ってどういう意味」
そして「偶然これになっちゃったというだけだから」という発言も出てくる。映画を作る人間として、私にも同じように感じられることがあります。ベールに包まれた高畑さんからこんな無防備な本音を引き出すまでに、寺越さんがどれぐらいちゃんとカメラを回したか。このディレクターよく頑張ったなと思いました。
映画監督は作品が完成すると「この作品を作ったきっかけは」「伝えたいメッセージは」と必ず聞かれて、そこでお客さんにも入ってもらわなきゃ、とか思いながら監督としてそれらしい言葉をひねり出すんですが、ほんとはそんなことを考えながら始めてないよな、というのが正直なところです。
もっとこういう画を撮りたい、こんな事が起きたら人間がどうなるか知りたい。端緒は本当にささやかなものです。映像の作り手、物語の作り手としての単純な欲求ですよね。社会的意義なんか意識せず、自らの表現欲求や好奇心がひとつ湧き出したところから、色々調べていくうちに、様々な背景や時代、人間そのものについて同時に考えざるを得なくなって、結果的に社会性を帯びていたりするわけです。
だからこそ、「反戦映画ではない」と自ら仰っていた高畑さんの正直さや繊細さは、作り手として信頼できるのです。
では高畑さんの端緒は何だったのか。本書にも書かれていましたが、高畑さんは2人の兄妹がいかに死に向かっていったかを閉じた世界の中で描く「心中もの」を、アニメーションで描くという表現上の野心があったと仰っていた。そこから始まった作品が「反戦もの」として捉えられていくことへの違和感や罪悪感も、ご本人の中にはあったのではないでしょうか。
もっと過酷な戦争体験をした、高畑さんよりも上の世代の方々に対して、自分が戦争を描くということへのおこがましさも語っておられた。「戦争の悲惨さを描いた代表作」のような大きな言葉で語られていくことへの抵抗感もあったのかもしれません。
アニメと実写の大きな違い
アニメーションは絵によって、架空の世界や過去の風景も具現化されます。今では実写映画でもCGでの再現力が発達しましたが、1980年代の日本で戦争をリアリスティックに描くのは、アニメだからこそできたことでした。
「火垂るの墓」が私の作った映画と大きく違うのは、子どもが暴力を受けたり、飢えて痩せ細ったりという表現があることです。子どもが空襲の火の中を逃げ惑って、焼死体を見たりする表現は、実写映画としては非常にきつい。それがリアリティだとしても、そのショックは観客に何をもたらすのだろうかと考えてしまいます。
さらに実写映画では生身の人間を演出しなければならない。生きてる子どもをあばらが浮くほど瘦せ細らせるのは不可能です。現存する人と働く上で、安全上ブレーキをかける線引きが実写の世界では必要ですが、アニメなら生々しさを省くことも可能なので、悲惨な光景も観客が受け止められる塩梅で表現できます。そこが野坂昭如さんの原作小説をアニメーション化した、非常に高い意義だなと思います。
私の場合は映画を撮り終わったあとに原案小説で、実写映画では描けないことを書いたつもりです。
アニメだったから描けた戦争の景色がある。美しい絵や愛らしい描写で辛い物語もなんとか観られる。そしてアニメだからこそ親と子どもで観る機会も得られるということも含めて、「戦争」の一面を知る作品としてはやはり最適とも思います。
でも「火垂る」って、救いがないですよね。やりきれないところで終わらせている。そこが現代の作品には踏み切れない、素晴らしいところです。
本書のなかで寺越さんは、脚本家の深沢一夫さんがお書きになったけれども採用されなかった「幻の脚本」について検証しています。深沢脚本は、原作小説では「農家」とだけ出てくる人物に「吾作」という名前を与えていた。吾作は、清太と節子に少しだけ優しくしてくれ、エンディングではふたりが暮らしていた横穴を訪れる。命を落としてしまった兄妹を見つめる大人もいたという、温かい視点を描いていたわけですが、高畑さんは自ら書いた脚本でそれらを切っていった。救いのない結末に落とし込んでいった。
