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もうすぐいなくなります―絶滅の生物学―

池田清彦/著

1,430円(税込)

発売日:2019/07/16

  • 書籍

生物の99%はすでに絶滅。人類はいつ絶滅する? その後は牛の天下!?

過去約6億年の間に、6度起きている生物の大量絶滅。はたして、絶滅しやすいのはどんな生物? 環境が激変したら、我々もやっぱり死に絶える? 人類亡きあと栄えるのはなんで牛? ネアンデルタール人は今もしぶとく生き延びていた? もうすぐいなくなってしまう数々の実例を紹介しながら、生命、そして進化の謎を解き明かす。

目次
はじめに
第一章 「強制終了」のような絶滅
これまでに、生物の大量絶滅は六回起きている/生物の絶滅を引き起こす「超大陸」/大きな隕石が落ちると何が起こるか/七六億にまで増えた人類は何によって絶滅するのか/スノーボールアースがきっかけで、多種多様な姿の動物が出現した/絶滅するのも絶滅しないのも「偶然」/「絶滅」するから「進化」する
第二章 「絶滅」にはさまざまな理由わけがある――「絶滅」と「進化」の関係
ゾウはなぜ衰退したのか/「びん首効果」と遺伝子の絶滅/種同士のコンペティションで最強の「絶滅圧力」を発揮するのが人間/ネアンデルタール人がホモ・サピエンスと競合して敗れたのはなぜか/他者がしていることに共感する能力の有無/なぜ古い種は新しい種にコンペティションで負けるのか/人類滅亡後に地球で繁栄するのはウシ?/系統や種にも寿命がある?/生物は、死ななければ生きている/合理的な分類体系をどうやって決めるのか?/絶滅と進化を繰り返した三葉虫/起こりやすい突然変異と起こりにくい突然変異/アミメアリの不思議な生態/絶滅しないためのアミメアリの生き残り戦略とは
第三章 人間が滅ぼした生物と、人間が保護しようとする生物
五〇億羽もいたリョコウバトがわずか一〇〇年で絶滅/白人によって大量に殺戮されたアメリカバイソン/「中国産のトキは外来種ではない」というご都合主義/近親交配はなぜダメなのか/絶滅したオオカミを再導入したら、自然生態系は正常化する?/スペシャリストとジェネラリスト/絶滅しそうな種を養殖で増やすと犯罪になる!?/たくさんいるか全然いないかの両極端な種/減っている虫もいれば、増えている虫もいる
第四章 「絶滅危惧種」をめぐる状況
「レッドリスト」「レッドデータブック」とは/コウモリは哺乳類の中で絶滅しやすい生物の筆頭/島の鳥は絶滅しやすい/島の生態系は狭くて脆弱/湧水の減少による両生類の絶滅/“再発見”されて「絶滅」のリストから外れたクニマス/農薬の影響で激減した魚や虫/洞窟ごとに種が異なるメクラチビゴミムシ/「絶滅種と絶滅危惧種の宝庫」の小笠原
第五章 どのような生物が「絶滅」しやすいのか
ある場所の個体群が「絶滅」するということ/離島の生物が絶滅しやすい理由わけ/棲息域が小さい生物はつねに絶滅の危機に瀕している/近親交配と絶滅/三峡ダムによって絶滅に追い込まれたヨウスコウカワイルカ/トラの全体頭数はこの一〇〇年で九割も減少した/性を決定する仕組みのいろいろ/自然の中では「無敵」に近い親ウミガメ/絶滅しない絶滅危惧種/食用魚が絶滅危惧種になるような状況下で進む養殖技術/海洋の哺乳類や鳥類の絶滅危惧種/CITESがあるために、「害獣」であっても捕獲できない種
第六章 「絶滅」とは何か
種のレベルでではなく「絶滅」を考えると/交雑した系統・種の「絶滅」とは/生殖の様式によっても生物の絶滅のレベルは異なる/ホモ・サピエンス以外のヒトの種はすべて絶滅したが……/遺伝子レベルではネアンデルタール人もデニソワ人も絶滅していない/ネアンデルタール人との「交雑種」こそが、絶滅せずに生き延びた
あとがき

書誌情報

読み仮名 モウスグイナクナリマスゼツメツノセイブツガク
装幀 海道建太/装画、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 208ページ
ISBN 978-4-10-423112-6
C-CODE 0095
ジャンル 科学読み物
定価 1,430円

