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空海

高村薫/著

2,640円(税込)

発売日:2015/09/30

  • 書籍

空海は二人いた。民間信仰に息づく弘法大師を含めると、つまりは三人か。

劇場型宗教リーダーとして、国土経営のブルドーザーとして生き、死しては民間信仰の柱として日本人の心を捉えてやまぬ男。わが国の形而上学の基礎を築いたのみか、治水事業の指揮まで執った千二百年前のカリスマ。一人の人間にそれを可能にしたのは一体何だったのか――。空海の足跡を髙村薫がカメラ片手に辿る思索ドキュメント。

目次
初めに

第1章 千二百年の時空を遡る
不思議な明るさをもつお山/「幽地」の原初の姿に迫る
第2章 私度僧の時代
官吏への道をなげうって/全身に「明星」が飛び込んできた/仏教的直観を「言語化」するために
第3章 入唐
狭き門をくぐり波濤を越え/密教の発想と曼荼羅への衝撃/滞唐二年、見るべきものは見つ
第4章 空海、表舞台に躍り出る
最澄との埋めがたい溝/鎮護国家の修法を行うカリスマとして/言語で世界を創造する/身体体験に裏打ちされた言語宇宙/曼荼羅こそ即身成仏の証明
第5章 二人空海
社会事業家としての顔/カリスマ説法と深遠な経論との落差/高野山へ――巨星の最期
第6章 空海、弘法大師になる
真言密教の空洞化/神格化された空海/浄土信仰の霊場として
第7章 高野浄土
貴族たちは高野山を目指す/高野聖とお大師さん
第8章 祈りのかたち
お不動さんと現世利益ヘの希求/死や病を抱えてお大師さんと出会う路/「空海」が「空気」になった
第9章 再び高野へ
山それ自体が祈りの対象に/オウム真理教はどこで間違ったか
第10章 終着点
ハンセン病患者と大師信仰の深いつながり/時代に追い越されて/民衆の中で息づく空海
終わりに

特別対談
参考・引用文献/取材協力者一覧

書誌情報

読み仮名 クウカイ
発行形態 書籍
判型 A5判
頁数 192ページ
ISBN 978-4-10-378408-1
C-CODE 0095
ジャンル 文学賞受賞作家、宗教
定価 2,640円