それは高畑さん自身が、戦中から戦後にかけて大人の言うことが180度変わっていき、それに対する怒りを体感した世代だからこそだと思います。本当は優しい大人もいた、みたいな筋立ては腹立たしいファンタジーに見えたのかもしれない。
その腹立たしさを公開当時、1988年の大人たちはまだ共有できたのかもしれません。でも今はその感覚はもう実感しづらくて、あまりにつらい結末は「二度と観たくない」、さらに「戦争ものはもういや」となっていくのだろうとも感じています。
いまリレーをしていかなければ
でも、それで本当にいいのかな、とも考えるんです。気が重いなと思いながらも、「火垂るの墓」をみんなで観て、黙り込むことに意味があったのじゃないのかなと。誰も観なくなった果てのこの国ってどうなるんだろうかと。
大きな戦争の過去を持つ国に住みながら、自分の国の加害も被害も知らない時代が来つつあることを感じています。であれば、後から生まれた世代が何かのリレーをするしかない。
そう思ったことが、それでも自分で映画を作ってみようというモチベーションになったかもしれません。
そしてやっぱり高畑さんの言葉に励まされもしたんです。あるインタビュー記事では、悲惨な目に遭ったことを語り継いだところで、戦争は防げないということをはっきり仰っていました。さらに、そこに感動みたいなものを載せていくというのは、全然違うだろうってかなり厳しい言葉で語っておられた。
そういう言葉に支えられて、あの戦争の惨状をいかにリアルに再現するかよりも、どうやったら次の世代に伝えていけるかにチャレンジしようと思うようになりました。戦争ものを観たくない人に観てもらうための表現、私の映画を観たことで、次は別の映画も観てみようとか、この本も読んでみようとつながるステップにしてもらえるような作品にしたいと考えたんです。
でもふと、生きるって、そんなにいいものなんだろうか、とも思うんです。ただ生存するだけのことが重要だろうかと。「火垂るの墓」の根本にはその暗い問いがあり、ひやりとします。多くの人は、多くのものを押し殺して、生き延びることに腐心しながら黙々と現実を生きています。生きづらい時代になったとよく言いますけど、どんな時代もそうなのでしょう。高畑さんの映画、宮崎駿さんの映画には主人公が野山を駆け巡ったり、空を自由に飛んだり、生きる喜びを絵にしたようなシーンが多く出てくるけども、生きてるっていいな、この地球って素晴らしいって感じる瞬間は現実の人生にはなかなかありません。あのお二人だってずっと朝から晩まで、ほとんど小さな机に向かっていて、ご自身が作品の中で描いたような生活はされてないんじゃないですか(笑)。
だから映画で生命の輝きを描くんだとも思います。その表現のなかで、生きることへの憧れを作家は描き、観客はもう一回思い出させてもらうという。そこに高畑さんのような優れた作家のお仕事があるのだと思います。
この『高畑勲と「火垂るの墓」』を読んだことで、いい振り返りの機会をいただきました。
(にしかわ・みわ)
波 2026年8月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
寺越陽子
テラコシ・ヨウコ
NHK首都圏局ディレクター。1980年、金沢市生まれ。日本大学芸術学部卒業後、フリーランスを経て東北新社入社。2018年にNHKに入局。2025年8月にETV特集〔火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート〕を制作・放送。主な作品にスタジオジブリの長編〔かぐや姫の物語〕の制作過程から劇場公開まで約2年半を記録した〔高畑勲、『かぐや姫の物語』をつくる。~ジブリ第7スタジオ、933日の伝説~〕(2014年)、〔養老センセイとまる〕(2017年)をはじめとする〔ネコメンタリー 猫も、杓子(しゃくし)も。〕シリーズ、ノーナレ〔川崎サウスサイドラップ〕(2019年)、同〔屋根裏のちばてつや〕(2020年)などがある。『高畑勲と「火垂るの墓」─「幻の脚本」と「7冊の構想ノート」を読み解く─』が初の著書。

































