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王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―

よしもとばなな/著

1,210円(税込)

発売日:2002/08/22

  • 書籍

目に見えない「大きなもの」に包まれ、守られて生きる女の子の物語。それはあなたの物語。待望の書下ろし。

最高のものを探し続けなさい。そして謙虚でいなさい。憎しみはあなたの細胞まで傷つけてしまうから……彼女は小さな山小屋におばあちゃんと暮らしていた。おばあちゃんが日本を離れることになり、一人で山を下り都会へ移り住んだ。不思議な男性占い師との出会い、そして妻のいる男との恋。人生が静かに動きだす。彼女の、美しく、はかない魂のゆくえ。

書誌情報

読み仮名 オウコクソノイチアンドロメダハイツ
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 136ページ
ISBN 978-4-10-383403-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,210円

インタビュー/対談/エッセイ

波 2002年9月号より 〔インタビュー〕 よしもとばなな 名前と「王国」と子どもの話   ■名前をかえました ■知らない人、知っている人 ■童話的な手法と「暗い話」 ■主人公の雫石と不倫について ■アンドロメダ・ハイツと王国 ■出産までのこと。それからのこと

よしもとばなな


名前をかえました

名前を変えるのは、以前から考えていたことなんです。「吉本ばなな」という名前でデビューするとき、「中年期からはその名前はよくない」って人から言われたり、本で調べてみてもいいことが書いてなかった。じゃあ中年期っていったいいつからなんだ? っていうのもわからなかったし、その頃はまだ血気盛んな若者だったので(笑)、そんなのどうでもいいや、という気持ちでした。それにもし結婚して苗字が変ってしまったら、吉本家には男の子がいないし、なんとなく「吉本」という名前を残したほうがいいかな、と思ったこともあります。
いよいよ変えようと思ったきっかけは、私に子どもができたことです。生まれるのはまだしばらく先ですが、名前をどうしようかっていろいろと姓名判断をみているうちに、子どもには男でも女でもどっちでもいいような名前は用意できたんだけど、ついでにと思って自分の名前をみてみたら、やっぱりよくない。私の本名はいいんですよ(注:吉本真秀子)。だけど「吉本ばなな」だと、本人ばかりじゃなくて、夫や子どもの健康運が悪くなるとか、トラブルが続いて本人も周りも神経をすり減らす、と書いてあったんで「今だ!」と思って。
五部作になるか六部作になるかわからないこの『王国』という小説を境にして、どうしても名前を改めたかった、というのでもなかったんです、実は。一冊目だけ名前が漢字というのもちょっと格好わるいかなとは思いましたけど。いままでに出してきた本や文庫については、とりあえず変える必要はないんじゃないかと思ってますし、それほど思いつめた話でもないんです。

知らない人、知っている人

二年前に出した短編集『体は全部知っている』で初めてやってみたのは、「知らない人たち」のことを書く、ということでした。それまでは、自分が共感できる人、私が「知っている」ような人を小説のなかに呼び出して書いていたんです。自分で書きながら、お互いに自然にわかりあえるような存在を。ところが、ほとんどが書下ろしの短編集を一冊書くことになって、今度は自分の知らない人たちを書いてみようかと思ったんですね。知らない誰かを呼び出して、インタビューをするようにして、その人たちが言っていることやっていることを引き出して書き写す。その書き方で一冊書き通してみたら、知らない人のことも書けるんだ、というのがわかりました。面白い経験でした。
それからは、私の小説には知らない人が次々と出てくるようになったんです。知らない人たちが、私の知らない場所で何かをやっている。そのうちに気がついたら、自分とは本来は共感できないような人たちについて書く小説が増えてしまって、なんだか彼らの生き方をつぎつぎと見せられては、それを追いかけて書かなきゃならなくなってきた。最近どうもそれが少しつらい感じ、楽しくない感じになっていたんです。
そして、今度の小説『王国』を書くということになったとき、もう一度、自分にとっていちばん気楽でわかりあえる人たち、知っている人たちを書いてみたくなってきた、というわけです。

