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ひとりでカラカサさしてゆく

江國香織/著

1,760円(税込)

発売日:2021/12/20

書誌情報

読み仮名 ヒトリデカラカササシテユク
装幀 “Friendship”(C)Marie Gudme Leth, Designmuseum Denmark/装画、Pernille Klemp/Photo、PPS通信社/Photo、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 231ページ
ISBN 978-4-10-380811-4
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 1,760円

ほしいものも、会いたい人も、ここにはもうなんにもないの――。胸に迫る長編小説。

大晦日の夜、ホテルに集まった八十歳過ぎの三人の男女。彼らは酒を飲んで共に過ごした過去を懐かしみ、そして一緒に猟銃で命を絶った。三人にいったい何があったのか――。妻でも、子どもでも、親友でも、理解できないことはある。唐突な死をきっかけに絡み合う、残された者たちの日常。人生におけるいくつもの喪失、いくつもの終焉を描く物語。

書評

心象の風景で織られた家族と時代の“タペストリー”

河尻亨一

「人は死ぬと風景になる」。学生の頃、ある文化人類学者の著作を読んでいて、こんな一文に出くわしたことがある。どういうことだろう? わからないながらも気になり続けたフレーズだが、本作にはその深みが描かれていると感じた。人はこの世におサラバしても、残された者たちの“心象風景”の中で生き続ける。
 物語の冒頭はミステリーのようだ。大晦日の夜、東京駅近くのホテルに集った三人の男女が心中を遂げる。部屋に持ちこんだ猟銃を用いて……。事件の当事者である篠田完爾、重森勉、宮下知佐子の三人は、1950年代の終わりに、ある美術系出版社に勤めたことで知り合い、会社が潰れたあとも学生時代のサークル仲間のような濃密なつき合いを続けていた。
 三人の家族(子供・孫)や知人(元部下・教え子ら)は戸惑いを隠せない。いずれも八十歳を超えた老人たちが、なぜ、そんな「とっぴょうしもない」ことをしでかしたのだろう? 理由がわからないだけに、やるせなさもつのる。本作では、そんな喪失感を抱えた九人の親類縁者による断片的ストーリーが、パラレルにつむがれていく。
 残された者たちは、亡き人たちの「存在」をそれぞれの記憶の中から探し出そうとする。九人のエピソードはバラバラのようでいて、根っこの部分でつながっている。記憶と記憶がリレーされる中で、在りし日の三人の姿が、ホログラムのように浮き上がってくる。物語として綴られた“家族アルバム”を眺めているような気持ちにもなる。
 しかし、亡き人への温度感と距離感は、人によってまるで異なる。たとえば、篠田完爾の息子・東洋にとって父親は、不可解な人物に思えて仕方がない。「孤独なマイホーム人」として描かれるこの会社役員には、彼の親世代の人々が、ときに家族関係以上に重んじる“同志愛”がわからない。父とともに逝った親友二人の縁者との関わりも避けたがっている。
 一方で、孫の葉月は、祖父の行動がわかるような気がしている。アンデルセン研究のためデンマークに留学中の彼女は、祖父が亡くなって以来、その存在を「常に身近に」感じており、空想の中で語りかけるようになる。宮下知佐子の孫で小説家の踏子や、知佐子と疎遠になっていた朗子(知佐子の娘)とのやりとりも重ねる。
 篠田完爾、宮下知佐子と違って、重森勉には家族がいなかった。出版社を辞めた重森が創業した会社の社員だった河合順一は、元社長のために奔走し、ほぼ面識がなかった三人の親類縁者同士をつなごうとする。そんな河合が経営する小さな雑貨店を、篠田完爾の娘・翠(東洋の妹)が不意に訪れ、この出来事について語り合ったりもする。
 このように“在りし人の不在”に対する九人九様の「アングル(視線)」と「フレーム(人生観)」が、作品内を行き交いながら、彼ら自身の現在も写し出される。物語の後半からは、登場人物たちもパンデミックの世界に投げ出されるが、そんな現実社会とは別次元にあるかのごとく、ホテルのロビーに集った三人のその日の光景が、ときおりフラッシュバックのようにインサートされる。
 物語を走る縦糸と横糸。交錯する自己と他者、そして死者。その接点に照らし出されるスライス・オブ・ライフ。読み進めるにつれ、ふと気づく。登場人物たちの心象風景が一枚の布のように編まれていることに。そこに織りなされる“人間模様”は、まるで北欧調のタペストリーだ。どことなく静寂で、ときによそよそしいまでにクールだが、そこはかとないぬくもりもあるような。
 描かれるのは人間模様だけではない。福寿草、八手、コスモスといった作中に描かれる花や植物は季節の移ろいを感じさせる。特製ミートパイや桜の葉で〆た小鯛、和菓子の「あも」、釜あげしらす弁当など、食べ物はおいしそう。こうした生命感のオブジェたちが、彼らの喪失感を癒すかのように、“布”の上に周到にデザインされている。そう思うとこの小説は、どことなく宗教画のようだ。
 本作を「世代間の断絶」と「つむぎ直される連帯」の物語として読むこともできるだろう。三人の死が示唆するのは、ひとつの時代の終焉だ。死を目前にして、重森勉はしみじみこう語る。「俺は二人に感謝してるよ。いや、今回のことだけじゃなくて、ずっとさ、あんたがたみたいなのとおなじ時代を生きられてよかったと思ってる」
 人と一緒に時代も逝く。ラウンジで三人が話題にする童謡の情景のように、カラカサさして、雨の中を。残された人々は虚しい思いにとらわれるが、やがて陽がさして、すべてが懐かしい風景に変わっていく。