書評

空海が現代人ならと想像させる書

南直哉

 自慢話めいた言い草になって恐縮だが、以前、私は著者の大作小説のモデルだと思われていた時期がある。『新リア王』『太陽を曳く馬』の主人公の禅僧の様子が私にソックリだと、多くの人たちから言われたのだ。
 それはそれで驚いたが、しかし、作品が私に与えた衝撃は、モデル云々などというレベルのものではない。そこに開陳されていた、我が曹洞宗の祖、道元禅師の主著『正法眼蔵』に対する読みの深さと強度だった。
 いつかまたお目にかかって、さらに突っ込んだ話を伺いたいものだと思っていたら、著者が空海上人について書くのだという。これにまた驚いた。実は、私にも空海上人に思い入れがあったからである。
 私は、日本の仏教史上、その思想の構造的独自性とインパクトにおいて、空海、法然、親鸞、道元の四祖師に過ぐるはない、と考えている。とりわけ、空海上人と道元禅師はまさに好対照である。
 超越的な理念や絶対神的存在を現実世界の根拠に置いて、その世界に存在するものの構造全体を説明する思想を形而上学というなら、日本において初めて形而上学を持ち込み、それを理論的に体系化したのが空海上人だと、私は考える。そして、その影響は彼以後の様々な思想的言説に対して抜群かつ絶大であった(今なおである)。
 彼が導入した密教は、大日如来という超越者が人間たる修行僧と修行の果てに合一するというパラダイムを持つ。空海上人はこれを「即身成仏」として理論化した。
 この理論は、根底にアニミズム的心性を保持している日本の思想風土に極めて馴染みがよかったのである(「現人神」の存在と「ありのままの世界がそのまま仏の世界である」的言説の大量発生)。
 おそらく、法然、親鸞、道元、日蓮など、鎌倉時代の仏教革新運動の担い手たちは、淵源が空海上人である思想(天台本覚思想)への挑戦者として、その強力無比な縛りを断ったのだ。
 特に道元禅師は、仏教の核心である「観無常」の立場を決してゆずらず、さらに形而上学を持たない日本的心性を背景に、あらゆる形而上学的言説を拒否して、いわば形而「外」的な視点を確保しながら、独自の体系を構築した。その思想的態度は、まさに空海上人の対角線上にあるだろう。
 このような筋書きの読みは浅薄かもしれないが、本書に見る捌きも鮮やかな空海上人の思想解説は、私の読みも満更的外れでもないと思わせてくれた。
 今回著者の描き出す空海上人の全体像に触れて、私が特に感慨深く思ったのは、空海上人が現代人だったら、あるいは出家しなかったのではないかということだ。
 法然、親鸞、道元などの祖師は、現代にあっても出家しただろうと思える。彼らにはどこかに実存の「苦」に対する痛覚がある。それが彼らを遂には出家に導くような気がする。
 しかし、空海上人の場合、「苦」によって出家したようには、どうしても思えない。熱烈な「絶対的真理」への情熱と、それに到達する方法への渇望を胸に秘める、空前絶後の「万能の天才」が、それを実現する場を当時にあっては仏教以外に見出しえなかった結果の行為、それが彼の出家に見える。羽目を外して言えば、もし彼が現代人なら、桁違いの「天才マルチクリエイター」などと言われるような人物になったのではないか。
「お大師様」として、歴史上の人物がこれほど広汎に信仰されてきた事実からして、私は彼のカリスマが、単に仏教僧侶の範疇に納まるものとは思われない。
 最後にあえて蛇足を言わせていただければ、その空海上人を観る作者の眼は、当の空海上人の、さらにその向こうを観ている気がする。真理の、仏教の、あらゆる言説の彼方。強引な我田引水をお許しいただきたい。私は、著者の観る彼方に、釈尊も道元禅師も観たに違いない、「実存」の無常があると思うのだ。

(みなみ・じきさい 禅僧)
波 2015年10月号より

インタビュー/対談/エッセイ

空海を追い求め21世紀の日本を視る

高村薫

――読者の多くは、阪神淡路大震災のあと、大阪在住でもある高村さんが作風を変えた、端的に言えば仏教の世界に近づいたんじゃないかと感じているようですね。『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』の三部作でも、主人公は禅宗の僧侶だった……。
○仏教的世界観に私が接近した、というよりも、むしろ「いのち」への接近だったように思います。「いのち」というものは論理だけでは捉えられない。まして数式に落とし込むことなど出来ようはずもない。その「いのち」に接近する方法として宗教があったということです。宗教の中でも、キリスト教でなく自ずから仏教を選んでいたというのは、仏教の方がより「いのち」に近い、という点が大きい。西洋の一神教というものは、あくまで世界を作った創造主を中心とした信仰です。宇宙的な巨大なものから微細なものまで、あらゆる「いのち」を包含することが出来るとなると、やはり仏教しかないんじゃないか。大震災のあと、そういうふうに考えるようになったんです。