童話的な手法と「暗い話」

いちばん気楽でわかりあえる人が出てくる小説というのは、たとえば『アムリタ』のような小説なんです。でも『アムリタ』のときは、文芸誌で毎月二年間連載するという、毎月やってくる締めきりがつらくてしかたがなかった。それに『アムリタ』は失敗したな、と自分では思っているんですね。だから同じことを同じようには書けない。それじゃあ『王国』はどう書いていけばいいのか、とあれこれ考えたんです。
そして、童話的な手法で書いてみたらどうだろう、というのが今回の結論。「童話的」と言っても、童話そのものじゃなくて、私にとっての童話的な手法ということなんですけど。「童話的」というのをもう少し説明すると、たとえばこういうことですね。まず、語り手の一人語りであること、物語のなかでかならずありふれた事件が起こること、直接的でなくとも全体に哲学的な要素を含んでいること。だから私にとっての「童話的」は、現実的じゃないつくり話、という意味でもないんです。
具体的な事件はこれからも毎回かならず起こります。だけど、偶然では起こり得ないような事件が、ストーリーの進行にあわせて都合よく起こる、というような安直なやり方だけはやめようと思ったんです。例えば主人公のおばあちゃんがいかにものポイントで死ぬとか。そうすれば物語として盛り上がるのはわかっているんだけど、今回はそういうのはやめようと思いました。
文章もそうですね。まわりくどい言い方だったり、省略していたり、同じことを何回も何回も繰り返したり、文法的にちょっと変だったり、普通だったらもっと磨きあげないといけないようなところをどう直さないか、を心がけるのが大変でした。『王国』は特殊な人物の語りによって成り立っている小説なので、文章として稚拙でも、「この人が言っていることなんだから」と思って、その感じを残すようにしました。言葉遣いがどこか変であるがゆえの世界というか、その変な感じをそのまま押し進めていくうちに広がってくる世界というのがあるはずなんですね。「おや? これはさっき語ったかのう?」というようなのが語りの世界でよくあるでしょう。精神としては、そういうものを生かすということですね。
子どもの頃に読んだ何話も続くシリーズって、今読み返してみても驚くほど暗い話が多いんですよ。子どもがこんな暗い話を夢中になって読むのか、っていうぐらい。『王国』もある意味ではすごく暗い話かもしれません。その暗さを、主人公の明るさで何とか持たせているのかもしれない。
童話的というのは言い方を変えれば寓話的とも言えますが、寓話って出てくる人物がちょっと極端な感じになっているでしょう。だからいろんなことを言わせやすいんです。そういう点では、南米の小説にはいつも逆立ちしてもかなわないと思う。日本の自然はあんなに過酷じゃないし、政権が突然軍事政権になっちゃうということもない。私は日本に生まれたからそもそも無理なんだけど、イサベル・アジェンデとかオクタビオ・パスとか、あの人たちの使う言葉には一生太刀打ちできないな、と思います。でも私は日本に生まれたんだから、日本人なりのやり方で書いていくしかないとは思ってます。

主人公の雫石と不倫について

主人公の女の子の名前、雫石というのは多肉植物からとった名前です。サボテンのような多肉植物は昔から好きでした。長く一緒にいると、お互いがわかりあえるところがあるんです。サボテンとは気持ちが通じ合っているなっていう感じ。日当たりのいいところに引っ越してから十年以上、サボテンとはずっと一緒です。『王国』の一話目はサボテンが出てくる話にしようと最初から決めていました。サボテンのことは昔から好きでしたから『王国』のために特に調べたことはあまりありません。伊豆高原にあるシャボテン公園には取材に行ってきましたけれど。小説にはこの公園のこともでてきます。
彼女が山奥でおばあちゃんとふたりで暮らしていて、おばあちゃんと別れて山を下りて、都会で暮らし始めるという物語も、いま都会で普通に当たり前と思って暮らしていることへの批判もこめたかったんです。私だって、今日から突然、山奥でムカデやヤスデと一緒に暮らせ、っていわれても無理だろうけど。でも都会で暮らしていると、幾ら何でもこれはないんじゃないかっていうようなことがあまりにも多い。やっぱり異常ですよ都会って。ますますひどくなってきたような気がする。
『王国』に登場する人たちの人間関係には、テレビシリーズの「Xファイル」の影響もありますね。「Xファイル」の面白さっていうのは、主人公の男女が簡単にはくっつかないところなんです。いろんな不思議な出来事があるうちにお互いの信頼感が強くなっていく様子を、もう夢中になって見てましたから。
私のまわりの人たちを見ていると、不倫っていうのは結局、都会で忙しく仕事をしているという状況がなかったら起きようにも起こらない関係がほとんどなんじゃないかって思うんです。状況で不倫をしているようにしか見えない。学生時代に夏に合宿に行って、そこでつき合い始めたというような。都会で毎日夜遅くまで働いていなかったら、この人たちって本当につきあっていたのかなあ、というのが多いですよ。
雫石の場合も不倫といえば不倫だけど、変わり者同士が、やむなくつき合いはじめるという感じなので、簡単にくっついてというのとはちょっと違いますね。今回の第一部で出会った彼らが今後どうなっていくのかはわかりませんけれど。