(かわじり・こういち 編集者)
波 2022年1月号より
単行本刊行時掲載

寂しさも悲しみも、ゆくあてのない思いも

大島真寿美

 八十代の男女三人が大晦日の夜、ホテルの一室で猟銃自殺を遂げる。
 と書くと、まずその激しさに驚かされるだろう。なにしろ猟銃だ。年齢もさることながら、なぜ、三人で? なぜホテルで? と困惑せざるをえない。いうにいわれぬ、なにか特別な事情があったのだろうか、彼らはそれほど追い詰められていたのだろうか。どれほど苦しかっただろうか。そんなことを、おそらく思ってしまうだろう。
 遠い昔、彼らは、同僚として知り合い、その後、仕事が別になろうとも、六十年以上の長きに亘って、折々に会っては、語らい、遊び、かけがえのない時間を共にしてきた。そうして、この世を去るとき、去ると決めた、その最後の瞬間を、共にすることになる。
『ひとりでカラカサさしてゆく』というこの小説は、この三人の老人の大晦日の一夜(刻々とその瞬間が近づいていくまで)と、三人の死後、影響が及んでいく遺族や友人、知人たち、数多くの人々の生活が交互に描かれる。あからさまな影響もあるし、ささやかな影響もある。意外な影響も、順当な悲しみ、喪失感、悔い、そんなものもたくさん描かれる。
 わたしたちのいる世界は、こんなふうにきちきちと絡み合い、ことごとく影響しあっている、と小説を読みながらわたしはうなずく。目に見えないつながりがいたるところにはりめぐらされていて、わたしたちはその網の目のような中に生きている。そこから逃れることはできない。
 この小説が素晴らしいなあ、と思うのは、それが神の視点から語られていないところだ。どうだ、と高いところから俯瞰したものを見せられるのではなく、一人一人の、かけがえのない視点からそれが語られることだ。地面に近いところからそれを見せられて、なんともいえず愛おしいような、せつないような気持ちになる。わたしもその世界にいる一員であるから、ああ、わたしもこんなふうに生きているのだ、としみじみする。江國香織さんはそのために、とても慎重に丁寧に語る。小説を書いている江國さんと、書かれている人の距離がいつもきちんとしている。三人称で語られる人物と一人称で語られる人物がいて、それでも自在に語ってしまえるのは、その距離をいつもいつも自覚しているからではないかな、と思う。そういうことを疎かにしていないからこそ、この繊細な物語世界がみごとに立ち上がってくるのだと思う。ミステリーのジャンルで信頼できない語り手、というのがあるけれど、この小説を読んでいると、信頼できる書き手、という言葉がよぎる。
 そうして、少しずつ読みつづけていくうちに、やがて、わたしの前に大きく立ち現れてきたもの、それは、猟銃自殺した三人の老人たちの人生のきらめきなのだった。もうこれで人生を終わりにしようとしている人たちが(それも猟銃自殺で!)、でもとても、輝いてみえたのだった。長い時間生きてきた、その、生きてきたという、その事実そのものこそが、まさしく光り輝いていて、寂しさも悲しみも、ゆくあてのない思いも、みんなひっくるめて、わたしはここにいたのよー! って叫んでるみたいに思えた。叫んで、といっても悲痛な叫びではなくて、含み笑いのようなものがまじった、静かでやわらかな、輝く声。このおじいさんもこのおばあさんも、もちろん長い年月を生きてきたからこその重さがあるのだけれども、その年月を経たからこそ、また、たどり着けた軽やかさもあって、それぞれがそれぞれの人生をしっかりと抱えたまま、でもそれを超越して死んでいこうとしている。そう、彼らは、三人で死ぬことにしたのだけれども、でも、やはり、ひとりでカラカサさしてゆくのだ。
 生きることと死ぬことは、ひとりでカラカサをさしていくことなのだと、そして、それは彼らのことだけではなくて、遺された者たちも、むろん、わたしもそうなのだと噛みしめずにはいられない。
 人生の渦中にいると、いったいここはどういうところなのだろうと、よくわからなくなることは多々ある。ここにたしかにいるということを、見失いそうになる。
 わたしはここにいたのよー、という、あの輝く声に照射されて、ここという場所がみえる気がする。死ぬということと生きるということが分かち難く絡み合ったこの場所について語られた小説だとわたしは思う。

(おおしま・ますみ 作家)
波 2022年1月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

江國香織

エクニ・カオリ

1964年東京都生まれ。1987年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞、1989年「409ラドクリフ」でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年「犬とハモニカ」で川端康成文学賞、2015年『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』で谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『ちょうちんそで』『彼女たちの場合は』『去年の雪』など多数。小説のほか詩やエッセイ、翻訳も手掛けている。

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