――本書の、空海が書き残した文章を読み解く件りを読んでいて、目の付け処がとても高村さんらしいと思ったのは、空海が密教の奥義や自らの神秘体験を「言語化」すべく、もがき続けていたという指摘です。
○空海は「言葉の人」だったと思います。中国語も日本語同様に自在に操れた語学の達人だったし、手紙類を含め膨大な著作を遺した文字の人でもある。文字の人が、同時に、文字の届かない神秘体験をする――この二つの全く相容れない世界が、一人の人間の中に存在しているんですね。彼は自らの神秘体験と、同じ自分の中にある言語とを結びつけようとする、またそうせざるを得ない。言葉で言い当てて初めて、神秘体験はなにがしかの意味をもつからです。だけどこれは完全には出来なかった。最終的には、言葉の論理を飛び越えるほかない。つまりどうしても飛躍があるということですね。神秘体験や密教の世界は、そもそも言葉で表し尽せないものだけれど、言葉でもって接近しようとする努力、言語の運動、それこそが宗教的言語であるはずだと私は思うんです。この点で空海は、非常に真面目な宗教者であった。
 残念なことに、言語化してゆく努力は終生続くのだけれど、結局は貴族を含めた一般人からなかなか理解してもらえなかった。そうして彼の一代限りでこの努力も終わってしまう。空海が死んで何が残ったかというと、それは密教の儀式なんですね。目に見える儀式や作法。言葉の運動よりも宗教儀礼の方が残ってしまったということです。

――さらに驚いたのは、本書第5章です。「空海は二人いた。そうとでも考えなければ説明がつかない」という件りがとても鮮烈でした。
○能力を開花させた分野が多岐にわたっているため、どれが本当の空海かと戸惑うかもしれませんが、空海本人の中では何も矛盾がないんです。間違いなく彼が天才だと思うのは、普通の人なら艱難辛苦するだろうことをいとも簡単にやってのけてしまうところ。実務的才覚に恵まれている一方で、仏道修行では神秘体験まで起こす、つまり修行のセンスも十分だった。そして、仏教で得た世界観をきちんと朝廷の政の場で活かす才能までもっている――本当に幅広く何でも出来た天才だったわけですけれど、それは一代限り、あまりにも偉大だったから弟子が育たなかったんですね。空海の死後、教団の内外でその存在は次第に忘れられてゆくのですが、教団の生き残りのためには、やはり何か仕掛けが必要だったんでしょう。七、八十年経ってから突然、空海は生きているのだという「入定信仰」なるものが現れる。ですから生前の空海と死してのちの空海とは、完全に切り離された別の存在である――二人の空海とはその意味です。

――死してのちの空海は、日本人の信仰のメカニズムに今なお脈々と息づいていますね。お遍路さんであったり、現世利益追求型であったり、形は様々ですが。
○現世利益を求めるから日本的で、大衆的で、近代的なものだということではないと思います。確かに成田山新勝寺で車の御祓いを受けるといった一面もあるけれど(笑)、もっと奥深いところで、お山を拝むとかご来光を拝みに出かけるといった神祇信仰が日本人の心の底に刻まれている。ということは、日本人はもともと非常に宗教的な民族であって、そこが我々の精神の基盤となっているわけです。空海もまた、そうした日本古来の宗教的基盤から出てきた人だった。すると彼は、うんと分かりやすく言えば、そうした日本列島の神様と、仏様をくっつけたと言うこともできる。この基盤がなければ、空海が生まれ変わってお大師さんとなり、今日まで千二百年にわたって信仰を集めるということもまた、なかったと思うんです。

――本書は、二〇一五年現在の宗教シーンにまで筆を及ぼしてあります。元オウム真理教信者にインタビューしている件りには興味をそそられました。
○カルト教団が出てきた八〇年代は、反理性の方向、つまり現実に背を向けて神秘的なものに救いを求める方向に全世界が傾いていた時代です。だけどそこには言葉が欠けていた。空海が力を注いだ言語化という行為は、世界をちゃんと言葉で説明するという近代精神にもつながるものですが、オウムにはそれがない。もっとも、現代ではそうした神秘性への希求すら消えかかっていますけれど。

(たかむら・かおる 作家)
波 2015年10月号より

著者プロフィール

高村薫

タカムラ・カオル

1953(昭和28)年、大阪市生まれ。作家。1990年『黄金を抱いて翔べ』でデビュー。1993年『マークスの山』で直木賞受賞。著書に『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』『空海』『土の記』等。

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