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ベージュ

谷川俊太郎/著

2,090円(税込)

発売日:2020/07/30

  • 書籍

18歳のとき、詩人は湧き上がる言葉を大学ノートに書き留めた。あれから70年――。

文字でも声でもない詩を/伝書鳩のように虚空に放ってみたい/詩はどこへ飛んで行くだろうか――第一詩集『二十億光年の孤独』以来、つねに第一線で活躍する詩人が、未収録の作品から自ら選び、書き下ろしを加えた31篇。誕生と死。時間。途上の感覚。忘却の快感。声のひびき――88歳の傑作詩集。

目次
あさ
香しい午前
退屈な午前
イル
この午後
その午後
にわに木が
階段未生
この階段
路地
十四行詩二〇一六
日々のノイズ
詩人の死
明日が
新聞休刊日
川の音楽
人々
夜のバッハ
六月の夜
泣きたいと思っている
蛇口
「その日」
窓際の空きビン
汽車は走りさり わたしは寝室にいる
顔は蓋
朕
色即是空のスペクトラム
何も
裸の詩
言葉と別れて
詩の捧げ物
どこ?
あとがき

書誌情報

読み仮名 ベージュ
装幀 新潮社装幀室/ブックデザイン
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 112ページ
ISBN 978-4-10-401807-9
C-CODE 0092
ジャンル 詩歌
定価 2,090円

書評

ことばは水だから

朝吹真理子

 人と人が距離をとるようになってしばらく時間が経った。直接人と会うことが極端に減って、最初に感じたのは、においが乏しいことだった。それがいいのか悪いのかは別にして、人と会って外に出ていると、いろんなにおいがする。マスクをしていることも関係しているのかもしれないけれど、においがなくなって、それがさびしかった。ついこのあいだまで、握手をしたり、言葉を交わしたりして、常在菌を交換して生きていたのに、急に、そういうことが悪いことのように思われている。家にいて、じぶんのにおいしかないのは、最初は安心したけれど、すぐに心許なくなった。外からやってくることばも減っていた。かといって、ニュースをみるのも疲れる。ことばは水のようで、外と内とを行ったり来たり、通り抜けて、言葉の流れができてゆく。ことばにたえず新鮮な水が流れるには、言葉を発したり受け取ったりする必要がある。
 家にいる時間が長かったときに、本書をひらいた。読んでいると、部屋に、道ができる。誰かの朝に遭遇したり、能舞台の橋がかりを歩く、幽霊かもしれない老人をみているような気持ちにもなった。ひとがたずねてきたり、蛇口からひねる水の滴りをきいたり、ときにはいまは誰もつかうことのない「朕」という一人称が詩になってあらわれたりする。ふしぎな詩だった。朕と称していた中年男性が、后と狆と暮らしていた。いろんな声がきこえていて、家のなかにいるけれど、道がふえて、迷子になったような気持ちにもなる。それは不安な迷子ではなくて、迷えるのが楽しい道だった。
 冒頭の「あさ」という詩は、くちにして読んだ。ひらがなが、ころころ舌のうえで転がるのが心地よかった。新鮮な水をたくさん飲んでいるような気がしていた。それぞれ文字には、音の顔があると思うけれど、ひらがなだと余計に、音の顔立ちがはっきりみえるような気がする。著者はそれを「文字にして書く以前にひらがなのもつ『調べ』が私を捉えてしまう」と書いていた。黙読していたとしても、音は目からもきこえる。

 めがさめる
 どこもいたくない
 かゆいところもない
 からだはしずかだ
 だがこころは
 うごく

(「あさ」) 

 どんな生きものも滅ぶことだけは決まっている。それはとても平等なことだと思う。平等は優しくはない。「文字も自然から生まれた植物の一種ではないか」と著者の詩にあったけれど、意味を追わず、文字と余白の動きを、ただながめたりもしていた。意味がほどけてとけて、水になってこちらにむかって、流れ出してくるようだとも思った。生活のなかに溶け込んでいた。湯をわかす、お茶を飲む、『ベージュ』を読む。ネットニュースでは、ひっきりなしに感染者数とか死者の数、「死」をおそろしく書きたてていて、憂鬱になった。脅かされる死と、いま私がとりあえず生きていることには、おおきな隔たりがあるように感じるから怖かった。

 川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると
 生まれる前から死んだ後までの私が
 自分を忘れながら今の私を見つめていると思う

(川の音楽〔十四行詩二〇一六〕) 

「川の音楽」は、いなくなるさきのことを読んでいるような気がしていた。本当は死はいつも生活の傍らに流れていて、距離があるわけではないことも思い出す。遠ざけようとするから怖くなる。私を構成している原子は、すぐにばらけて、また違うなにかへと受け渡されてゆく。そうして巡っているだけだと思うと、ほっとする。
 詩集のタイトルは、「ベージュ」で、著者の年齢は米寿。ベージュは染めていない羊毛の色だ。その生成りは、「裸のことば」にも呼応している気がした。音がもたらす遊びも楽しい。

(あさぶき・まりこ 作家)

波 2020年8月号より
単行本刊行時掲載

谷川俊太郎さん朗読動画

著者プロフィール

谷川俊太郎

タニカワ・シュンタロウ

(1931-2024)1931年東京生まれ。1952年第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。以来8000を超える詩を創作、海外でも高い評価を受ける。数多くの詩集、エッセイ、絵本、童話、翻訳があり、脚本、作詞、写真、ビデオも手がける。1983年『日々の地図』で読売文学賞、1993年『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞、2010年『トロムソコラージュ』で鮎川信夫賞、2016年『詩に就いて』で三好達治賞など。その他の作品に『六十二のソネット』『ことばあそびうた』『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『よしなしうた』『はだか』『私』『ベージュ』『虚空へ』など。2024年、92歳で逝去。

判型違い(文庫)

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