
ベージュ
506円(税込)
発売日:2024/11/28
- 文庫
- 電子書籍あり
弱冠18歳で詩人は産声を上げた。以来70余年、谷川俊太郎は私たちと共に在り続ける。
虚空に詩を捧げる/形ないものにひそむ/原初よりの力を信じて(「詩の捧げ物」)。弱冠18歳でのデビューから70余年。谷川俊太郎の詩は、私たちの傍らで歌い、囁き、描き、そしてただ在り続けた。第一詩集『二十億光年の孤独』以来、第一線で活躍する谷川がくりかえし言葉にしてきた、誕生と死。若さと老い。忘却の快感。そして、この世界の手触り。長い道のりを経て結実した、珠玉の31篇を収録。
あさ
香しい午前
退屈な午前
イル
この午後
その午後
にわに木が
階段未生
この階段
路地
十四行詩二〇一六
日々のノイズ
詩人の死
明日が
新聞休刊日
川の音楽
人々
夜のバッハ
六月の夜
泣きたいと思っている
蛇口
「その日」
窓際の空きビン
汽車は走りさり わたしは寝室にいる
顔は蓋
朕
色即是空のスペクトラム
何も
裸の詩
言葉と別れて
詩の捧げ物
どこ?
あとがき
解説 斉藤壮馬
書誌情報
読み仮名 | ベージュ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 吉實恵/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 128ページ |
ISBN | 978-4-10-126627-5 |
C-CODE | 0192 |
整理番号 | た-60-5 |
ジャンル | 詩歌 |
定価 | 506円 |
電子書籍 価格 | 506円 |
電子書籍 配信開始日 | 2024/11/28 |
書評
ことばは水だから
人と人が距離をとるようになってしばらく時間が経った。直接人と会うことが極端に減って、最初に感じたのは、においが乏しいことだった。それがいいのか悪いのかは別にして、人と会って外に出ていると、いろんなにおいがする。マスクをしていることも関係しているのかもしれないけれど、においがなくなって、それがさびしかった。ついこのあいだまで、握手をしたり、言葉を交わしたりして、常在菌を交換して生きていたのに、急に、そういうことが悪いことのように思われている。家にいて、じぶんのにおいしかないのは、最初は安心したけれど、すぐに心許なくなった。外からやってくることばも減っていた。かといって、ニュースをみるのも疲れる。ことばは水のようで、外と内とを行ったり来たり、通り抜けて、言葉の流れができてゆく。ことばにたえず新鮮な水が流れるには、言葉を発したり受け取ったりする必要がある。
家にいる時間が長かったときに、本書をひらいた。読んでいると、部屋に、道ができる。誰かの朝に遭遇したり、能舞台の橋がかりを歩く、幽霊かもしれない老人をみているような気持ちにもなった。ひとがたずねてきたり、蛇口からひねる水の滴りをきいたり、ときにはいまは誰もつかうことのない「朕」という一人称が詩になってあらわれたりする。ふしぎな詩だった。朕と称していた中年男性が、后と狆と暮らしていた。いろんな声がきこえていて、家のなかにいるけれど、道がふえて、迷子になったような気持ちにもなる。それは不安な迷子ではなくて、迷えるのが楽しい道だった。
冒頭の「あさ」という詩は、くちにして読んだ。ひらがなが、ころころ舌のうえで転がるのが心地よかった。新鮮な水をたくさん飲んでいるような気がしていた。それぞれ文字には、音の顔があると思うけれど、ひらがなだと余計に、音の顔立ちがはっきりみえるような気がする。著者はそれを「文字にして書く以前にひらがなのもつ『調べ』が私を捉えてしまう」と書いていた。黙読していたとしても、音は目からもきこえる。
めがさめる
どこもいたくない
かゆいところもない
からだはしずかだ
だがこころは
うごく
(「あさ」)
どんな生きものも滅ぶことだけは決まっている。それはとても平等なことだと思う。平等は優しくはない。「文字も自然から生まれた植物の一種ではないか」と著者の詩にあったけれど、意味を追わず、文字と余白の動きを、ただながめたりもしていた。意味がほどけてとけて、水になってこちらにむかって、流れ出してくるようだとも思った。生活のなかに溶け込んでいた。湯をわかす、お茶を飲む、『ベージュ』を読む。ネットニュースでは、ひっきりなしに感染者数とか死者の数、「死」をおそろしく書きたてていて、憂鬱になった。脅かされる死と、いま私がとりあえず生きていることには、おおきな隔たりがあるように感じるから怖かった。
川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると
生まれる前から死んだ後までの私が
自分を忘れながら今の私を見つめていると思う
(川の音楽〔十四行詩二〇一六〕)
「川の音楽」は、いなくなるさきのことを読んでいるような気がしていた。本当は死はいつも生活の傍らに流れていて、距離があるわけではないことも思い出す。遠ざけようとするから怖くなる。私を構成している原子は、すぐにばらけて、また違うなにかへと受け渡されてゆく。そうして巡っているだけだと思うと、ほっとする。
詩集のタイトルは、「ベージュ」で、著者の年齢は米寿。ベージュは染めていない羊毛の色だ。その生成りは、「裸のことば」にも呼応している気がした。音がもたらす遊びも楽しい。
(あさぶき・まりこ 作家)
波 2020年8月号より
単行本刊行時掲載
谷川俊太郎さん朗読動画
著者プロフィール
谷川俊太郎
タニカワ・シュンタロウ
(1931-2024)1931(昭和6)年、東京生れ。1950年「文學界」に「ネロ他五篇」を発表して注目を集め、1952年に第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。以降、数千の詩を創作、海外でも評価が高まる。多数の詩集、エッセイ集、絵本、童話、翻訳書があり、脚本、作詞、写真集、ビデオなども手がける。1983年『日々の地図』で読売文学賞、1993(平成5)年『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞、2010年『トロムソコラージュ』で鮎川信夫賞、2016年『詩に就いて』で三好達治賞を受賞。ほか詩集に『六十二のソネット』『夜のミッキー・マウス』『虚空へ』、翻訳書に『あしながおじさん』『スイミー』『マザー・グース』、また尾崎真理子との共著『詩人なんて呼ばれて』など、著書多数。