書評

「絶滅」という物語

養老孟司

 本のタイトルを見た瞬間、自分のことかと思った。むろん私は間もなく「いなくなる」からである。現代日本は人口減少で、ということはつまり生まれてくる人より、いなくなる人の方が多いということである。こういう時代に、絶滅に関する本が出るのは、時宜を得ているのであろう。子ども向けだが、丸山貴史著『わけあって絶滅しました。』も数十万部、売れているという。
 それにしても絶滅とは、極端な言葉ではないか。「絶」に「滅」が付いている。絶対に、なにがなんでも、いなくなりそうである。この言葉自体がどこか情動を刺激する。絶滅とはどういうことなのか。その連想はもちろん、そのまま自分自身の死にもつながる。
 子どもの頃に『モヒカン族の最後』という本の宣伝を見て、どうしても読みたくなった記憶がある。そこにはインディアンの少年が弓矢を持って何かを狙っている絵が描いてあった。この少年こそが「最後のモヒカン族」に違いない。「モヒカン族の最後」ではやや上から目線になる。あまりロマンチックではない。絶滅はやはり総論より各論が身につまされる。自分が絡んできてしまうからである。
 著者の池田清彦は、絶滅という主題を徹底して客観的に論じる。絶滅という言葉が含む情動性に気づいているからであろう。情動は科学ではない。科学の背後に動機として隠れているものである。絶滅するのはいったい何なのか。はたして遺伝子か、種か、大きな分類群か。恐竜なら、鳥になって生き延びてしまったではないか。絶滅を語る時、論者ははたして絶滅とは何を意味するか、明確に考えているだろうか。そこを池田は丁寧に、鋭く突く。
 著者がそうした問いを発すると、読者としての私はつい別なことを考えてしまう。絶滅とは、いうなれば時を乗り越えられないことである。でもそれは時間を客観的に、つまり「上から目線で」見るからではないか。生の時間そのものを考えれば、ただいま現在しかない。「俺は死んだなあ」と慨嘆するなら、慨嘆している本人は生きている。むろんこの自分からの目線は科学にはない。自分目線は現代科学では主観と言われ、消されてしまうからである。
 でも私は神様ではない。神でない自分が「上から目線」を採る。それを可能にしているのは、現代思想の背景が結局は一神教だからではないのか。そこでは神の目線が暗黙に前提されている。医学では患者は検査値の集合となり、病は統計値として扱われる。これはまさしく神の目線というしかない。だから現代の医師は患者の余命を宣告する。それは神のみぞ知るはずなのに。
 しかも、とヘンな思いが続いて生じてしまう。絶滅や進化は時間の中で起こる。でもそれを叙述するのは言葉である。かつて池田自身、「科学とは変なるものを不変なるものでコードする」ことだと喝破した。言葉は「不変なるもの」である。時間とともに変化しないからである。私の書いた原稿はいつまでも残っている。その不変なるもので、変なるもの、すなわち時間とともに変化するものを記述する。それはそもそも可能なのだろうか。言い換えれば、そこでは何が可能で、何が不可能なのか。
 本を読むには時間がかかる。書くのにもむろん時間がかかっている。この二つの時間はたがいに、いわば具体的に相応している。だから私はそこには問題を感じない。でも進化や絶滅という、記述の中で論じられている時間は、人生から思えば、とてつもなく長い。その時間はどこにあるのだろうか。
 それは意識の中にあるというしかない。日本列島は千五百万年くらい前に成立したらしい。でもその時間は意識の中にしかない。これも時間に関する神様目線のように思えてくる。もちろん地質学者は年代測定を行い、化石や石ころを探してきて、こうした年代を「確定する」。でもそれはどういう意味で「確定」なのだろうか。
 べつに私はゴネようと思っているわけではない。進化論がいわば百家争鳴みたいになるのは、深層に含まれた時間の問題ではないだろうか。時間の中に生起する出来事を扱う時に、われわれの意識が発明した唯一の方法が物語なのではないか。だから人は歴史を書き続け、しかもそれはつねに物語に終る。進化もまた同じに違いない。
 歳のせいか、近年そんなことを想ったりするのである。

(ようろう・たけし 解剖学者)
波 2019年8月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

池田清彦

イケダ・キヨヒコ

1947年生まれ。生物学者。東京教育大学理学部生物学科卒、東京都立大学大学院理学研究科博士課程生物学専攻単位取得満期退学、理学博士。著書に『「頭がいい」に騙されるな』など多数。

判型違い(文庫)

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