アンドロメダ・ハイツと王国

第一部のタイトルは、イギリスのグループ、プリファブ・スプラウトのアルバムからとりました。表題曲の歌詞も小説の冒頭に全文引用させてもらいました。
第一部のモチーフはひとつには主人公が慣れ親しんだ家をなくしてしまうことで、もうひとつは、世の中からちょっと外れたような人たちが、目には見えない「家」のような何かをともに築き上げるということだったんです。小説に出てくるあの人たちにとって、このタイトルしかないだろうと思って。「アンドロメダ・ハイツ」はまさにそういう歌ですから。
「憎しみはあなたの細胞まで傷つけてしまう」っていう、本の帯とかにも引用された小説のなかの一節は、本当のことらしいですよ。あいつが憎い、と思い詰めてしまうと、細胞はそういう負の感情のエネルギーをそのまま自他の区別なく受けてしまうから、人も傷ついてしまうし、自分の細胞にも傷がつくらしい。刺し違えるっていうのか。そういう恐ろしいことみたいです。
ただ、やっぱり童話みたいな感じで書いているから、そういうアフォリズム的なことも気楽に書けるところはありますね。普通の大人たちがでてきて、それぞれにいろんな大人の都合があって、現実的で飛躍がないままに進んで行く小説だと、なかなかそういう言葉は馴染まないし、言えないです。寓話的なものだからこそできるわけで。書き方の方法というのは、やっぱり全体から細かいところまで大きな影響力を持ってくるんで、最初の設定が大事だなと思いますね。

出産までのこと。それからのこと

妊娠してからはお酒が飲めなくなりました。お酒が飲めないとやっぱり人生は楽ですね。どれだけたくさんの時間が奪われていたかがよくわかりました。それから私はずっと動物好きで、子どもも動物もそんなに違わないだろうと思っていたら、みんな「犬や猫とは違うのよ」って言うんです。でも動物と一緒に暮らす責任感はやっぱりそんなに違わなかった。今はお腹の中にいるか、外にいるかの違いだけであってね。本当に生まれて間も無い小さな猫を拾って、寒いときなんかは体温が下がらないように胸元にくるみこんでいたり、夜一緒に寝る時はどうするか、なんていうのは散々やってきたことだけど、そういうのは、人間だから猫だから、という問題でもないと思う。ただ、お腹の内側に生命があるという状況、その感覚は物凄いことだと思いますね。目に見えないものをケアするというのは。ストレスを溜めるととたんに「やめてくれ」って苦情がきますから。ひしひしとその信号を全身で感じて、あ、いけなかったなあ、と思って休んだりしてます。 
つわりもけっこうひどくて大変でした。一度はちょっとあぶないのかな、という時期もあったんです。でも全体で十五%ぐらいは流産するそうです。これからもその可能性はあるんだけど。そういうこともあり得ると一応覚悟はしていたし、今でもしています。三十八歳ともなると、どういうことがあったとしても、何かそういうことだったんだろうな、と思えますしね。年齢的に成熟していないと、こういういろいろなことがとても受け入れられなかったんじゃないかと思います。
私の親も八十近くなって、姉も結婚してないし、私もこういう感じだから、家族で一緒にごはんを食べていてもなんだか食卓が暗かったんですよ(笑)。何かだんだん寂れていく感じというか。親も寂しかったんじゃないかな。二十代の頃は親も私も全然そんなふうには感じていなかった。親も元気で私も元気で。なんだかしみじみしちゃって最近は。年老いた両親と年老いた姉と年老いた自分がしんみりとごはんを食べていると、ここに何かがないともう駄目だな、という感じでしたから。あのムードは自分が歳をとるまでは絶対にわからなかった。もちろん、そのために子どもを産もうと思ったわけじゃないけど、でもあの喜び方っていうのはすごいですね。なんだかんだと言っても、待ってたんだなって思って。
第二部がいつ書けるのかは、こういう状況なので私自身がいちばん知りたいくらいです。どの程度子どもに手がかかるのか、いつ頃からワープロのスイッチをオンにできるようになるのか、ちょっとわからないですものね。子どもの性格にもよるし。現実に産んでみないと何もわからない。私も早く書きたいんですけどね。この前、銀色夏生さんにいろいろと話を聞いたら、今は産まれるまでのこと以外は考えちゃ駄目だって。産んだ後のことなんかはその時になってから考えるようにって言われました。すばらしい言葉だ!
そう言えば、妊娠する前に不思議な夢を見ましたね。それは海の夢でした。何回も何回も繰り返し海の夢を見たんですよ。イルカなんかもでてきたりして。その時は、なんで海の夢なんて見るんだろうとずっと不思議だった。海の夢は結局、妊娠したということがわかるまで続きました。わかってからは不思議でもなんでもないけれど、それまではなんだろうって不思議でしようがなかったな。


▼よしもとばなな『王国―その1アンドロメダ・ハイツ―』は、発売中

著者プロフィール

よしもとばなな

ヨシモト・バナナ

1964(昭和39)年、東京生れ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1988年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、1989(平成元)年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、『TUGUMI』で山本周五郎賞、1995年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアでスカンノ賞、フェンディッシメ文学賞〈Under35〉、マスケラダルジェント賞、カプリ賞を受賞。近著に『吹上奇譚 第一話 ミミとこだち』『切なくそして幸せな、タピオカの夢』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた単行本も発売中。

よしもとばなな公式サイト (外部リンク)

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